第十九章 決別、心持ち (リン)


「本当に、ごめんなさい。そして、ありがとうございました」

 私はユイカにそう言って、深々と頭を下げた。困惑はするだろうけど、のことを分かってくれている彼女なら、受け止めてくれるだろうと信じたいのだ。後戻りなんかはしたくないんだと、精一杯に気持ちを伝えられたはずだ。

「そうか……ついにここを出ていくんだな。私達こそ、リンを縛り付けるような体制になってすまなかったよ。アンタを引き取ったのも、うちの家系の責任だしな。

 ああ、お詫びと言ってはあれだが……東京に出ていくというのなら、十分な金は持っていって欲しいんだ。申し分ない額だが、せめてでも受け取ってくれ……」

 彼女はジーンズのポケットから封筒を取り出して、私の方に突き出した。彼女の顔は、今まで見たことのない真剣な形相をしていた。私は迷いながらも、受け取ることを選んだ。それを見て、彼女は胸を撫で下ろしたように一息を吐いた……いや、一区切りをつけたようだった。

 私から言うことは、もう無いように思えた。が、無情にも足が動かなかった。たぶん、の中の誰かが拒んでいるんだと思う。今の頭の中は一言さえも、アイツの声が響いていなかった。かつてアイツにうなされていた私の体調が良くなってから、不思議といなくなってしまったのだ。嬉しい事でも、悲しい事でもなかったけど、孤独になってしまったように思えて、寂しかった。けど今、この拒んだ気持ちは、すぐにアイツのことだろうと分かった。声は聞こえなくとも、まだ潜んでいる……前の状態に戻ったのだ、は。

 私は堅く閉じた口を開け、彼女の方を見ながら、私の思う全力の笑顔でいった。

「……ここから出ていくのはあと一週間あるから、あんまり寂しがらないでよ! まぁ、残り少ないけど、今のうちにユイカ達がいる札幌ここを楽しんでおくよ。……ちょっとカイくんに話したいことあるから、それじゃ!」

 少し、わざとらしいかもしれない。けれど、私にはこれぐらいしか、彼女を慰める方法は思いつかなかった。何より、は人の笑顔を見るのがとっても好きだったから、最後になってでも笑っていて欲しいと勝手に思っているのだ。

 私はユイカの元を後にして、カイくんの部屋へと向かった。振り返ったらきっと寂しい顔をしているであろう彼女を、申し訳なく振りほどいて。


 階段を拍子良くのぼり、カイくんの部屋の扉の前まで来て、私は手の甲で二回ノックした。作法的に合っているかどうかを気にもしなかったのは、今すぐにでも顔を合わせたいからだったと思う。

「ごめん、話したいことがあるんだけど……今いい?」

 扉の前で言い放つと、少し遅れて向こう側から「……どうぞ、入って下さい」といつもより抑えめな声が返ってきた。そのちょっとした間が私に違和感を突きつけたが、やはり私は話すことで頭が沢山だった。そして扉へ手をかける間もなく、歩く流れのようにその扉を開ける。

 彼はベットの上で腰を据えているように見えているが、そのカーペットに置いた足は微かに震えているようだった。

「どうかしましたか? 何か、話でも?」

 彼の潤んだ目がこちらを見ていた。私には彼の身に何があったのかなど、考えるような必要もなかった。彼の手元には古びたような手帳のようなものがあったのだ。それは確かに母の記録と言っていいだろう。また何か、を再び見てしまったのだろうか……。

 とりあえず私は、言いたいことだけ彼に伝えようと口を開いた。

「あの東京に出ていくことなんだけど……地下に入るのはどうしても東京? 札幌の地下から行ける通路はないの?」

「地上の東京の景色を見たくないのですか……。それとも、札幌の地下に何か用でも?」

 彼特有の観察眼は鋭かった。その言う通り、ここの地下に用があったのだ。

「ああ、ちょっとね。ここから離れることになると少し心細いから、最後に札幌の地下の景色でも見ておきたい、って不思議にそう思ったんだ。……カイくんも、自分の故郷にサヨナラしといたほうがいいかもしれないよ。もしかしたら、戻れなくなる可能性も無くはないからね」

 私からこんな情けないことを言うのはおかしいとも思う。けれど、その未練をこの先の残り僅かな人生に残してはいけないのだ。

「……そうですか。では、地下の鉄道路線から行きましょう。勿論、地下鉄とは別物の、地下世界の交通の中枢となっている鉄道のことです。中層区のダウンタウンのど真ん中にあり、そこでは東京に行く人々で溢れかえることでしょう……。それでもよろしいですか?」

「そんくらい大丈夫よ。二人でくっついていれば、はぐれるなんてことは物理的にないから……!」

「全く貴女は……無茶を言うものですよ。まぁ、心配はしないでください。人混みは幾分か、既に慣れていますから」

 私が「本当に?」と笑っていると、彼の口元が微かに上がったような気がした。これがの本当にしたかったことだ。不意に、心の内で感じたこともない静かな高揚感に包まれた。

 すると打ち解けたのか、彼は先程の事情を語り始めた。

「……気づいているかもしれませんが、リンさんが来る前、私は大泣きをしてしまいました……自分としても、どこか情けないですが。

 先程、母の記録をすべて読み終えました。色々と、私にとって重要な情報がちらちらと拝見できました。私の身に何があったのかについてや、日本の地下の全貌、そして母自身のことについても書かれていました。

 母は地下室出身ながらも、名の知れた頭の切れる科学者だったそうです。母は元々、私達を生み出すことに猛反対していたそうですが、既に私達のような存在は生まれてしまいました。そこで母は私を見つけたそうです。母自身と同じ、黒猫の獣人を。輝かしかったようで妙に惹かれた母は、私を引き取り、育てることにしたそうです。……きっと、ようなことでもしたかったのではないのでしょうか。私にもわかります」

 彼は次第に、俯きながら独り言のように語っていた。それでも私は、その奇妙な話に耳を傾ける。

「それで、私は東京から札幌に移りました。小さい頃は、父が癇癪を起こして逃げてきたのだと勝手に思っていましたが、それは母が誤魔化そうとしていたことが後々からわかりました。何故なら、父の存在はその話以降、全く出てこなかったからです。恐らく、父の存在は作り話でしょう……悲しいですがね。そこで私は、造られた獣人だということを改めて思い知らされたのです」

「……私もそうなのかな?」

 私が誰に対してでもなく呟くと、彼はやはり反応を示した。

「何が、ですか?」

「……お父さんがいないこと。今まで疑ったこともなかった」

 彼は首をかしげるようにして、少し唸ってから私に訊いた。

「……おかしいですね。私達の担任から聞いた話では、貴女の父親は仕事の関係で地下に行ってしまい、亡くなっていると聴きましたが……嘘だったのでしょう。まだ優しいほうだとは思いますが、彼もきっと分かって喋っているのでしょう」

 何故か、私の目から涙が一筋、頬の方に流れていったような感覚がした。ふと、自分の顔を拭うようにすると、頬の毛に水が吸っていた。……悲しかったのか、は。

「ごめん、なんか無意識に出ちゃった。……なんで、なんでよ。嘘なんかついて欲しくなんかないのに……」

 そう感じるたびに、一層この目から涙が溢れ出そうになる。ついには声まで出て、カイくんの膝元に顔を埋めた。それでも彼は優しく、何も訊かずに、私の頭を撫でてくれていた。それが更に、私の感情の波を激しくさせるようだった。

「……世の中に知って欲しくないことを謹んでくれるのは、優しいことだと思いますよ。こうして私達は、今まで生きていられたのですから――」

 諦めの境地に達した者の言葉のようだった。いや、そうであってほしくないと思う節もある。けど、今はとにかく泣き叫びたい気分だった。そうして楽にいたかった。


 ――私達は、この残酷な歯車の中で、どうしても苦しまなくてはいけないのだろうか。そう思うしかなかった――。

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