第10話契約サイン

「ありがとうトール君。他にも、わたしはあなたに、より高位の魔石とのトレードや希少な錬金素材や武器、防具等々いろんな配慮ができるわ」


 ルナは、まるで世界の財宝の目録を読み上げるかのように、淡々と、しかし熱を帯びた声で語る。彼女の言葉は、俺のコロニー計画に必要な無限の可能性を示唆していた。


「あなたの望みを何でも叶えてあげられる」


 その言葉は、もはやビジネスの範疇を超え、個人的な約束、あるいは禁断の囁きへと変わっていた。ルナの上品な香水の微かな匂いが、この狭い個室に充満し、俺の鼻腔をくすぐる。それは、深層ダンジョンの獣臭とは対極にある、洗練された女性の香りだった。


 ルナは、椅子から立ち上がり、ゆったりとした動作でテーブルのこちら側へと回り込んできた。彼女のスタイリッシュな制服に包まれたしなやかな肢体が、目の前に近づくにつれ、室内の空気の密度が異常に高まるのを感じる。


 俺は、契約書とペンを持ったまま、彼女の接近を待った。その距離は、もはやビジネスパートナーとして成立するギリギリのラインを、何度も行き来している。


「わたしのことを頼ってくれて良いのよ」


 ルナは、テーブルに手を置き、その身を俺にさらに傾けた。


 彼女の顔が、俺の顔に異常なほど近づく。切れ長の瞳は、もはや理性のヴェールを脱ぎ捨て、俺の深奥を覗き込もうとしている。俺の吐息が、彼女の完璧に整えられた前髪を、微かに揺らした。


「トール君。あなたは、あまりにも早く一人でここまで来てしまった」


 彼女の声は、蜜のように甘く、そして耳の奥をくすぐるように囁かれた。その声には、「もう、一人で頑張らなくていい」という、大人の女性だけが持つ、危険な誘惑が込められていた。


 ルナの長く白い指先が、俺が持つペンの上から、そっと重なる。その指の腹が、俺の手の甲を優しく撫でた。


「わたしは、このギルドで、誰も越えられない壁なの。その壁に、あなたはいつでも寄りかかっていい。すべてを任せて、わたしという財宝を使いなさい」


 彼女の瞳は、「ギルドの窓口」ではなく、「俺だけの秘密の扉」へと変わっていた。その距離感と、彼女の言葉の裏に隠された情熱的な含みに、俺の坊やの体は、再び警報を発した。


(心拍数190。魔力回路の乱れ、システムエラー寸前。イシュラーナの分析は、『交渉相手への支配力の完全放棄の危機』を警告している!)


 だが、俺の理性は、その危険な誘惑から目を離せない。俺の前にいるのは、コロニー計画の全てを握る鍵であり、俺の孤独な戦いの報酬なのだ。


 ルナは、最後に蠱惑的な微笑みを浮かべると、ゆっくりと身を離した。


「さあ、契約にサインを。トール君、あなたを最高の高みへ連れて行ってあげる」


 その契約書は、もはや魔石のトレード契約ではなく、彼女自身との、危険な愛憎の誓約書のように見えた。


 俺は、ルナの白く滑らかな指先が重なったペンを握りしめ、その熱い誘惑に晒されていた。


「あなたの望みを何でも叶えてあげられる」というルナの囁きは、俺の「坊やの体」と、異世界の強靭な精神の両方を揺さぶる。この目の前にあるのは、国家級の権力へのパスポートであり、エルファリアとの通信衛星への最短ルート、そして……大人の女性の支配欲に満ちた、危険な招待状だ。


(いけない。このままでは、俺のコロニー計画が、氷の女王の情事のために後回しになってしまう!)


 俺の脳内では、イシュラーナが緊急警告を発していた。「御屋形さま、魔力炉が限界を超えて暴走寸前です! 理性制御を!」


 俺の下半身は、彼女の放つ上品な香水と、熱を帯びた視線に抗えず、制御不能な衝動で滾(たぎ)っていた。ルナをこの場で押し倒したいという、生々しい欲望が、全身の筋肉を硬直させる。


 しかし、俺はCランク探索者だ。そして、宇宙植民計画の総帥だ。この一時の甘い誘惑に負けるわけにはいかない。


 俺は、燃えるような下半身の衝動を、冷たい宇宙の光景で上書きし、冷酷な自己制御を発動させた。


 俺は、契約書に淡々とサインをした。その筆跡は、激しい欲望を内に秘めているとは信じられないほど、整然としていた。


 ルナは、俺がサインを終えたのを見て、満足そうに笑う。その笑顔が、さらに俺の理性を揺さぶった。彼女の長く白い指が、契約書の上を優雅に滑り、最後の確認をする。


 俺は、ルナが動くよりも早く、その場で静かに立ち上がった。


「今日はありがとうございました」


 俺は、感情の介入を許さない、機械のような声で告げる。


 ルナは、予期せぬ俺の行動に、一瞬驚きの表情を見せた。


「え、トール君? もう終わり?せっかく特別契約を結んだんだから、少しはわたしに頼ってもいいのよ。これからもっと秘密の共有も必要になるわ」


 彼女は、誘うような声で、再び身を乗り出そうとする。


 だが、俺は、その危険な誘惑を冷徹に断ち切った。


「子供は早く寝ないといけないのでもう帰ります」


『子供』。それは、彼女の誘惑を拒絶するための、俺自身の最大の防御壁だった。


 ルナは、俺のその言葉に、一瞬にして表情を凍らせた。その切れ長の瞳には、驚き、そして拒絶されたことによる、微かな苛立ちが浮かんだ。彼女の唇が何かを言おうと開かれたが、言葉は出てこなかった。


 俺は、下半身の滾りを必死に抑えつけながら、彼女に背を向けた。その漆黒のバトルスーツの背中は、大人の女性の欲望を拒絶する、純粋な壁のようだった。


 俺は、その場でルナの吐息の温度から離れると、一目散に個室を後にした。


 ギルドのロビーを抜けて、渋谷の夜へと紛れていく。俺の体は疲労困憊しているが、契約という大きな成果と、氷の女王の誘惑を押し切った達成感で、満たされていた。


(くそっ……危なかった。危うく、宇宙の覇権を、飴玉と唇の甘さで手放すところだった)


 俺は、冷たい夜風を浴びながら、自らの理性の勝利を静かに噛み締めた。ルナ・マイヤーという強力な財宝は手に入れた。だが、その財宝をどう使うかは、あくまで俺の計画に従う。


 俺の戦いは、深層ダンジョンで終わりではない。夜の渋谷、そして、遥か宇宙の軌道上で続いているのだ。


 3月25日(水)


 もう何度目か、早朝の渋谷探索者ギルドの扉をくぐる。昨日の夜の動揺と、ルナ・マイヤーの甘美な誘惑は嘘のように静まっていた。俺の意識は、既にコロニー計画と今日の周回に完全に同期している。


 俺の身にまとうツヤ消し黒のバトルスーツは、夜の間に自動修復を終え、まるで今錬成されたばかりのように完璧だ。


 俺は、昨日と同じ眠そうなアルバイト風の職員にIDプレートを差し出した。


「佐藤トール様、Cランク。本日も、十階層から最深層階層の周回でよろしいですか?」


 職員は、ルーティンワークとして尋ねる。彼の瞳には、「Cランクのソロ探索者が、なぜ毎朝最深層に直行するのか」という疑問は、もう浮かんでいなかった。俺の行動は、既にギルドの「佐藤トール基準」として記録されているのだろう。


「頼む」


 俺は、最速の周回と最大の効率だけを求め、冷静に答える。


「少々お待ちください」


 職員は、カウンターの下から何か取り出すと、俺に差し出してきた。


「ルナ・マイヤーからの差し入れを預かっております」


 俺は、その言葉に、一瞬だけ予期せぬノイズを感じた。ルナ・マイヤー。昨日、俺の理性と下半身の衝動を限界まで試した、あの氷の女王からの差し入れ。


 それは、白い光沢のある紙で包まれた、細長い箱だった。手書きの小さなメッセージカードが添えられている。


 俺は、箱を受け取り、そのメッセージカードを読んだ。


「疲労回復飴だけでは、あなたの体は持ちません。体力が落ちると、判断も鈍るわ。これを食べて、今日も頑張ってね。――あなたの秘密を共有する人より」


 そして、箱を軽く振ると、中でカチャカチャと上品な金属の音が鳴った。


「御屋形さま、開封を推奨します。内容物の分析が必要です」


 イシュラーナの声が、俺の脳内に響く。俺もまた、その中身に警戒と興味を抱いていた。


 俺は、ギルドの喧騒から少し離れた壁際で、静かに箱を開けた。


 中に入っていたのは、三つのアイテムだった。


 1. 黄金の魔石粥

 一つ目は、真空パックされた温かい粥。中には、高位の金色の魔石が細かく砕かれて練り込まれている。それは、Cランクの探索者が通常は口にできないような、即効性の高い魔力栄養食だった。


「分析結果:『黄金の魔石粥』。通常の回復ポーションと比較し、消化吸収率300%。魔力回路への負荷をかけず、スタミナを回復させます。これは、深層周回のための完全な戦略物資です」


 2. 特注の魔導潤滑油

 二つ目は、小さな小瓶に入った、虹色に輝く液体。


「分析結果:『特注魔導潤滑油』。恐らく、御屋形さまのスタッフの銀リングのメンテナンス用です。摩擦係数を極限まで低下させ、雷属性魔法の熱暴走を完全に防ぎます。どこで手に入れたのか……ギルドの裏技術です」


 3. 一輪の蒼い薔薇

 そして、三つ目は、瑞々しい一輪の蒼い薔薇。だが、それは生花ではない。花びらは薄い金属でできており、中心には極小の青い魔石が埋め込まれている。


「分析結果:『蒼薔薇の魔力中継器』。これは、極めて精巧な錬金術具です。御屋形さまの周囲の魔力濃度を監視し、私(イシュラーナ)へリアルタイムでフィードバックします。これにより、予測精度がさらに5%向上します。これは……愛の告白ではありません、遠隔監視と支援の複合です」


 俺は、その蒼い金属の薔薇を、静かに見つめた。


 黄金の粥で肉体を。潤滑油で装備を。そして、この蒼い薔薇で俺の行動のすべてを支配しようとしている。


 ルナ・マイヤーは、契約と誘惑だけでなく、実質的なサポートという名の蜘蛛の糸を、俺に張り巡らせてきたのだ。


「フッ……『秘密を共有する人』、か」


 俺の口元に、微かな笑みが浮かんだ。それは、拒絶でも屈服でもない、挑戦者としての笑みだ。


 俺は、その蒼い薔薇を、大切そうに左胸のポケットに差し込んだ。


「イシュラーナ、薔薇の設置完了。黄金の粥は即座に摂取。潤滑油はスタッフのメンテナンスに用いる。ルナさんの親切を最大限に活用させてもらうぞ。これが、彼女の期待に応えるという、俺たちの新しい戦略だ」


「了解いたしました。蒼薔薇の魔力中継器をシステムに統合。これより、『ルナ・マイヤー監視下モード』に移行します。戦闘効率、3%向上」


 俺は、ルナ・マイヤーの熱い視線という名の監視を受け入れ、転移魔方陣へと向かう。


 最強のソロ探索者の戦いは、今や一国のエネルギー戦略と一輪の薔薇によって、加速を始めたのだった。


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