第四部 隕石孔の賢者

 東の空が白み始め、砂漠の夜の冷気が薄れ始めた頃、リッセはカシウスをそっと岩陰に下ろした。追手を完全に振り切ったことを、彼女のセンサーが確認したからだ。

 だが、カシウスは、その場に崩れ落ちたまま、動かなかった。


「マスター……!」


 リッセは彼のそばに膝をついた。カシウスの体は、まるで焚き火の残り火のように熱く、浅く、荒い呼吸を繰り返している。イザラに刺された肩の傷口からは、おびただしい血が流れ出て砂を黒く染め、バルガスに蹴られた脇腹は不自然に腫れ上がっていた。肋骨が折れているのは明らかだった。


「マスター。応答してください。マスター!」

 リッセの声が、わずかに上擦った。


「……うる……さい……」


 カシウスは、血の泡を吹きながら、かろうじて目を開けた。視界が、熱で白く霞んでいる。傷口からの感染症と失血が、彼の命を急速に奪おうとしていた。


「……クソ……。まだ、死ねるか……」


 彼は、朦朧とする意識の中、自分を見下ろすリッセの顔を見た。

 彼女の紫色の瞳には、もはや平坦な光はなかった。そこには、カシウスが初めて見る、激しい「焦り」と「戸惑い」の光が、嵐のように渦巻いていた。


「マスターの体温、摂氏39.8度。バイタル、急速に低下。……どうすれば……」


 リッセは、自らの両手を見つめた。その手は、敵を効率的に「排除」するための黒曜石の刃にはなれる。だが、傷ついたマスターを「治療」するための機能は、何一つ実装されていなかった。


「私の機能には、医療行為は……。なぜ……なぜ、私は、あなたを救えない……!」


 リッセの声は、初めて、震えていた。彼女は、プログラムにはない「無力感」という名のバグに、苛まれていた。


 彼女は、咄嗟に行動した。

 その象牙のように滑らかで、石のように冷たい手のひらを、カシウスの燃えるような額に、そっと置いた。


「外部からの強制冷却を実行します。当機の体表温度は、外気温と同一です。マスターの体温を低下させるのに有効と判断します」


 それは、かつて彼が熱病で倒れた時と、同じ行動だった。

 だが、その意味は、もはや決定的に異なっていた。

 以前は、プログラムに従った合理的な「処置」だった。

 だが、今は。

 リッセは、カシウスの額を冷やしながら、もう片方の手で、自らが着せられた粗末なローブの裾を引き裂き、カシウスの肩の傷口を不器用ながらも必死に圧迫し、止血しようとしていた。


「死なないで……ください……。マスター」


 その声は、命令でも、懇願でもなく、ただの魂の叫びのように、カシウスの耳に響いた。


「……お前……」


 カシウスは、その冷たく、滑らかな手の感触と、必死なリッセの表情に、遠のく意識を必死でつなぎ止めていた。


(ああ……そうか……)


 彼は、自嘲するように笑った。


(俺は、こいつを守るために戦って、このザマか……。脆弱なのは……俺のほう、だったな……)


 妹への罪悪感は、もはや彼の心を占めてはいなかった。彼は、自分の意志で、この人形を……いや、リッセを守ることを選んだのだ。そして、その結果がこれだ。だが、不思議と後悔はなかった。


 ただ、この冷たい手が、これほどまでに心地よいとは。

 彼は、その冷たく、滑らかな手の感触に身を委ねるように、再び深い意識の闇へと落ちていった。


 ◇


 カシウスが次に目覚めた時、三日三晩が過ぎていた。


 熱は奇跡的に引いていたが、体は鉛のように重く、肩の傷はまだ激しく痛んだ。


 目の前には、リッセが静かに座っていた。彼女は、カシウスが眠っている間、一睡もせず(そもそも彼女に睡眠は必要ないのだが)、片時も離れず、ただ額に手を置き、傷口を監視し、彼を見守っていたのだ。


「……お前……」

「マスター。バイタル、安定軌道に復帰」


 リッセの声には、安堵ともとれる微かな揺らぎがあった。


「ですが、あなたは、やはり脆弱です」

 その言葉は、もはや非難や分析ではなかった。それは、カシウスという存在の「本質」を、リッセがただ受け入れた、という響きを持っていた。


「……そうだな。人間は、脆弱だ」

 カシウスは、乾いた唇で笑った。「だが……お前が助けてくれた」

 リッセは、何も答えなかった。ただ、その紫色の瞳で、じっとカシウスを見つめ返した。


 ◇


 その日の午後、カシウスが岩陰で浅い眠りと覚醒の間を彷徨っていた時だった。

地響き。それも、ただの岩盤のきしみではない、規則的な、何か重いものが大地を叩く音だった。


「マスター!」


 リッセの緊迫した声と同時に、目の前の砂が盛り上がり、巨大な影が太陽を覆った。


 黒曜石のような甲殻を持つ、巨大なさそり型の魔獣。〈大崩壊〉以前の、歪んだ遺伝子が作り出した、この砂漠の捕食者だ。その複眼が、獲物を見つけた喜びに鈍く光り、二本の巨大なはさみが威嚇するようにカチカチと打ち鳴らされた。


 カシウスは、聖剣はおろか、立ち上がることさえままならない。


「リッセ! 逃げ……」


 指示を出す前に、リッセはカシウスの前に立っていた。彼を背にかばうように。その姿は、以前よりも、遥かに大きく、頼もしく見えた。


「マスター。危険ですので、岩陰に」

「お前……!」

「マスターの生命維持は、当機の最優先事項です」


 リッセの腕が、あの禍々しい黒曜石の刃へと変わる。そして、彼女はカシウスをちらりと振り返った。その紫色の瞳には、もはや戸惑いはなかった。


「私が、あなたを守ります。それが、私の意志ですから」


 彼女は、大地を蹴った。その動きは、以前にも増して、鋭く、そして迷いがなかった。


 魔獣の猛攻を、彼女は紙一重でかわし続ける。その戦いぶりは、以前のような無機質な「排除」ではなく、明確な「守護」の意志に満ちていた。

 魔獣の巨大な毒針の尾が、カシウスの隠れる岩陰めがけて振り下ろされる。


「マスター!」


 リッセは、回避も迎撃も間に合わないと判断した瞬間、自らの背中を盾にして、カシウスの前に立ちはだかった。

 毒針は、リッセの肩を深々と貫いた。


「リッセ!」


 カシウスの絶叫が響く。


 だが、リッセは、怯まなかった。肩を貫かれたまま、まるで痛みなど感じないかのように(事実、彼女に痛覚はない)、振り返りざま、魔獣の頭部と思しき箇所に、両腕の刃を深く突き立て、抉った。

 魔獣は、地響きを立てて崩れ落ちた。


 カシウスは、よろめきながら駆け寄った。

「リッセ! お前の肩が……!」

 肩からは、青白い光を放つ循環液が漏れ出ている。


「ダメージ、軽微。関節可動域、12%の低下。ですが、戦闘継続に支障ありません」

 彼女は、自らの傷を冷静に分析しながらも、その瞳は、カシウスの傷ついた肩を、心配そうに見つめていた。


「食料を確保しました。マスターは、脆弱ですから、有機物の摂取が必要です」


 カシウスは、言葉を失っていた。

 彼女は、自らの意志で戦った。自らの身を盾にして、彼を守った。

 これは、プログラムなどでは、断じてない。


 カシウスの心は、激しく揺さぶられていた。彼は、この人形を、もはやただの道具として見ることは、完全にできなくなっていた。


 ◇


 死の砂漠を越えた先に、それはあった。


 砂と岩だけの、どこまでも続く褐色の世界。その地平が、突如として巨大な円を描いて断ち切れている。隕石孔クレーターだ。


 カシウスは、傷の痛みも忘れ、リッセに肩を借りながら、そのふちに這うようにしてたどり着いた。そして、眼下に広がる光景に、息を呑んだ。


 巨大な窪地の底に、信じがたいほどの「生」が満ち溢れていた。


 空は、上空を覆う巨大な結晶質の天蓋によって、灼熱の太陽光から守られている。その天蓋は、分厚い砂嵐の層を突き抜け、星々の光さえも集めているのか、淡いオーロラのように揺らめき、柔らかく青みがかった光を地上に降り注がせていた。


 その奇跡の光を受け、大地は瑠璃色の苔に絨毯のように覆われ、人の背丈ほどもある純白の花々が、光の粒子を振りまきながら咲き誇っている。清らかな水が幾筋もの小川となって、歌うように流れ、水晶の風鈴が幾千も触れ合うような、清浄な音を立てていた。


 熱風ではない。湿り気を帯びた涼やかな空気が、花の香りと濃密な土の匂いを乗せて、渇ききったカシウスの頬と肺を優しく満たした。

 滅びたはずの世界に、神々の時代の最後の欠片が、まるであつらえられた宝石箱のように、ひっそりと息づいていた。


「……すごいな……」


 カシウスは、その幻想的な光景に、旅の疲労も、傷の痛みも忘れ、立ち尽くしていた。

 彼の傍らで、リッセは静かに周囲を分析していた。


「大気成分、安定。湿度70%。未知の植物群……」


 だが、その平坦な声が、不意に途切れた。


「……マスター。当機の、胸部エネルギーコアが……」


 リッセは、戸惑うように自らの胸に手を当てた。ローブの下で、〈星の涙〉が、これまでとは比べ物にならないほど、温かく、そして力強く脈打っているのだという。


「……共鳴……? 不明なデータです。この感覚は……」


「それは、故郷の呼び声だからですよ」


 凛とした、しかし老いた声が響いた。


 オアシスの中心にある、水晶でできた神殿のような建物から、一人の老婆が静かに姿を現した。


「ようこそ、旅の方。そして――〈銀砂の乙女〉よ」


 老婆、サラは、その見えない瞳を、まっすぐにリッセに向けた。


「わらわは星々の声を聴く者。永きにわたり、あなた方がここへ辿り着くのを待っておりました」


「……俺たちのことを、知っているのか」

「その人形が目覚めた時、星々の歌が変わった。それは、悲しみの歌。そして、一条の希望の歌」


 サラは、カシウスに向き直った。


「カシウスよ。そなたが背負いし苦悩も、わらわには視える。妹君のこと……そして、そなたがその乙女のために命を懸け、道を切り開いた、その気高き覚悟も」

「……どういう、ことだ」

「さあ、中へお入りなさい。すべてを、お話ししましょう。〈大崩壊〉の真実と、そなたたちが、これから為さねばならぬことを」


 サラは、二人を神殿の奥へと導いた。そこには、水面いっぱいに星空を映した、不思議な泉があった。カシウスの心臓が、激しく高鳴った。


「まさか、これが……〈癒しの泉〉……?」

「そうじゃ」とサラは静かに頷いた。「じゃが、そなたが思うていたものとは、少し違う。そして、この泉を動かす鍵こそが……」


 サラは、その皺深い手を、リッセへと差し伸べた。


「――この、〈銀砂の乙女〉リッセ、そのものなのですから」

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