彼とカレーと私の出会い

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第1話 路地裏の出会い

彼は、カレーが大好きだった。


特に、給食で出てくるような甘くてとろみのある、じゃがいもがごろっと入った家庭的なカレーがたまらなく好きだった。

毎日食べても飽きることはなく、今日も朝から頭の中はカレー一色だった。


なぜこんなにも惹かれるのか、自分でもよくわからない。

ただ、好きに理由なんていらない。

それが彼の持論だった。


彼女とのデートでも、毎回カレーをねだった。

あまりに毎回なので、最初は笑って付き合ってくれた彼女も、やがて呆れ、そして去っていった。

別れの理由はいつも同じ——「カレーばっかりじゃ、つまらない」。


それでも彼は懲りなかった。

カレー一筋に生きてきたのだ。

だが、さすがに毎回フラれるのはまずい。

少しは変わらなければ、とぼんやり考えていたその日、ふと目に留まった路地裏の小さなカレー専門店。


古びた木の扉に手をかける。

どんなカレーに出会えるのか——そんな期待に胸を高鳴らせながら、彼はそっと店の中へと足を踏み入れた。


ふわりと鼻をくすぐる香辛料の香り。

深く、芳醇なカレーの匂いが店内に満ちている。


「これだ…」彼は思わずつぶやいた。

この香りこそ、彼の求めていたものだった。


彼にはひとつのこだわりがある。

初めて訪れるカレー店では、必ず「普通のカレー」を注文する。

奇をてらわず、店の基本の味を知ることこそ、その店の真価を見極める方法だと信じているからだ。


「すみませ——」と声をかけたその瞬間、店の奥から現れたのは、清楚な雰囲気をまとった女性だった。


そして彼はすぐに気づいた。

彼女もまた、カレーを心から愛する人間だった。


「お決まりですか?」


「この『カレーライス』をください」


彼女は目を丸くした。


この店では、ほとんどの客が看板メニューである『指定農家の作ったごろごろ野菜と柔らかお肉のとろっとカレーライス(五穀米)』を注文する。

SNSでも“隠れた名店”として話題になっており、特にインフルエンサーたちが絶賛するその一皿は、店の代名詞のような存在だった。


だからこそ、彼の「普通のカレーライス」という注文は、節約目的か、何も考えていないかのどちらかに思えた。

彼女はそう判断し、淡々と注文を受けた。


しかし彼にとって、“普通のカレーライス”こそが至高だった。

その店の本質を味わうための、彼なりの流儀でもあった。


数分後、彼女はトレーにカレーを載せて席へと向かった。


「お待たせしました。ご注文は以上でよろしいですか?」


彼は無言で頷き、目の前のカレーをじっと見つめた。


そのまま1分間、まったく動かない。

写真を撮るわけでもなく、ただ静かに佇んでいる。


周囲から見れば奇妙な光景だったが、彼女にはその意味がよくわかった。


目で見て、香りを嗅ぎ、全身で感じ取ろうとしている——目の前のカレーに対する、彼なりの敬意だった。


「あの人…」


彼女は思わず、彼の姿に釘付けになった。


彼は静かにスプーンを手に取り、ルーをすくって口に運ぶ。

その動きには一切の無駄がなく、どこか美しさすら感じさせた。


彼女は、完全に見惚れていた。


「この人かもしれない…」


そんな彼女の視線をよそに、彼は一口、また一口とルーを口に運んでいく。


そして、ルーを半分ほど味わったところで、今度はライスと一緒にスプーンを動かした。


最初はルーだけを純粋に楽しみ、次にライスとの調和を味わう。

カレーとライスは、皿の上でリンクするように、滑らかに踊るスプーンの動きに導かれ、静かに姿を消していった。


なんという無駄のない所作。

どれほどのカレーを食べてきたら、あのような動きになるのか。

もはや彼の“カレー捌き”は、達人の域に達していた。


彼女もまた、カレーを愛している。


その愛は深く、全国でもトップクラスの大学を卒業したにもかかわらず、彼女は迷わずこのカレー店を選んだ。

いつか“理想のカレー”、究極の一皿を作ることを夢見ている。


彼女の信念はこうだ——複雑に香辛料を重ねた技巧的なカレーよりも、シンプルで、老若男女問わず、誰の舌にも馴染む“大衆のカレー”こそが、究極のカレーである。


その理想のカレーを、理想の誰かに味わってもらいたい——そんな密かな夢も、彼女の胸の奥にあった。


そして今、目の前でカレーを食べる彼が、その「誰か」なのかもしれない。

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