ー 2 ー

 


昼下がりの病室は、静かだった。


 廊下を行き来する看護師の足音が、やわらかく響いている。


 点滴の影がカーテン越しに揺れて、窓際には淡い陽の光。


 陽翔はベッドの上でリハビリ用のノートを開いていた。


 担当医に言われた通り、できる範囲で足を動かす。


 動くたびに鈍い痛みが走るけれど、それでも止めたくなかった。


「……がんばるね、君。」


 声に顔を上げると、カーテンの隙間から湊がこちらを覗いていた。


 白い病衣に肩までの柔らかな髪。


 その頬に落ちた光が、ほんの一瞬、外の世界の人みたいに見えた。


「見てたの?」


「うん。音がしてたから。」


「大したことじゃないよ。リハビリの真似事。」


「でも、“もう一回走りたい”って顔してた。」


 図星を刺されて、陽翔は苦笑いする。


 湊はそんな彼を見て、ふっと目を細めた。


「俺もさ、外に出てみたいな。風の匂い、もう一回ちゃんと感じてみたい。」


 それは、独り言のようで、祈りみたいでもあった。


 その一言に、陽翔の心が小さく波立つ。


「……行く? 屋上。風、結構気持ちいいよ。」


「屋上?」


「リハビリって言えば、怒られないと思う。」


 湊は驚いたように目を見開き、少しの間考えてから笑った。


 その笑顔は、病院という白い世界の中で、やけに鮮やかだった。


「じゃあ、こっそり。」


「こっそりな。」


 二人は時間を見計らって、午後の見回りが終わるのを待った。


 看護師の背中が遠ざかると、湊はゆっくり立ち上がる。


 点滴スタンドを押しながら歩くその姿は、危ういほど細い。


 それでも、彼の目には少しだけ“生きてる”光が宿っていた。


 エレベーターを抜けて屋上の扉を開けた瞬間、風が勢いよく吹き込んだ。


「……わぁ。」


 湊の口から小さな声が漏れる。


 頬に風が当たり、髪が揺れた。


 まるで、それだけで生きていることを確かめるように。


 陽翔は手すりにもたれながら、空を見上げる。


 秋の匂いがした。遠くの空は、夏の終わりみたいな色をしている。


「湊、風、嫌いじゃない?」


「好きだよ。でも……こうして感じるの、すごく久しぶり。」


 湊は両手を空に伸ばした。


 その仕草が、どこか儚くて、陽翔は息を飲んだ。


「ねぇ、陽翔。」


「ん?」


「もしさ、風に名前があるとしたら、君はなんて呼ぶ?」


 唐突な問いに、陽翔は少し考える。


 風——触れられないけど、確かにそこにあるもの。


 今の湊みたいだな、と思った。


「そうだな……“湊”って呼ぶかも。」


「……それ、僕の名前じゃん。」


「だから、ちょうどいいだろ。」


 湊は吹き出して笑った。


 その笑い声が風に溶けて、空へ消えていく。


 陽翔はその横顔を見つめながら、心の奥で確信した。


 この瞬間を、きっと一生忘れられない。


 風が吹くたびに、思い出してしまう気がした。


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