第27話 旅立ち


 そのあとすぐまた祝福のあいさつ攻めが再開され、それは他の騎手たちをねぎらう輪をも巻きこんで周辺部族が入りまじる宴会へと発展していった。羊が屠られ、チーズと馬乳酒が供出され、草原のあちこちで羊を焼く煙が上がった。胡弓に胡笛が音色を合わせ、河では夏至の陽光を浴びて半裸の子供たちが魚捕りに興じていた。

 ナランツェツェは早くポーリャと話したかったのだが、宴会の最上の席に座らされてけっきょく陽がかげるまで抜け出すことができなかった。


「がんばったねナーチャ」

 ようやくポーリャのゲルに駆けつけると、入口のそばには荷物が旅に向けてコンパクトにまとめられていた。三年近くをともに過ごしたポーリャとの別れにあたって、部族の者たちからなにかと貰いうけた大量の贈りものも一緒だ。

「いつ出発するの?」

「明日陽がのぼる前に出るつもり。陽がしずむまでに国境を越えたいの」

「それは無理なんじゃないかな」

 例年よりかなり東側に陣どったとはいえ、今夏ナランツェツェの一族の宿営する地から中原の最も近い城まででも通常は馬で三日はかかる距離にある。

「じゃあ、いまから出るわ。夜じゅう走れば、明日の夜には着くんじゃないかしら」

 いらないことを言ってしまったとナランツェツェは悔やんだ。だが、どうせうそはつけない性分なのだ。

「私ついてくよ。国境の手前まで送ってあげる」

 母さまにはだまって出よう。そう決めて、急ぎ用意を整えに自身のゲルへ戻った。幸い母は宴会に出ていて不在だ。その宴会の場へ、みなに別れを告げると言ってポーリャは向かった。

 ナランツェツェは草原の宴会場を避けつつ丘を進んだが、どうしても気になってそちらに目をやると、ポーリャが内儀かみさんたちと別れを惜しんで話しこんでいるのが見えた。母もいた。左右に顔を向けてなにか大声を出しているのはおそらくナランツェツェをさがしているのだろう。ポーリャと最後の別れをさせてやるために。

 ――だめだ。

 母のその姿を見たとたん、ナランツェツェは雷光に打たれたように気づいた。だめだ、また母さまを心配させるようなことをしては。ひとたび気づくとためらうことなく真っ直ぐに母へ向けて走りだした。


 母はナランツェツェを止めなかった。

「これを持っていきなさい」

 代わりにたいせつな銀の札をナランツェツェの手に押しつけた。それは大可汗カガンの印のついた草原の通行証で、なんぴともこれを持つ者に狼藉してはならぬし、必要とあらば宿と食料の便宜を与えねばならぬとされている。


 ポーリャの荷物を載せた替え馬をナランツェツェが曳いてやって、計三頭で真っ赤な夕焼けの下を走った。背後に太陽がしずんだあとも月が金色に草原を照らすため進みつづけることが出来たが、ときどきは馬を休めるために止まってお茶を沸かした。

 とおい丘の上から狼がもの悲しく吠えていた。ポーリャへ別れを告げるかのように。朝からの疲れが出てナランツェツェがうたた寝してしまうと、みじかい夢のなかにポーリャが出てきた。

 ポーリャがかがやく笑顔で話しかけている顔だちのぼんやりした相手は、あれはきっとカフカなんだろう。ああよかった会えたんだ、よかったねポーリャ、と夢のなかで語りかけ、同時に嫉妬のようなものを感じてはっと目覚めた。月はまだ天頂にあって、狼の啼き声は消えていた。

 またしばらく走るうちに行く手の地平線が紫いろに色づきはじめた。空が紫から青へ、雲は紅から白へとだんだんに移り変わり五色にいろどられる天の下を三頭の馬が駆けた。駆けながらポーリャがとなりを走るナランツェツェに声かけた。ほとんど叫ぶくらいの大声だ。

「草原の朝焼けを見るのもこれが最後ね。きれい。今日の朝焼けはきっと忘れないわ」

 私も忘れない。目の前の草原の緑が刻々と色づいていくのを見ながらナランツェツェは、心のなかでそう言った。


 昼間の移動のあいだに他部族の夏営地をみっつ通過したが、大可汗の通行証のおかげでトラブルなく通ることができた。戦役がつづいているためにどの集団も壮年の男の姿はまれで、途中すれちがった羊の群れはナランツェツェより小さいぐらいの少女が率いていた。いつものとおり屈託ない笑顔で声をかけるポーリャに対して、こわい黒髪を頭のうえで結んだ少女はよそ者への警戒心をあらわにした目でポーリャの顔をじっと見ていた。青い瞳の女はこのあたりではめずらしい。

 峠を越えるときにはロバに乗った三人づれを追い越した。年老いた男が曳くロバに乳飲み子を抱えた若い母親が乗って、うしろから駆けてくる馬の足音におどろいてふり返ったのとナランツェツェの目が合った。一瞬おそれの表情をうかべたその母親の顔は、ビルゲの未亡人となった義姉の姿とかさなった。となりの部族から十六歳で嫁にきて、それでもビルゲと睦まじく暮らしていた義姉は、慣例にしたがっていずれ次兄か一族のだれかのもとに再嫁するだろう。この女も夫を戦で亡くして、居場所がなくなったのだろうか。

 小河のほとりで馬を休ませ、昼の軽食をとっているとふと河べりにガマが生えているのを見つけてポーリャに言った。

「ほら、あそこにガマがある。切り傷に効くんだよね」

 とちゅう声が詰まりそうになって、しまったと思った。ポーリャがいなければこんなに薬草のことをおぼえることはなかった。薬の知識がポーリャからもらった形見だ。目にうかぶ涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に止めたが、くちびるがふるえるのは止められなかった。

「ナーチャは私の一番弟子ね」

 そのちいさな胸からあふれそうな感情を制御しかねて瞳を潤ませるナランツェツェをやさしくつつむようにポーリャは微笑むと、立ちあがって、馬に乗せた荷物から薬研を取り出した。

「これをあげるわ。これからはナーチャがみんなのけがや病気を診てあげるのよ」

 ポーリャが荷物をさがすあいだにこっそり涙をぬぐいとったナランツェツェは、受け取った薬研とともにこのときのポーリャの言葉をずっと宝物にしておこうと胸に決めた。


 最後の峠道をふたりでのぼった。馬を並べて進めるうちポーリャがふっと思い出したように、

「そうよ、今日だったわ」

 坂のうえを見あげながら言った。ナランツェツェには何のことだか分からない。坂のうえでは太陽がもう傾きかけていた。

「河岸で襲われて私が大けがを負った日が、ちょうど夏至のつぎの日だった」

 私ほんとはあのとき一度死んだんじゃないかって思うのよ。首の傷痕を人さし指でなぞりながらポーリャは言った。

 医師になって、いろんな人を診てきたから今なら分かる。この傷痕からするとね、私の喉にとどいた切っ先は動脈と気管とを切り裂いていたはずだわ。人間の業では生きられるわけがないのよ。からだじゅうの血を流し尽くして私がカフカの腕のなかにいたときどんな奇蹟をカフカが起こしたのかは分からないけど、あのときカフカが私に生きていてほしいって強く願ったから――私はいまも生きてるんだと思う。

 だとすると、今日は私が新しく生まれなおした誕生日になるかもね。ほんとうの生まれた日は知らないし、知ったとしても私にはたいして意味ないの。私にとってたいせつなのは、橋の上でカフカと出会った冬の日と、カフカに新しい命をもらった夏の日。

 話しているうちふたりは峠の頂上に出ていた。峠から見おろす一面の赤茶けた世界、とおく砂煙に霞むそのさきにはもう、中原の城壁が見える。辺境に忽然とあらわれる長大な城壁は、草原の民の世界がそこでおわることを示している。ナランツェツェをふり返ってポーリャは、ここでお別れしようと言った。

「さよなら、元気でねナーチャ」

 ポーリャはナランツェツェを抱き寄せて頬にキスすると、小さくささやいた。

「今日はその五十回目の誕生日になるのよ。五十年カフカをさがしつづけたわ。見つかるまで百年でも二百年でも私さがしつづけるわ」

 そう言ったあとからだを離してナランツェツェにやさしくわらった。その頬の色は、二十歳の娘のかがやきだ。

「ポーリャは齢をとらないの?」

 ナランツェツェが訊いた。ポーリャは秘密の花のような笑みを返した。

「カフカが死んでないって気づいたときからね」

「そんなにカフカに会いたいのね?」

 こらえきれずに、ナランツェツェの目から涙がつぎからつぎへとこぼれ落ちた。ポーリャは慈しむように目をほそめた。その瞳はどこまでも透きとおって、青い。

「私がカフカと会えるよう祈っていてね、ナーチャ」

「会えるよぜったい。でなきゃ天がそんな長命を与えるわけないもの」

 ナランツェツェが泣きながら必死に言うのを聞くとポーリャは幸せの予感にかがやいた咲顔を最後に見せて、馬の腹を蹴るや峠を下ってじきに見えなくなり、夢のように消えてしまった。



(第一章おわり。第二章へつづく)


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