月が綺麗な夜に

深山心春

第1話

 まだ17歳。高校2年生の時だ。その子はとても騒がしい子だった。クラスでも中心にいていつも笑って誰かと一緒にいる。くっきりとした二重まぶたの瞳を細めて、大きな声で喋って笑う。

 クラス委員をしている僕からすれば、いつも「静かにしてください」と伝える役が回ってくる。厄介な相手だった。

「注意されちゃった」と笑ってこちらを見る君に、僕はため息で返す。君はぺろりと舌を出してみせたね。

 いつの頃からだろう、注意しなければと思いながら、君をみていたはずなのに、次第に、君の笑い声が耳に心地よくなっていた。

 甲高い声のはずなのに、なぜか耳に優しく届く。テスト前だと言うのにいつも勉強もせずに笑い転げている君を、呆れながらも、どこか微笑ましく見ていた。

 期末試験も終わったあの日。委員会が終わったらもう夕方の空は暗くなりかけ、空には月が浮かんでいた。

 急いで帰ろうとする僕に、君は声をかけてきた。

「あれ、委員長もいま帰りなの?」

 いつもと変わらない明るい声。僕は隣に駆けてきた君を見た。

「うん。委員会が長引いた。瀬尾さんは?」

「数学の赤点居残りテスト。委員長は赤点なんてないでしょう?」

「それは……ないな。お疲れさま」

 君はえへへと笑いながら、ありがとうと言う。

 僕は実は内心ドキドキしていた。君の甲高い笑い声が耳障りでなく、心地よくなったのはなぜだろうと常々考えて、ある考えに至っていたからだ。

「今度、勉強教えてよ」

「時間があったらね」

「えーっ! ケチなんだ」

「ケチじゃない。まず自分でも勉強して」

「実はこれでも勉強してるんだけどねえ。中々、成果が出ないんだなあ」

 歩きながら一緒に話すのはとても居心地が良くて、僕は笑った。君が一瞬、驚いたような顔をする。

「委員長。笑うんだね」

「そりゃ、笑うよ」

「いつもしかめつらして、静かにしてくださいって言うじゃん。でも笑ったほうがいいよ! なんか身近に感じる」

「……どうも」

 僕は少し口ごもって礼を言う。見上げる先には綺麗な満月。

「……月が綺麗ですね」

 思わずそう口にしていた。どうせ、知らないだろうと思ったから。君は一緒に空を見上げると、そのくっきりとした二重まぶたを細めた。

「ずっと一緒に月を見てくれますか?」

 だから、そう返された時には驚いて、足を止めて、まじまじと君を見つめた。

「返事は?」

 君がいつもよりは、抑えた声で尋ねる。

「それとも、他意はなかった?」

「えと……いいや……」

 そう言うと、僕の頬が赤くなったのを感じる。まじまじと見つめ返す君も同じく頬を染めて、それからにこっと花が咲いたように笑った。

「知ってる? 私、国語だけは、現国も古典も、委員長より上なんだよ。トップなの。本読むのも好きなんだ」

「それは……知りませんでした」

「どうせ意味なんて知らないと思って言ったでしょう」

「――はい」

 残念でした、と、君は笑う。僕はなんて返したらわからなくて、顔を両手で覆った。

「あ、照れてる。今頃になって」

「ほんと、ごめん。勘弁して」

「月が綺麗ですね」

 君は笑ってそう言うから、僕は、つぶやくような声で言う。

「今なら、手が届くでしょう……」

「やった……!!」

 君はそう言って腕を絡めてきた。その手はとても温かかった。僕は生まれて初めて、愛しいという気持ちを君から教わることになったんだ。

 

 あれから10年。今も変わらず君は僕の腕を繫いでくれている。

 大きなお腹を大切そうに抱えて、夜、歩道を一緒に散歩する君は、相変わらずの笑顔で甲高く喋る。僕は静かに頷きながらその隣を歩く。

 君は空を見上げて、目を細める。

「月が綺麗ですね」

「このまま、時が止まればいいのに」

 その時だけは敬語になるから、君の言いたいことはすぐに察しがつく。僕は、僕の気持ちのまま、素直に言葉を返した。

「今度は3人で月を見るんだから、時が止まったら困るよー」

 君は屈託なく笑う。

「それは、そうだね」

 僕は静かに笑う。腕にかかる重さと温かさを感じながら、けれど確かに、時が止まればいいと思ったんだけど――。

 子どもが生まれて、育って、巣立って。手に皺を刻んでも、今みたいに温かさと重さを感じられたら、と思い直した。

「今度は3人で散歩をしようね!」

「うん。そうしよう」

 手を搦めた。

 月は青白く、丸く、欠けるところもなく、僕たちの道行きを煌々と照らしているのだった。

 



 

 

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月が綺麗な夜に 深山心春 @tumtum33

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