『名前の向こう側』

白河 初

第1話

終電が過ぎたあとの駅前は、ひどく静かだった。

 タクシーのロータリーに人影はなく、風だけが通り抜けていく。街灯の下、アスファルトに落ちた自分の影がやけに長い。


 仕事帰りに立ち寄った居酒屋で上司の愚痴を聞かされ、少しだけビールを飲んだ。顔が火照るほどではないが、妙に胸の奥がざらついている。

 家まで歩いて十五分。風に冷まされようと、改札口を抜けたそのときだった。


 駅前のベンチの端で、誰かがうずくまっていた。


 足が止まる。

 酔って寝ているのか、体が小刻みに震えている。近づいて覗き込むと、肩までの黒髪が乱れ、頬にかかっていた。白い指先が、かすかに動いている。


 ――見覚えがあった。


 いや、見覚えどころではない。

 その横顔を見た瞬間、胸の奥が強く鳴った。

 中学のとき、初めて「好きだ」と思った人。

 桜井紗月。


 十年以上経った今でも、名前を思い出すだけで胸が熱くなる。

 けれど、彼女はこちらに気づいていないようだった。


「……大丈夫ですか?」


 声をかけると、紗月はゆっくり顔を上げた。

 目元が赤く、少し腫れている。酒の匂いが微かに漂ってきた。


「あれ……誰、だっけ」


 焦点の合わない瞳が、ぼんやりと自分を見つめる。

 あの頃と同じように整った顔なのに、どこか脆く見えた。


「酔ってるみたいですね。どこに帰ればいいか、分かりますか?」

「うん……でも、帰りたくない」


 困ったように笑い、紗月は俯いた。

 髪の隙間から、頬を伝う涙が光った。


「彼氏に……振られちゃった。今日」


 言葉が詰まる。

 笑うべきでも、慰めるべきでもなかった。

 ただ、彼女の言葉の重さが静かに胸に落ちた。


「……そっか」


 それだけを返した。

 それ以上の言葉が、喉の奥で止まった。


 彼女はもう、あのときの“手の届かない人”ではない。

 でも、目の前の痛みには触れてはいけない気がした。


 タクシーを呼ぼうとスマホを取り出しかけたとき、彼女が小さく呟いた。


「ねぇ……あなた、名前は?」


 その問いに、なぜか胸が跳ねた。

 ほんの一瞬、「新田悠」と言おうとした唇が、別の言葉を紡いだ。


「……佐藤です」


 自分でも驚くほど、自然に。

 咄嗟に出た“偽名”。

 その理由は分からない。ただ、本当の自分を名乗れば、この瞬間が壊れてしまうような気がした。


「佐藤さん、か……変な名前」

「よく言われます」


 紗月はくすっと笑い、肩の力を抜いた。

 その笑顔に、胸が痛んだ。


 結局、タクシーが来るまでのあいだ、彼女の隣に座っていた。

 夜風が頬をなで、遠くで踏切が鳴った。

 紗月はときどき、どうでもいい話をした。

 仕事がうまくいかないこと。友達が減っていくこと。彼が他の誰かといることを偶然見てしまったこと。


 そのどれもが、十代の頃には想像もできなかった“現実”だった。

 それでも、彼女は笑っていた。泣きながら。


 タクシーが到着したとき、紗月はふらつきながらも立ち上がった。


「ありがとう、佐藤さん」

「いえ。気をつけて」


 扉が閉まり、車が走り出す。

 その後ろ姿を見送りながら、手のひらに残る温度がいつまでも消えなかった。


 ――本当は、名前を言いたかった。

 “桜井”と呼びたかった。

 でも、もうそれは許されない気がした。


 駅前の時計を見ると、日付が変わっていた。

 夜の静寂の中で、ふと、中学の夏の日の記憶がよみがえる。

 校舎の裏で、夕陽を背に笑っていた紗月。

 「いつか大人になったら、一緒に花火見ようね」

 そう言った言葉が、風の中に溶けていった。


 叶わなかった約束。

 そして今、再び交わるはずのない時間。


 あの夜、偽名を名乗った自分の弱さを、何度も責めた。

 けれど同時に――あの名前だからこそ、彼女ともう一度話せたのだとも思う。


 翌朝、SNSを何度も検索してみた。

 けれど「桜井紗月」という名前のアカウントは、どこにも見つからなかった。

 まるで最初から、あの夜が夢だったかのように。


 それでも、あの笑顔は、確かにここに残っている。

 名前の向こう側に隠した想いだけが、静かに息をしている。

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『名前の向こう側』 白河 初 @hajime_shirakawa

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