翡翠の雫

BOA-ヴォア

翡翠の雫


 翡翠色の空が、今日も沈みきらない。

 まるで神の吐息が途絶えるのを恐れているかのように、雲は東へ滲み、街の尖塔を柔らかく包み込んでいた。


 私はその塔の中で、筆を持つ。

 名を記すことが、罪と呼ばれる前の時代。

 まだ「天使の書記」と呼ばれていた頃、私は祈る者たちの名前を一つひとつ、白金の羊皮紙に書き留めていた。


 その筆先が初めて震えたのは、千年前の夜だった。

 最後の祈りが終わった日。

 神々の声は絶え、人間たちは言葉を捨てた。

 私は、祈りを記す仕事を失った。


 そして――堕ちた。



---


 堕落とは、落下ではない。

 それは、静かに沈む音のない降下だ。

 ひとたび始まれば、底がどこかもわからなくなる。


 私は街の下層バティカへ降りた。

 そこでは、涙が貨幣として流通していた。

 泣くことが贅沢であり、痛みが快楽であり、涙の色が価値を決めた。

 透明な涙は水のように安く、黒い涙は希少とされた。

 だが最も高価なのは、“緑”――翡翠の涙だった。


 私は、初めてそれを見た夜を今も覚えている。

 男が女にすがりつき、赦しを乞いながら泣いていた。

 その涙は光を呑み込み、ゆっくりと宝石に変わった。

 誰もが息を呑んだ。

 そして私は、思った。

 ——これが、神の残骸だ。


 私は涙を集めることを仕事にした。

 瓶を持ち、夜の市場を歩き、泣く者の頬を指でなぞる。

 その指先に残る光を、瓶に封じ込めた。

 最初は単なる取引だった。だが次第に私は、集める行為そのものに陶酔し始めた。

 悲しみを吸い、絶望を溶かし、翡翠の輝きを眺めるたびに、胸の奥で何かが蕩けた。



---


 ある夜、私の前に一人の少女が現れた。

 名をリラと言った。

 彼女は声を失っており、涙を流すこともできなかった。

 けれど彼女の瞳の奥には、乾ききった湖のような静けさがあった。


 私は尋ねた。

 「泣いたことは?」

 彼女は首を横に振る。

 「なら、私が教えてあげよう」


 私は彼女の手を取り、薄い刃を渡した。

 「痛みを感じることが、涙を呼ぶ」

 彼女は震えながら、指先に刃を当てた。血が滲み、彼女は初めて声を漏らした。

 けれど涙は出なかった。


 「まだ足りないのね」

 私は笑い、指を口に含んだ。血の味は、懐かしい祈りのようだった。


 その夜、彼女は私の部屋に残った。

 そして、朝まで泣く練習を続けた。

 声を殺し、体を震わせ、息を吐きながら。

 やがて夜明け前、初めて頬を伝う一筋の水が光を帯びた。

 翡翠の涙だった。


 私はそれを瓶に封じようとした。

 しかし彼女は私の手を掴んだ。

 「それは……私のものよ」

 私は笑った。

 「もう違う。これは、神のものだ」


 その瞬間、彼女は瓶を叩き落とした。

 翡翠の雫が床に散り、光が部屋を染めた。

 それは、美しかった。

 そして私は気づいた。

 ——私はもう、人間ではない。



---


 堕落は、罪の先にある快楽だ。

 私は祈りを捨てた日から、すでに堕ちていたのだろう。

 だがそのとき初めて、“堕ちることの甘美”を知った。


 リラは次第に笑わなくなった。

 夜ごと涙を流し、それを自ら飲み込むようになった。

 「どうして集めるの?」

 と彼女は私に尋ねた。

 私は答えた。

 「涙は、神を繋ぎ止める糸だ。私はまだ、あの声を待っている。」

 彼女はかすかに笑った。

 「じゃあ、神を縫い合わせるつもり?」

 「そうかもしれない」


 だが、その翌朝。

 彼女は姿を消した。

 ベッドの上には、小瓶が一つだけ残されていた。

 中には、翡翠の雫が三滴。

 それは、これまでに見たどの涙よりも濃く、深く、暗かった。


 私は瓶を掲げ、光にかざした。

 その瞬間、雫の中で誰かが笑った。



---


 それから何日が経ったか覚えていない。

 街は腐り、塔は崩れ、祈りを覚えている者は誰もいなくなった。

 私はただ、瓶の中の光を眺めていた。

 翡翠は、次第に私の肌へと滲み込んだ。

 目の奥が緑に染まり、血が透け、骨が光った。

 「これは罰ではない」

 私は呟いた。

 「これは、神の模倣だ」


 かつて天にいたころ、神々は人間に憧れて堕ちていった。

 そして今、私は人間に憧れて堕ちていく。


 リラが最後に残した言葉が、頭を離れない。

 「あなたは、自分の涙を見たことがある?」


 私はない。

 書記であった私は、他人の祈りばかりを記してきた。

 自分の痛みを言葉にしたことは一度もなかった。


 だから、今、試してみようと思う。



---


 私は机に向かい、古びた羊皮紙を広げた。

 かつて神の名を記した筆を取り、瓶を傾けた。

 翡翠の雫が筆に染み込む。

 筆先は静かに震え、文字が浮かび上がった。


 ――「私は堕ちた。だが、美しかった。」


 その瞬間、部屋が光に包まれた。

 床に散った瓶が砕け、翡翠の粉が舞う。

 私は瞼を閉じた。

 瞼の裏で、緑の海が広がった。


 誰かが私の名前を呼ぶ。

 リラの声だった。

 「終わったの?」

 「いや……まだだ」

 「なら、泣いて」


 頬に熱いものが伝う。

 それは涙だった。

 けれど、その色は——赤かった。


 私は笑った。

 堕落の果てに、ようやく人間に還った気がした。



---


 夜が明ける。

 翡翠の都は静かに崩れ、光の粒が空へ昇っていく。

 塔の上で、私は最後の一行を書き終えた。


 ――「この雫こそ、神が見た夢である。」


 筆を置く。

 空は、ようやく沈みきった。


 私は瓶を砕き、雫を掌に落とした。

 それを舌の上に転がす。

 冷たく、甘く、そして懐かしい味がした。


 世界の音が消える。

 翡翠の光が私の体を透かし、風が骨を通り抜けた。


 その瞬間、私は理解した。

 ――堕落とは、終わりではない。

 それは、祈りの最も近いかたちなのだ。



---



 もしもこれが神の赦しならば、私は何度でも堕ちよう。

 涙が宝石になる世界で、私が求めたのは、ただひとつ。

 **「涙を、もう一度見たい」**という願いだけだった。



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翡翠の雫 BOA-ヴォア @demiaoto

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