図書館の提案

 図書館の一角に、談笑用のスペースがある。


 深紅のソファがいくつも並び、中央のテーブルには紅茶と焼き菓子が並べられていた。その一つに、由佳とヴィオラが肩を並べて座っている。向かいの席には、冷徹侯爵と呼ばれる貴公子が穏やかに微笑んでいた。


「偶然ですね。こんなところでお会いできるなんて……お元気でしたか?」


 宝石のような瞳が、光を宿して細められる。切なげに眉を下げるその表情は、“寂しかった”と雄弁に語っていた。


 もちろん、彼が寂しがる理由など由佳には心当たりしかない。パシテア──つまり自分が、彼を避けていたからだ。


 原作では「令嬢たちの嫉妬を真に受けて自信をなくした」ことになっていたが、実際のところは単に恋愛イベントを発生させないための回避行動だった。


 王都の貴族図書館は、もはや図書館というよりサロンだ。高い天井に明るいシャンデリア、壁一面の書棚には金の箔押しが輝く。所々に置かれたソファでは貴族たちが談笑し、使用人が紅茶をサーブして回っている。現実の図書館ではありえない、優雅なざわめきが満ちていた。


 由佳は湯気の立つ紅茶にそっと手を添え、笑みを浮かべた。


「私はずっと元気ですよ。タナトス様もお元気そうで、嬉しいです」


 なるべく“友人”としての返答を心がける。タナトスは控えめな微笑みで頷いた。


 やっぱり、どんな角度から見ても絵になる人だな。由佳は、そんな現実逃避をしてしまう。


「そちらのご令嬢は……レイス公爵家の方ですね」


 不意に話を向けられたヴィオラの肩が、びくりと震えた。


「あ、あのっ……ヴィオラ・レイスでございます、侯爵様。どうぞヴィオラとお呼びくださいませ……」


「ヴィオラ嬢。お噂は耳にしております。美しく聡明なご令嬢だと。お会いできて光栄です」


 完璧な笑みと礼節。タナトスの物腰は相変わらず優雅で、どこまでも紳士的だった。その誠実さが、かえって緊張を誘う。ヴィオラは頬を染め、胸の前で両手を重ねて小さく息を吐いた。


 やがて、三人の間に静寂が落ちた。ティーカップの触れ合う音だけが、空気の表面を震わせる。


 由佳は、今日タナトスがこの図書館に来ることを知っていた。だからあえてヴィオラを誘い、ここへ来たのだった。


 原作では、パシテアとタナトスがここで“偶然”再会し、彼が舞踏会のエスコートを申し込む重要なイベントが起こる。由佳はその前に、ヴィオラを推薦するつもりだった。


「……賭けを、していました」


 沈黙を破るように、タナトスが静かに口を開いた。


「賭け?」


「もしあと三日経っても君に会えなかったら……諦めようかと、考えていたんです」


 吐息まじりの声音。何を“諦める”のか彼は言わない。けれど、彼の眼差しの熱が、すべてを物語っている。


「──俺は賭けに勝ちました」


 足を組み直し、由佳を見つめる。その仕草ひとつで、空気の密度が変わる。由佳は無意識に拳を握った。手のひらがじっとりと汗ばむ。

 これは恋愛のそれじゃない、と自分に言い聞かせ、息を吐く。


 「……タナトス様。ご相談があります」


 彼の視線を受け止めたまま、由佳は先手を打った。


「王宮の舞踏会で、ヴィオラをエスコートしていただけませんか」


 突拍子もない頼みに、ヴィオラが小さく声を上げた。憧れの人を前にすると、彼女の堂々とした佇まいは鳴りを潜めるらしい。ヴィオラは黙ったまま俯いていた。


 タナトスは一瞬、驚いたように目を見開いた。そしてすぐに表情を整え、考えるように顎に手を添える。


「理由を聞いても?」


「……ヴィオラは長らくタナトス様に憧れてきました。彼女はとても思いやりがあって配慮もできる素敵な女の子です。ヴィオラは私の大切な友達だから……だから、どうかヴィオラと──」


 ほんの一瞬。


 由佳は一瞬見てしまった。

 タナトスの表情が、残酷なほどに冷え切っていた。まるで軽蔑するものを睨み殺そうとするかのような、鋭い眼光。反射的に、ぞくりと背筋が粟立つ。


 由佳が思わず息を呑むと、彼の表情はすぐに温度を取り戻した。いつもの紳士的な顔つきで、まるで何もなかったかのように、口許を緩める。


「いいですよ」


「……っ! 本当ですか?」


「他でもない、パシテアの頼みなら喜んで」


 声も穏やかで、いつものタナトスだ。隣でヴィオラが安堵の吐息を漏らす。彼女も緊張していたのだ。さっきの表情は見間違いだったのかもしれない、と由佳は思い直した。


「……ありがとう、タナトス様。やっぱり友達になれて良かった」


 “友達”として、ようやく対等に話せる。それが由佳には嬉しい。だって彼はとても誠実で優しくて王子様みたいに紳士的で──


「それで、パシテアは代わりに何をしてくれるんですか?」


 ──え?


 由佳が目を見開くと、タナトスが満面の笑みでこちらを見つめていた。

 紅茶の香りだけが、妙に甘ったるく漂っている。

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