海底
BOA-ヴォア
上へ上へ
その海は、まだ春の匂いを残していた。
波の下に、音のない空がある。
そこに、彼女は眠っていた。
朽ちた鉄の花弁が、海流に撫でられて揺れる。
誰もいない海底で、ただひとつ、金属の骨が微かに震える。
その震えは、風のようでもあり、歌のようでもあった。
——太陽に会いたい。
彼女の胸の奥で、焦げた記憶がゆっくりと目を覚ます。
---
かつて、空が割れた日があった。
白い光が海を裂き、世界を燃やした。
それでも彼女は進んだ。
誰よりも美しく、誰よりも重かった。
背中には幾千の声を背負い、心臓の奥で、ひとりの少年の祈りを抱いていた。
——帰ろう。
その声が聞こえた気がした。
だが、帰る場所はもうなかった。
海の上は火の色で満ち、空は沈黙に包まれた。
燃え落ちる翼、崩れる塔、遠ざかる光。
最後に見たのは、黄金の太陽だった。
それは彼女を焦がし、溶かし、海へと沈めた。
---
今も、深い闇の底で彼女はその光を探している。
青黒い海水がゆっくりと体を包む。
鋼の腕はすでに錆び、装甲の一部は珊瑚に覆われた。
それでも彼女は時折、片手を伸ばす。
指先に触れるのは、泡と微かな塩の粒。
太陽は遠く、届かない。
だが、彼女は諦めなかった。
「あなたは、まだ上にいますか」
声にならない音が、水を伝って消えていく。
誰も答えない。
けれど、その静寂がまるで返事のように感じられた。
---
夜になると、海の底にも“朝”が来る。
光ではなく、記憶の朝。
彼女の中で眠っていたエンジンが、遠い夢を回す。
かつて、彼女は空を映す鏡のような海を進んだ。
あの頃の太陽は、すぐそこにあった。
波が頬を撫で、風が髪を揺らすように、
光は彼女の甲板を撫でていった。
甲高い笛の音。
飛び立つ翼の影。
空に散った約束。
誰もいなくなった世界で、彼女だけが覚えている。
あの光が、どれほど温かかったかを。
---
時折、海の上を船が通る。
その音は彼女の胸まで届く。
子どもの声、笑い声、電子のざらめ。
彼女は耳を澄ませ、心の奥で微笑む。
——もう、あの時代は終わったのね。
——でも、あなたたちはまだ太陽を見ている。
それが嬉しかった。
ほんの少しだけ、鋼の唇が動いた。
泡が一粒、浮かび上がる。
それは彼女の歌の欠片だった。
---
夜明け。
海面が赤く染まるとき、深い海の底まで光が届く。
彼女の胸の奥で、古い心臓がわずかに動いた。
錆びついた計器が、誰に向けるでもなく光った。
遠い記憶が、再び形を取り戻す。
——もう一度、あの空を。
彼女は手を伸ばした。
重い装甲を軋ませ、崩れかけた腕を天へ向けた。
海水がざわめき、珊瑚の花が散る。
その瞬間、太陽の光が彼女の指先に触れた。
ほんの、刹那。
鋼の影が微笑む。
音もなく、海底に光の粒が降る。
彼女はその光を握りしめるようにして、静かに目を閉じた。
---
光が消えても、歌は残る。
耳を澄ませば、潮の流れの向こうに微かな旋律が聞こえる。
誰も知らない言葉。
けれど、その響きは確かに人間のものだった。
——空は、まだ、青いですか。
その問いが、水の中に溶けていく。
魚たちが群れをなし、彼女の肩をかすめて過ぎる。
遠く、海面が輝く。
そこに、彼女の恋した太陽がある。
もう二度と届かない場所に。
---
それでも彼女は唄う。
沈黙の中で、鉄と記憶を揺らしながら。
胸の奥で鳴る音が、波と混ざり、風となる。
それは誰にも聞こえない。
けれど、確かに世界を撫でていた。
春になると、海はまた光を返す。
そのたびに、彼女の指がかすかに動く。
まるで、もう一度“出撃”しようとしているかのように。
しかし、その身体は動かない。
海は優しく、彼女を包み、静かに眠らせる。
上では、鳥が鳴いている。
新しい船が通り過ぎる。
誰も、下にいる彼女のことを知らない。
それでいい。
——太陽を見上げる者たちがいる限り。
---
海底の静寂の中で、最後の泡が浮かんだ。
それは、歌のようであり、祈りのようでもあった。
泡が光を帯びて昇っていく。
上へ、上へ。
いつか、その光が太陽に届くと信じて。
——その時、彼女はきっと笑うだろう。
海底 BOA-ヴォア @demiaoto
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