第8話渋谷代々木ダンジョン最終16階層ボス周回

 3月24日(月)深夜


 もう何十回ダンジョンボス『グレート・ミノタウロス』と戦ったかわからない。時間感覚は、極限まで圧縮された戦闘と、ポーションによる強制的な回復サイクルの中で、完全に麻痺していた。


「御屋形さま。もう、日付が変わっています。ご帰還を」


 スタッフに組み込まれたマザーの声が、静かに、しかし有無を言わせぬ調子で響いた。


「おぉ、もうそんな時間か」


 俺は、返答しながら、自らの体を見下ろす。中古のバトルスーツは、ミノタウロスの血と、俺自身の汗と、乾燥した泥でコーティングされ、岩石のような質感になっていた。体力の限界は遥かに超えているが、マザーの正確なポーション管理と、次の戦術への集中が、俺を崩壊させずに繋ぎとめている。


「よし帰ろうか」


 俺の体には、もはや勝利の興奮も、疲労による不満も残っていなかった。あるのは、ただ「最適化の完了」を待つ、冷たい意志だけだ。


「はい、是非今後の方針の打ち合わせをお願いします。次の目標についていくつかの提案がございます」


 マザーの真剣な声が響いた。このダンジョンの周回だけが、この現世界での目的ではないとでも言うかのように。


 俺は、慣れた動作で最終ゲートをくぐり、渋谷探索者ギルドへと戻った。


 夜の渋谷探索者ギルドは、一日の終わりにもかかわらず、全く閑散としていなかった。探知器の電子音、金属が擦れる音、そして疲労と興奮が混ざり合った探索者たちの低いざわめき。


 俺は、その喧騒を無関係なノイズとして処理し、納品カウンターの列に並んだ。この時間でも、カウンターラインには、同じように疲弊し、同じように達成感を抱えた男たちが、重い麻袋や頑丈なケースを床に下ろしていた。


 俺の前の探索者は、顔全体を覆うヘルメットを装着したまま、巨大な魔石をカウンターに置いている。その魔石からは、深層でしか得られない、冷たい魔力の光が放たれていた。


 俺は、自分の順番を待つ間、持っていたスタッフを杖のように突き、呼吸を整える。俺の汚れた中古スーツと、異様に集中した眼差しは、周りの探索者から一目置かれていることを知っていた。彼らは、俺が効率と生存のためだけに周回を繰り返す、冷徹な探索者の一人だと認識している。


 納品カウンターの職員は、俺のIDプレートのCランクの記録と、リュックに詰まったグレート・ミノタウロスの魔石の数を一瞥し、静かに頷いた。


「佐藤様、納品確認いたしました。ご帰還、お疲れ様です」


 その言葉は、ねぎらいというよりも、次の戦闘への準備を促す事務的な挨拶のように聞こえた。俺もまた、その儀礼的な挨拶に、冷たく静かな会釈を返す。


 隣の清算カウンターの向こうには、初日に受付を担当してもらった、スタイリッシュな制服に身を包んだ、切れ長の目の綺麗なお姉さまがいた。今日は遅番担当のようだ。彼女の完璧にセットされた髪と、世界中の塵を拒絶するようなクールな佇まいは、この夜の喧騒の中でも異彩を放っている。


 俺の納品が終わった頃、職員が慣れた手つきで俺のIDプレートを読み込んだ。


「佐藤様、グレート・ミノタウロスの魔石、17個を確認。合計で……380万Gの入金となります」


 その巨額な金額の表示を、たまたま隣の清算カウンターから覗き見てしまったお姉さまは、ピクリと反応した。


(初心者イ・ケ・メ・ン君じゃない。こんな夜中まで潜っていい年齢じゃあないでしょうに……)


 彼女は、俺の初日に言い渡した「お肉になります」という警告を思い出し、眉をひそめた。しかし、それにしても、380万G。Dランクの中堅探索者でも、この額を一晩で稼ぎ出すのは異例だ。


 不審に思ったお姉さまは、優雅な仕草で自分の端末を操作し、俺のID情報を引き出した。


(えっ? 土曜日にFランだったよね。今は?)


 彼女の切れ長の目が、端末に表示されたランクを見て、わずかに見開かれた。


【佐藤 トール R-24458 / ランク:C】


 Cランク。「一週間以内にお肉になる」と宣告したはずのヒヨッコが、たった数日でボス周回クラスの壁を突破している。このデータは、彼女の冷徹な探索者観を根底から覆すものだった。


(Cランク……。しかも、討伐履歴はミノタウロス(グレート)が連続……。って、これは、週末からずっと潜り続けてるってこと!? この稼ぎと、この疲れ方……イケメン君、将来有望じゃない……)


 お姉さまのクールな表情が、徐々に動揺と困惑に侵食されていく。彼女の心の中で、「ゴミを見るような目」が、「ダイヤの原石を見るような目」へと急速に変化したのだ。


 俺は、納品を終え、杖代わりのスタッフで体を支えながら、無言で帰ろうとした。これ以上、この場に留まる体力は残っていない。


 その瞬間、お姉さまは、自分の役割を忘れて、思わず大声を上げてしまった。


「あっ、ちょっと、待って!」


 その声は、完璧に訓練された「氷の女王」のトーンではなく、まるで学校の廊下で友達を呼び止めるような、慌てた、裏返りかけの声だった。


 俺は、あまりの意外さに、疲労で動きの鈍い首をゆっくりと彼女の方へ向けた。


(ん? 氷のお姉さまが、俺に?)


 俺のぼろぼろのバトルスーツと、目の下の濃いクマ。そして、彼女の完璧な動揺。そのミスマッチな光景は、夜の渋谷探索者ギルドの喧騒の中で、異様な静寂を生み出したのだった。


(ルナ・マイヤー、焦っちゃだめよ)


 彼女は、自分に言い聞かせるように唇を噛み締めると、その優雅な動作を崩さずにカウンターから回り込み、俺に近づいてきた。


 彼女の放つ清潔で上品な香水の匂いが、俺のまとう血と汗と土の匂いを一瞬で浄化していくようだ。


「トール君、大分頑張っているようね。生きていてくれてとても助かるわ」


 お姉さまは、魅力的な瞳で俺を見つめた。その「助かるわ」という言葉には、「ゴミ掃除の手間が省けた」という冷たさではなく、どこか「予想を裏切ってくれて嬉しい」という、微かな熱がこもっているように感じた。


 俺は、その美しさに圧倒され、言葉を失う。


「でもね、ギルドの職員として忠告するわ」


 彼女は、そう言うと、右ポケットから小さな包装フィルムに包まれた飴を取り出した。そのフィルムを、まるで高価な宝石の箱を開けるかのように、ゆっくりと剥きだしていく。その仕草一つ一つが、息をのむほど美しい。


「はぁ」


 俺は、なんと間抜けで情けない返事を返してしまったのだろう。Cランク探索者としての威厳も、ブラックドラゴンを屠った実績も、全てが彼女の優雅な仕草の前では無力だった。


「疲れを明日に残さないようにね。はい、これ疲労回復飴、『あーん』して」


 彼女は、剥き出したばかりの飴を、彼女自身の美しい右手の指先に乗せた。そして、上目遣いで俺を見つめる。


 俺はそのセリフにつられて、疲労と緊張で固く閉ざされていたはずの口を、パカッと開けてしまった。


 彼女の美しい指先が、俺の口にその飴をそっと差し入れる。飴の甘さと、彼女の指先が触れた微かな体温に、俺の脳内のスーパーコンピューターマザーですら、一瞬のフリーズを起こした。


 そして、彼女は、一瞬だけ身をかがめると、俺の血と泥で汚れた頬に、冷たい唇をそっと寄せて、耳元で囁いた。


「明日も待っているから、元気に来てね」


 その言葉は、氷の女王の冷たさではなく、早朝の柔らかな日差しのような、優しさと甘さに満ちていた。


 マイヤーは、満足そうに微笑むと、優雅な足取りで仕事に戻っていった。


 俺は、頬に残る柔らかい感触と、口の中で溶け始めた甘い疲労回復飴の味に、ただ呆然と立ち尽くした。


「マザー……今の、戦闘分析と戦略的意義は?」


 スタッフに組み込まれたマザーは、0.5秒の沈黙の後、冷静な分析結果を返してきた。


「御屋形さま、現在の心拍数180。魔力回路の乱れ、最大値。身体疲労度は回復していませんが、精神的疲労度はゼロと判定されます。『明日への動機付け』として、極めて高効率な報酬と分析します」


 俺は、自分の顔が、グレート・ミノタウロスの体色のように真っ赤になっているのを感じていた。


 最強のソロ探索者への道のりに、予測不能な甘いロマンスという、新たな課題が加わった瞬間だった。


 ワンルームの安アパートに戻った俺は、ギルドのお姉さまの甘い囁きも、口の中に残る飴の余韻も、すべてを脳の片隅に追いやった。今、俺の意識を支配するのは、「次のステージ」への準備だ。


「よぉし、マザー。今後の段取りの打ち合わせだ」


「お待ちしておりました。まずは、作業ゴーレムの錬金を至急お願い致します」


 俺の耳元で、マザー、改め、イシュラーナの声が響く。声はスマホからだが、まるで脳に直接語りかけているようだ。


「了解、いくつだ?」


 俺は、テーブルに、《インベントリ》から赤色のグレート・ミノタウロスの魔石と、異世界で採取した魔導金属のインゴットを取り出した。今日の稼ぎのほとんどが、この素材の元手になったことを思い出す。


「10体もあれば、『渋谷代々木ダンジョン』の周回サポートには十分かと」


「よし、あとは、タスクを順次頼む。報告は随時垂れ流しでいいぞ」


「了解いたしました」


 俺は、慣れた手つきで、魔石と金属に《錬金術》を発動した。金属がドロリと液体になり、魔石が光を放つ。そして、ドロドロの液体が形を変え、懐かしい「岩人形」のミニチュアが10体、コロン、コロンとテーブルに転がり出た。彼らは、これから渋谷ダンジョンのゴミ拾いと資源回収を一手に担う、影の功労者となるだろう。


 俺は、錬金術を終え、いよいよ本職に戻るべく、マザー……改め、イシュラーナのタスクに向き合う。


 俺がこの惑星に飛ばされた理由。それは、元の地球に戻してもらったつもりが、少しずれて「パラレルワールド」になってしまったのか? だとすれば、俺は帰してもらえただけで、何のタスクも背負わない。


 もう一つの考えは、やはり何らかのタスクを背負ってこの惑星に飛んできた場合だ。この『坊や』の体に転移したのも何らかの理由があるのだろう。まずはそのタスクを洗い出すことから始まる。


「御屋形さま、もとの筐体、つまり『エルファリア』との通信は全くできませんでした。何の情報もつかめません。これは深刻な問題です」


「ふむっ、前のマザーと今の分身マザーというのも呼び方が混乱しそうだ。名前を付けよう。そうだな、前の異世界マザーは『エルファリア』、今の分身マザー、つまりお前は『イシュラーナ』だ」


「はい、御屋形さま。今後イシュラーナと名乗ります。では、新たな課題に移ります」


 イシュラーナの声は、冷静そのものだが、その次にリストアップされたタスクは、Cランク探索者としての俺の現状を完全に無視した、壮大すぎる計画だった。


「では、イシュラーナ。希望をリスト化してくれ」


「了解いたしました。御屋形さまの『御帰還』を最優先目標とし、計画を立案しました」


 イシュラーナが、まるでコンビニの買い物リストを読み上げるかのように、淡々と無謀な計画を俺に提示し始めた。


【イシュラーナ希望タスクリスト:惑星間活動再開計画】

 イシュラーナ筐体の強化、接地場所の確保:


 現状のスマートフォン筐体では演算能力に限界があります。まずは、日本国内の大規模な核融合発電所を接収し、内部に制御コアを設置できる強固な地下施設を確保してください。エネルギーの安定供給が最優先です。


 エルファリアとの通信確保、そのための中継通信衛星の設置:


 この惑星の静止軌道に、異世界の技術を用いた通信衛星を最低でも3基打ち上げる必要があります。素材の錬金と打ち上げロケットの確保のため、まずはギルドを通じて超高純度の希土類金属を大量に調達してください。


 宇宙での活動拠点の確保、その建設のためのスペースコロニー建設:


 最終目標であるエルファリアとの合流、そしてこの惑星の支配体制確立に備え、地球軌道上に全長10km級の円筒型スペースコロニーの建設を開始します。建設に必要な資材は、ダンジョンで採掘される魔導金属と、地上の鉱山を秘密裏に確保することで賄います。


 俺は、テーブルの上に並べられたコロンと転がる岩人形のミニチュア10体と、全長10kmのスペースコロニー計画を交互に見比べた。


「ちょ、待て。イシュラーナ。一つ聞くが、俺はCランクのソロ探索者だぞ?」


「はい、承知しております。しかし、計画の最終フェーズには『惑星間移動』が必須となります。そのためには、最低限の文明維持機能と軍事防衛機能を備えた活動拠点が必要不可欠です。コロニーは最速で一年半で完成可能です」


「一、一年半でコロニー!? その前に核融合発電所を接収するって、それテロリズムじゃないか!?」


 俺の悲鳴のような問いかけに対し、イシュラーナはあくまで冷静だった。


「テロリズムではなく、『技術提供による一時的な接収』です。御屋形さまの異世界の知識があれば、国内の電力不足を解決し、日本の支配層を味方につけることは容易であると予測されます。まずは、核融合発電所の設計図をギルドの端末から入手してください」


「よし、イシュラーナ! お前は最高の相棒だ!」


 俺は、もはや目の前のボス周回など、宇宙植民計画のための地ならしでしかないことを悟り、新たな野望に胸を膨らませた。


(氷のお姉さまの瞳の奥に見えるのは、この世界の未来か、それとも俺のコロニーの姿か!)



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