BLACK BELL
BOA-ヴォア
黒い鐘
鐘の音が、血のように濃く滲んでいた。
誰もいないはずの聖堂で、それは確かに鳴っていた。
低く、軋むような音。
空気が凍り、石壁が呼吸を止める。
私はその音を追って、階段を降りた。
足元に溜まる水は、祈りの涙が腐ったものだと神父は言っていた。
だがその神父も、もうここにはいない。
教会の上層で焼け落ちたまま、黒い影のように壁に貼り付いている。
それでも、鐘は鳴る。
誰かが、呼んでいる。
---
私の名はアベル。
かつて“沈黙の修道士”と呼ばれていた。
神に仕える者の中で、最も声を持たぬ者。
言葉を絶たれ、祈りだけを与えられた存在。
声を捨てた者だけが、神の真実を聴けると信じていた。
けれどあの日、私は聴いてしまった。
——神が死ぬ音を。
それは夜明け前、鐘がひとりでに鳴り出した瞬間だった。
天蓋が崩れ、祭壇が割れ、聖書が燃えた。
誰も叫ばず、ただ沈黙だけが残った。
私の中で、何かが裂けた。
---
「おまえの声を返してやろう」
耳の奥で、誰かが囁いた。
私はその声に従って、聖堂の地下へと降りた。
階段は湿り、壁には無数の手の跡が残っていた。
それは皆、かつて祈った者たちの名残だ。
最下層に着いたとき、空気が揺れた。
古い棺の列が並び、その奥で、黒い鐘が吊られていた。
鐘の表面には、目が刻まれていた。
閉じたままのまぶたが、微かに震えている。
「アベル」
鐘が私の名を呼んだ。
「声を捨てた者よ、もう一度、神を呼べ」
私は首を振った。
神はもういない。
祈りは土の中で腐り、残ったのは“記憶の形”だけだ。
それでも鐘は笑った。
「ならば、神の代わりになれ」
---
鐘の音が体に染み込んだ。
骨の内側で響き、血の流れが音楽のように脈を打った。
私は叫んだ。
いや、叫んだつもりだった。
だが喉から出たのは、鐘の音だった。
黒い音。
鈍く、濁って、どこまでも深い。
音が響くたび、体の中で何かが剥がれ落ちた。
肉が祈りを失い、皮膚が経文を吐き出す。
神の名が私の中で腐り、血がインクのように流れた。
私は倒れ込み、床を叩いた。
床は柔らかく、まるで息をしていた。
そこには、他の修道士たちの影があった。
彼らは皆、声を失い、鐘の中に吸い込まれていったという。
私の手が震えた。
指先から、言葉がこぼれた。
――赦し。
――痛み。
――堕落。
言葉が音に、音が光に変わる。
世界が反転した。
---
気づけば、私は鐘の中にいた。
そこは、光のない世界だった。
空は灰よりも暗く、地は水のように沈んでいた。
そこに、声のない人々がいた。
彼らは皆、かつて祈りを失った者たち。
皮膚の下に文字を宿し、血で経文を描く者たち。
「おまえも来たのか」
その声は、かつての神父のものだった。
顔はなく、口のある位置から音だけが流れ出ている。
「神は死んだ。だが祈りはまだ残っている。
祈りこそが、我らの墓標だ。」
私は膝をついた。
胸の中の鐘が鳴る。
それは心臓と重なり、呼吸を支配した。
「私は……神を愛していた」
「ならば、その愛で滅べ」
---
鐘の音が天を裂いた。
黒い雨が降り、人々はその中で笑いながら朽ちていった。
皮膚が剥がれ、骨が白く光る。
地面が音を吸い込み、祈りが泥になる。
私は立ち上がり、鐘の奥へ進んだ。
そこには、巨大な鏡があった。
鏡の中に映るのは、私ではなかった。
祭壇の前で祈る、神だった。
だがその神は、私の顔をしていた。
「代わりなどいない」
神が言った。
「おまえが祈るたび、私は死ぬ。
おまえが沈黙するたび、私は生きる。」
私は鏡を殴った。
鏡は砕け、無数の鐘が降り注いだ。
その音が、私の肉を穿った。
---
朝が来ない世界で、私は鐘を鳴らし続けた。
それが唯一の祈りであり、唯一の罪の証だった。
声を取り戻した代わりに、私は光を失った。
目は見えず、耳は鐘の音しか聞こえない。
それでも私は歩く。
地上の聖堂を目指して。
時折、頭上から声が降ってくる。
「アベル、まだ鳴らしているの?」
「鳴らさなければ、世界が沈む」
「世界はもう沈んだわ」
リラだった。
彼女の声は、遠い過去の幻のようだった。
「もう休みなさい」
「休むことは、堕ちることだ」
「あなたはもう堕ちている」
私は笑った。
鐘が共鳴し、空が崩れた。
---
最後の瞬間、私は鐘と一つになった。
肉体が金属に変わり、骨が鋼となり、血が黒い音を流した。
空洞の中で、私は永遠に鳴り続ける。
それが、私の祈り。
それが、神の代弁。
それが、世界の終わり。
もし誰かがこの鐘の音を聞くなら、その人もまた堕ちるだろう。
なぜなら、この音は赦しではなく、告白だからだ。
そして、告白とは常に——堕落の始まりなのだから。
BLACK BELL BOA-ヴォア @demiaoto
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