蒼月に沈む都

炯~kay

◆プロローグ :荊棘の語り部

――荊棘けいきょくの館には、世界の影が語られる。


その夜、蒼い月が夜空を照らしていた。

雲の切れ間からこぼれた月光は、霧に溶け、街の屋根を淡く濡らしていく。

石畳の上を這うもやは、まるで誰かの息のように揺れながら、静かに夜を満たしていた。

幽かな霧が街を覆い、冷えた空気が子どもたちの頬を撫でていき、灯りがともるたび、霧の粒が金色に反射し、まるで小さな星々が地上に舞い降りたようだった。

その光の隙間を縫うように、子どもたちは影を伸ばしながら足早に走っていく。

けれど、“あの屋敷”――街外れの《荊棘の館》へ向かう小さな影たちは、どこか嬉しそうだった。


「今日はどんな話をしてくれるの、炯螺けいら様!」


子どもたちの声が霧を割る。

扉の向こう、淡く紫がかった灯の中に、白銀に淡い藤紫ふじむらさきを孕んだ髪の吸血種がいた。

その髪は夜の光を受けてきらめき、蒼い眼差しは静かな湖面のように澄んでいる。

炯螺は微笑む。

だが、その声は――魂を削る呪いの刃。

柔らかく、しかし触れれば確実に心を裂く。


「今日は、“忘れられた街のこと・・・・・・・・・”を話そうか」


その言葉に、子どもたちは息を呑んだ。

館の空気が少しだけ冷たくなり、灯火が小さくぼぅっと揺れた。

それでも、誰一人としてその場を離れようとはしなかった。

炯螺が手にしたのは、煤けた革表紙の古文書。

封蝋はすでに割られ、ページの縁は夜空の様に紺瑠璃こんるりに染まっている。

開かれた瞬間、古びた文字がかすかに光を放ち、

まるで過去の声が目を覚ますように、静かなざわめきが部屋を満たした。


「その街は、地図にはもう載っていない。

かつては星を集める都と呼ばれていた――“セレストリア”」


彼女が指を鳴らすと、部屋の灯がふっと消えた。

次の瞬間、闇の中に星々の幻が広がる。

天井も壁も消えたかのように、煌めく星の海が、子どもたちを優しく包み込んだ。

誰もが息を呑み、星を掴もうと手を伸ばす。

指先が触れる先には、確かに冷たい光の粒が漂っていた。


「セレストリアには、一冊の本・・・・があった。

その名も“世界を終わらせるための書”。

誰もが触れてはならぬその禁書を、ある日、一人の少女が開いてしまったんだ」

「……なんで?」と、前列の子がぽつりと呟いた。

炯螺の目が、ゆっくりとその子に向く。

その蒼の瞳は夜より深く、問いかけるように静かに輝いた。

「記憶というものはね、ときに甘い罠をかけるものなんだ。

少女は“失った何か”を思い出したかった……

その書は、彼女に“忘れていたはずの記憶”を見せたのさ」


その瞬間――星が流れた。

だが、それは“星”ではなかった。


光に見えたものは、よく見れば言葉だった。

古代語、呪文、祈り、記憶、罪、告白――

あらゆる“声”が、夜空に還っていく。

子どもたちは言葉に呑まれるように、炯螺の語りへと深く深く沈み込んでいった。

まるで夢と現の境を渡る舟に乗っているかのように、意識がゆっくりと夜の底へ沈み込んでいく。

炯螺の“物語”は、ただの読み聞かせではない。

それは、聞いた者の記憶を喰らい、“彼ら自身の罪”を暴き出す、語りの呪い。


――蒼い月が照らす夜。

忘れられた街の名を、あなたは思い出す・・・・・・・・

炯螺は最後に、そっと目を伏せた。

その指先が、ゆるやかに古文書の上をなぞる。

触れた瞬間、微かな音とともに古代文字が浮かび上がった。


「さあ、始めようか。“この中にいた”その少女の話を――」


誰かが、ごくりと小さく息を呑んだ音がした。

霧のように広がった記憶の星海が、ゆっくりと空間を歪めていく。


かつて、星を集める都に住んでいた、名もなき少女がいた。

少女は一つの記憶を探していた。

それは、世界が隠した“真実の言葉”。

炯螺の声が、遠く、遠くへと伸びていく。

まるで夜風に乗って、夢の果てへ届くように。


「少女は夢を辿り、書架都市アルカーニアへと旅立った。

 彼女の足元には影が這い、背中には言葉が降り注いだ。」


――そして、その物語は、

遥か遠く、ある一人の古代言語解読士の足跡と重なっていくのであった。


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