第3話 記憶の波紋

 その夜、白瀬湊は夢を見た。

 さざ波がない音のしない海。どこまでも青く静止した水面。ここは“青の残響”という名が相応しいとさえ思えた。

 そこに立つひとりの少年の背中が視界に入った。

 ――黒川陸だった。


 湊が呼びかけようとしたその瞬間、陸は振り返らずに言った。

「湊、あのときのこと……覚えてるか?」


 その声と同時に、世界が完全に音を失った。

 まるで誰かが現実のスイッチを切ったように、文字通り音のない世界となった。

 次の瞬間、湊の足元の水面に波紋が広がり、そこから見たことのない街の景色が滲み出す。


 街の色はすべて灰色。人々の顔は溶けるように歪んでいた。

 そして、街角の電柱に貼られた古びたポスター。

 《行方不明 黒川陸(13) 》――日付は、三年前。


 湊は息を呑み、声を失った。

 その瞬間、陸がこちらを振り返った。

 だが、その瞳の奥には“別の誰か”がいて、湊を“見てない”そんな感じがした。


 ――目を覚ますんだ。


 低い声が頭の奥に響いた。

 気づけば湊は、自室のベッドの上で汗にまみれていた。

 カーテンの隙間から朝の薄光が差し込み、時計の針は午前四時を指している。


 胸の奥で漠然とした何かがざわついていた。

 夢のはずなのに、あの“声”は確かに現実の中にも残っている気がした。




 午前の授業。

 窓の外で風が鳴り、教室の空気がわずかにざらつく。

 黒板の音も、クラスメイトの笑い声も、湊には遠く感じられた。自分だけ別の時空間にいるような、何か心ここにあらずといった状態である。


 桐島真白が隣の席でノートをとりながら、小声で囁いた。

「湊……また眠れてないの?」


 真白の呼びかけに、湊は心が一気に体に引き戻され我に返る。


 彼女の声はいつもより優しかったが、どこか怯えてもいた。

 湊は曖昧に笑って首を振る。

「ううん、ただ……変な夢を見た」


「夢? ……あいつ……陸の夢?」


 湊は言葉を詰まらせた。

 真白は湊の瞳の奥を真っ直ぐに見つめるように、ゆっくりと続けた。

「私もね、昨日……陸の夢を見た」


 教室のざわめきが、一瞬止まった気がした。

 湊の心臓が強く脈打つ。

「どんな……?」


「あの場所……あいつの最期の場所。歪んだガードレールの前で立っていた……だけど、ちょっと違ったの。あの陸の目、あの目はまるで“見てない”みたいだった」


 “見てない”という言葉が、湊の脳裏に焼きつく。

 昨日の夢の中の陸も、確かに何かを“見てない”そんな目をしていた。





 昼休み。

 屋上へ続く階段の踊り場に、篠原透が座っていた。

 制服のシャツはしわくちゃで、イヤホンを片耳にだけ差している。

 彼は湊を見ると、待ってましたと言わんばかりに不敵に薄く笑った。


「やっと来たな。……見たんだろ、あの夢」


 湊は息を呑んだ。

「……どうして、それを」


「同じだよ。俺も、あの“青い海”を見た。

 以前、陸が言ってた。“戻れない場所”の夢。あれはただの夢じゃない」


 透の声は淡々としていたが、瞳の奥は不安と恐怖で怯えていた。

「“青の残響”って言葉、聞いたことある?」


 湊は首を振る。

 透はスマホを取り出し、画面を見せた。そこには匿名掲示板のスレッドが開かれていた。


【都市伝説】青の残響を見たら、誰かが戻ってくる。

 でもその代わりに、誰かが“消える”。


 画面のスクロールが止まり、透が低く呟いた。

「……“波紋”が伝わるんだ。死んだ人の記憶が、生きてる誰かに触れる。そして、触れられた人の中から何かが抜けていく」


 その瞬間、階段の上から声がした。

「君たち……“見える側”なのね」


 ふたりが顔を上げると、そこに立っていたのは転校生の水城玲奈だった。

 風が吹き抜け、彼女の黒髪が青白く光を反射しキラキラと輝いたように見えた。

 そしてその瞳は、不自然なほど澄んでいた。

 まるで、現実という物質世界のその向こう側までをもすべて透かして見ているように。


「私には、死者の残響が見えるの。あなたたちが見たのは、黒川陸くんの“記憶の波紋”。でも、それはもう彼だけのものじゃない」


 湊は息をのんだ。

「……誰の、記憶なんですか?」


 玲奈は一瞬、空を見上げた。

 どこか遠くの音を聴くように、ゆっくりと瞼を閉じる。


「“誰かを取り戻したい”って願った人の記憶。その願いが深すぎると、死者と生者の境目が歪む。陸くんは、その“歪み”の中にいる」


 彼女の言葉に、透が顔をこわばらせた。

「つまり……湊が、引き寄せたってことか?」


 玲奈は小さく首を振った。

「違う。湊くんは“選ばれた”の。黒川陸くんが最後に見た景色を、もう一度繋ぐために」


 そのとき、風が止まった。

 遠くでチャイムが鳴る。

 玲奈の足元の影がゆっくりと揺れ、波のように形を変えた。


 その影の中に、誰かの顔が浮かんでいた。

 ――黒川陸。

 笑っている。だがその口元は、何かを言おうとして動いている。


 湊が一歩踏み出した瞬間、玲奈が制止した。

「触れちゃだめ。今はまだ、“波紋”が広がっているだけ」


 湊の喉がひりついた。

「……陸は、生きてるの?」


 玲奈は静かに微笑んだ。

「生きてる“場所”が違うの。けれど、彼はまだ――あなたを呼んでる」


 玲奈の言葉が終わると同時に、校庭の向こうの空に薄い雲がかかり、太陽が隠れた。

 世界が一瞬だけ、青く染まる。


 湊はその光の中で、確かに聞いた。

 ――湊。俺、生きてる。

 あの“青の丘”で。


 次の瞬間、胸の奥に凍てつくほど冷たい水のような感覚が広がった。

 まるで、誰かが心臓に触れたように。


 玲奈が小さく呟いた。

「波紋が始まったわ。……ここからが、本当の“青の残響”よ」

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