第9話
自分の顔を怖いと思ったことはなかった。
当然だろう。自分の顔を見て、怖いと思う人はいないはずだ。
けれど周囲の反応を観察しているうちに、そうなんだろうなと思うようになった。
『俺』の顔は、どうやら怖いらしい、と。
それを辛いとか、嫌だとか、そういう風に考えたことはなかった。
しばらく話しているうちに俺の事を理解してくれる人もいたからだ。
思い詰めるほど、コンプレックスに感じていなかった。
けれど一点だけ。
この顔のせいで困ったことがあった。
子供が泣いてしまうのである。
顔を見るだけで、電車の中であった子や、すれ違いざまの子供が泣いてしまう。
申し訳ないと思った。
俺は子供が好きだ。
可愛い笑顔は見ていて飽きないし、色んなものから守ってあげたいし、その子たちの将来のために道を狭めない範囲で手助けしてあげたかった。
つまり、俺は先生になりたかったのだ。
けれど、こんな顔では到底無理だろう。
思い出すのは、小学生の時。下級生の子に顔を見た瞬間泣かれてしまった。
その時、俺は痛感したのだ。
俺は、歳下の子には嫌われてしまうのだと。
そしてその思いが、長年降り積もって今、子供相手にする職業は無理だろうという諦めの念に変わっていた。
結局俺は、何の興味もない仕事に就いた。
幸いその仕事は自分には向いているようで苦戦する事もなく、同僚や上司にも恵まれた。
俺は、自らの夢を見ないふりをして生きていく事にした。
けれどもある時、電車の中で泣いている子どもを見つけた時。
俺はなんとかその子を泣き止ませようと、懸命に話しかけた。
隣にはその子の母親もいた。
任せていれば、そのうち泣き止むとは思った。
それに、たまたま同じ電車に乗っただけである。後二駅、聞こえないふりをすればそれで終わりの関係性だ。
けれど俺はその子を泣き止ませたかった。
ギョッとするその子の母親の横で、俺は懸命に話しかけたり、笑わせようとしたり。
結局自分の目的地まで泣き止まなくて。
それでも俺はその子の笑顔が見たくて、もうその日の予定なんか全部投げ飛ばして、電車の中で子供と向き合った。
母親も悪い人ではなく、俺の顔だけで判断せず、むしろ二人並んでその子を泣き止ませようとした。良い人だった。
とはいえ、子供というのはそうそう制御出来るものではない。
結局、その親子が電車を降りるまで、その子が泣き止むことはなかった。
子供の母親からは去り際に、
「すみません、付き合っていただいて……」
「いえ、俺がしたかっただけなので」
申し訳なさそうな、それでいて少し嬉しそうな顔で頭を下げられた。
俺は会釈を返しながら、考えた。
このままで良いのかと。
このまま、やりたい事を無視して、生きていくのかと。
嫌だと思った。
少なくとも、挑戦する事なく死んでいくなんて、絶対に御免だった。
俺は教員になるために勉強を始めた。
仕事の傍ら通信大学に通いながら、今更教師を目指した。
周囲の人は応援してくれたが、試しに聞きに行った教員の採用担当などは、あまり良い顔はしなかった。
それでも努力した。
努力すれば夢が叶うなんて無責任な言葉は聞き飽きていたが、その時だけはその言葉に縋った。
二年ほど経ち、幸いにして教員免許は取得出来た。
けれど、そこからどこかの学校に採用となると、途端に話が進まなくなった。
原因はもちろん俺の顔だ。
「兄貴の顔、かっこいいと思うっすけどねぇ」
いつの間にか職場では、兄貴なんて言われるようになっていた。一年ほど前から俺の補佐をしてくれている奴が面接に落ちるたびに慰めてくれていたが、単純にこの業界だとマシな顔ってだけの話だろうとは思った。
「兄貴、組やめるんすか? 兄貴ほど向いてる人いないと思いますけど」
「さぁな。やめたいと思ったことはないけど、他にもやりたい事があるんだ」
「教師っすか。まぁ兄貴の夢は応援するっすけど、組ってそんな簡単に足抜け出来るもんなんすか?」
「それこそ分からん」
いつの間にか職場にはしがらみも出来ていたが、子供に接したいという思いは日に日に強くなっていた。
「そんなに餓鬼の面倒みたいなら、孤児院でも作るか」
そんな俺に、上司は訳のわからん事を言ってきた。
いや、先生になりたいって言いませんでしたか? と思ったが、
「何が違う。お前は餓鬼の傍にいたいだけなんだろ?」
そう返されれば、何も言えなくなった。
確かに上司の言う通りだった
「近頃は俺らのシマでも孤児が増えてる。傘下の人間を増やすのも楽じゃねぇし、用意はしてやるからお前が責任持って見繕え」
「こんな仕事、子供にはさせられませんよ。やめておきます」
その場ですぐに断ったが、上司からは何をビビっているのかと随分しつこく迫られた。
その時は単純にこんな仕事に子供を巻き込むわけには行かないという思いだった。
けれど今なら、それだけじゃなかったと思い返す。
上司の言う通り、俺は責任を持つ事が怖かった。
あんなに教師を目指していたのに、いざ目の前に限りなく理想の選択肢が降ってきた瞬間、子供達の将来のことを考えて俺は関係を作るのを怖がった。
どうして、この世界に入る前に、本気にならなかったのか。
呪いのように、そんな言葉が頭の中を巡った。
「――おい、まだ意識あんのか?」
それからしばらく経って。
俺は死にかけていた。
「――だからお前、この仕事向いてないって言っただろうが」
自分の身体から熱が漏れていく。
赤い熱が、どくどくと胸の辺りから体外に排出されて、いつの間にやら地面に血溜まりを作っていた。
「せっかくお前向けの仕事用意してやったのによぉ。やりたくねーなんてわがまま言うから」
「すんません……」
言葉と共に、血が噴き出した。
ああ、こりゃあだめだ。
ここまでだな。
結局、教師にはなれなかったか。
いや、俺が本当になりたかったのは、果たして教師だったんだろうか。
「……あの子は、無事でしたか?」
薄れゆく意識の中、最後に問いかける。
抗争に巻き込まれた、まだ五歳くらいの少年。俺はあの子を助けれたんだろうか。
「……お前、最後までガキばっかだな」
呆れたような上司の声が、耳に辛うじて入ってくる。
「無事だよ。後のことは任せろ」
「……そ、すか……良かった」
もう、思い残すことはなかった。
コツコツと、遠ざかる足音が、だんだんと聞こえなくなっていく。
「――よぉ頑張った。ご苦労さん」
そんな言葉を最後に、俺の記憶はぷっつりと断たれた。
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