陽炎の艦隊
ミルヒシュルトラー
エピローグ:黎明の波紋
薄暮の瀬戸内海に、戦艦「長門」は静かにその巨体を浮かべていた。呉港第二船渠を離れ、朝靄の川尻湾を抜けた艦首は、まだ夜露を帯びた海面を白く切り裂く。艦橋に立つ山崎中将は夜明け前の冷気を胸に吸い込み、書き付けられた作戦書を指で確かめた。
遥か彼方、大崎下島の島影は淡い藍に沈み、水平線のさらに向こう──南鳥島には僚艦の偵察機が配備され、敵の動向を探っている。参謀長・吉川少将が無言のうちに通信班へ合図し、艦内に緊張が走る。間もなく伝えられたのはミッドウェー島沖、北緯29度00分、東経177度15分の座標。艦載機と主砲が一斉に応答態勢へ移行する。
甲板では石田整備兵と小川操縦員が最後の点検を終えた零式艦上戦闘機の周囲で固い握手を交わす。昭和の幼年期を呉工廠で過ごし、戦火に鍛えられた二人にとって、この合図は生と死の境を一瞬で滑り抜ける合図でもあった。整備班の息遣い、鉄と油の匂いが艦内を満たし、不協和音のように胸中で響く――平和な港町・長崎の母の笑顔を思い描きながら、彼らは飛翔の瞬間を待ちわびていた。
午前5時45分。測距儀のランプが緑の光を放ち、長門の大口径主砲に装填音が転がる。双眼鏡を握る山崎の視線は、主力空母「翔鶴」「瑞鶴」、巡洋艦群、駆逐艦隊の編隊へと巡った。白い航跡を描く零戦隊のエンジンがうなりを上げ、艦尾から次々と飛び立つ艦載機は、黎明の海空を赤い日章旗とともに彩った。
やがて砲腔内を駆ける火薬の残響が、静かな海面を揺らす。閃光と轟音が同時に放たれる瞬間、砲弾は弧を描いてミッドウェー沖の暗闇へと飛び去った。大日本帝国が放つ一撃は、世界史の均衡を根底から揺るがす。
だが、黎明を裂くその波紋は、勝利の歓喜ばかりを映し出すわけではない。波間に残る白い円環は、やがて訪れる深い傷痕と哀惜の予感を静かに語りかける。長門の影が水平線へ溶け込む頃、海と空には新たな時代の幕開けを告げる鐘の音とも、あるいは鎮魂の鎚音ともつかぬ余韻が漂っていた。
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