第十四章 哀痛、出発 (カイ)


 いつの間にか朝になっていたようだ。あれから私は何もできなくて、玄関で寝落ちしたらしかった。

 玄関には強烈な朝日が差し込んで、目の網膜が焼けそうになるほど痛い。それよりも、硬い床の上で寝たせいで体のあちこちがジンジンと痛む。首も寝違えたのか、痛くてよく動かせない。

 ――今日も休みでよかった。だけど明日まで、この痛みを引きずったら相当苦労するであろうことが気がかりになった。ユイカさんやリンさんが、更に心配してしまうと、私も反応がしづらい。心の棘はまだ刺さっているのも相まって、体が重くなる。

 なんとか起き上がって、昨夜から履きっぱなしの靴と靴下を脱ぎ、全身の痛みに耐えながら、リビングに向かった。そこには、私を心配して見ていてくれていたであろうユイカさんが、椅子に座って、机にうつ伏せになりながら寝ていた。

 色々な人に迷惑をかけていると思うと、心がキュッと引き締められるような気持ちになった。これは私だけの問題ではないと今更ながら知る。私は申し訳ないのに、ひたすらに彼女の寝ている姿を見つめることしかできなかった。

 ……私も悔しい。実験に使わされていた者に幸せが来るだとは思えない。地下の住人たちはその事実を抱えながら、細々と生きてきたのだろうか。……他人事みたいに思う自分がとても憎らしい。今の私では、ただ立ち尽くすことしかできないのだ。

 もう何も考えたくなくて、ユイカさんの隣の椅子に座っては、机にうつ伏せになった。今まで溢れ返りそうだった涙も崩壊する。

 ここで啜り泣いていても、何も変わらないのは分かっている。分かり切っている。だけど今は……抑え切れない感情が津波のように押し寄せてくる。処理しきれないほどの、苦しいものが。

 そのうち私は、しばらくは泣いていようかと、慰めのようにも諦めた。


 私の横で、ユイカさんが目が覚めたようだった。彼女は私が隣にいるのに気づかなかったのか、短く驚いたような声を出した。そして、彼女の落ち着いた声が静まり返った室内に響く。

「……話は全部聞いた。リンが相当心配していたぞ、カイのこと。起きたら、顔見せてあげな」

「ごめんなさい、ご迷惑をお掛けして。……情け無いです」

 私はまだうつ伏せになりながら、彼女の顔も見れないでいた。

「私はいいんだよ……。アンタの方が辛い思いをしていると思うから。元気を出せとは言わないけど、リンはアンタが辛い思いをしている姿なんて見たくないだろうよ。……無理言わせてごめんな」

 彼女の、普段よりずっと暗い声を聞いたことがなかった。けれど、私は何も言えない。

「……地下の私達は、必要がないのでしょうか。ただ生きる価値もなく、誰からも大切にされずに死んでいくのでしょうか。地上からは除け者にされて、嫌われる存在でいろ、ということでしょうか……。何者であればいいのですか、は」

 行く先もない怒りと悲しみが心の中でぐちゃぐちゃになって、口から溢れて出た。どうしようもない、という一言に尽きる。もう私の眼からは何も出ないくらいに、目が痛んだ。

 すると、ユイカさんは私を両手で抱きしめた。間違いなく、私には救いの手が差し伸べられた。あの時感じた、暖かな温もりがじわじわと蘇る。生きていると心から思った、白い毛並み、体温、手のひら……ユイカさんではあるけど、やはり私はまた、リンさんに思わされたのだ。

「せめてでも、楽しく生きようじゃないか。素晴らしい世界ではないけど、少なくとも私達がいる。それだけでもいいんだよ、アンタは」

 私はようやく、ぐしゃぐしゃになった顔を上げた。彼女の表情は非常に穏やかだった。私の苦しみを全て受け止めて、救ってくれるような神でも仏でもなく、確かにユイカさんだった。彼女の優しさは、私にはなくてはならない気がしてくる。

 彼女は私から手を離したが、その安らかな心地が、まだ包まれていた。私は彼女をしばらく見ていたが、何故かは分からない。きっと、彼女には何か特別に惹きつける魅力があるのだろう。


 私がそのままぼんやりとしていると、いつの間にかリンさんが起きてくる時間帯になっていた。わたしは彼女を見かけると、すぐさま謝った。

「昨日は迷惑をかけてすいませんでした。せっかく誘ってくれたというのに、あんな事態になってしまって……」

「……あぁ、いいのよ。わたしもあなたについて、ちょっと理解が足りていなかったから。いい友人関係を保つには、そういうことも受け入れていかないといけないと思うからね」

 彼女は快く私を認めてくれた。私もなんだか、彼女の存在について考えさせられたから、心強かった。

 そこで私は勇気を振り絞って、彼女にある提案をした。

「……あの、リンさん。改めて、私は貴女の住む世界について、もっと知りたくなりました。だから、この街を歩いてみませんか? 二人で、一緒に」

 彼女はうれしそうに微笑んで答えた。

「それでも貴方は、わたし達を理解してくれるなんて……嬉しいな。改めて、一緒に行ってみようか」

 私もそう受け入れてくれて、ありがたかった。そんな私達を遠目に、ユイカさんは微笑んでくれた。それもまた、私は勇気づけられような気がする。

 そして私とリンさんは、玄関を勢いよく飛び出していった。


 この夏もやっと終わりに近づいた。もうすぐで九月らしさがやってきて、秋空が見える頃であろうか……。地下では季節感は皆無だったが、なんとなくは肌で感じられた。ただ地上に来てみてからは、季節の移り変わりを目で感じることができた。……これからの秋が待ち遠しい。

 今はリンさんと二人、札幌の中心街をぶらぶらと歩き回っていた。地上の街をちゃんと見るのは、これが初めてだったかもしれない。外の空気はもう秋が深まっていて、少し肌寒い。そうは言っても、もう九月の中旬なのだが。

「ねぇ、カイくんはおばあちゃんとか居なかったの?」

 リンさんは足元の植木を横目に眺めながら自然に言った。……私はほんの少しの間に精一杯頭を捻ったが、よくわからない。

「……考えたこともありませんでした。私の隣には、母という存在しか居なかったような気もします」

「そっか。……わたしのおばあちゃんは、だいぶ昔の子供の頃に死んじゃったよ。今でも覚えていられてる、おばあちゃんの顔。わたしの側にはいつも居たな……優しかった」

「何故、今なのですか? 私には祖母の存在など、気にもしなかったですが」

 彼女は数秒の間だけ、静かになった。それを取り繕うように、彼女は明るい表情を私に向けて話すようであった。

「今日はおばあちゃんの大切な日だからよ! 九月の十五日はおばあちゃんの誕生日……それと同じく命日も」

「なんだかすみません、気を使わせてしまって。てっきり違う理由かと――」

「お父さんもだった」

「……え?」

 一気に背筋が凍りついた。まさかとは思うが――。

「想像がつくでしょうけど……おばあちゃんはお父さんを地下に見送りに行ったの。それで、死んじゃった」

 ……私は何ということを訊いてしまったのだろうか。それでも、この話題を持ちかけたのは彼女の方ではある……自分で墓穴を掘っているのではないか。

「だから、わたしは貴方を地下に連れて行ったのよ。ちゃんと貴方に、このことを話そうと思ってた……。けれど、貴方の方こそ大変じゃないの。そんな事実があったなんて思っても見なかったから、今話すべきじゃないなと、言葉を飲んだよ。それで今話してる」

 ――何から何まで申し訳ない。彼女の話を遮ってまで、私はあんな事態に混乱していたなんて……とてつもない迷惑をかけた。

「すいません。ご迷惑をお掛けしました」

「貴方は何も悪くないのよ。むしろ、わたしの方から感謝したいの」

「……どういうことですか?」

 彼女は私の対に顔を合わせて、後ろ歩きしながら答える。

「わたしを助けてくれて、ありがとう。まだ、ちゃんとお礼言ってなかったもんね。これだけは伝えたかったの」

 彼女はやはり、お決まりの笑顔を私に見せてくれた。助けたのは言うまでも無いが、貴女が私を救ってくれそうだったからであって、むしろこちらからも言いたかった。けれど、今は言葉を飲み込んだ。

 ――今言うべきであろうか。いや、ここで言わなかったら、この気持ちは晴れない。私は勇気を振り絞って立ち止まった。

「私からも、お返しと言ってはあれなんですが……」

「ん? お返し?」

「……これからもずっと側に居て欲しいです。私と付き合ってください」

 私との間に少しの沈黙が流れた。……少し考えてからのほうが良かった。ほぼほぼ流れで言ったから、こんな急に受け入れてくれるはずも――。

「ありがとう、カイくん」

 思わず、ガバッと顔を上げた。彼女の顔は、今朝のユイカさんに似た、穏やかな表情だった。

「どこかで、その言葉を待っていたような気がするな。実際に言われると、もっと嬉しい」

 穏やかな顔はすぐに崩れて、ついには感極まって涙を流していた。彼女は私の方に近づくと、私の胸の中に倒れついて、両手でしがみついた。

 あまりにも突然だったが、彼女の気持ちもわかるかもしれない。たった一週間の付き合いではあったが、境遇が似ていて、苦労人同士、惹かれあっていたような。いや、お互いに助けてもらいたかったのかもしれない。


 これからも、支え合いながら生きていきたい……。そう思ったのは、生きてきて初めての気持ちだった。私はこれから、どんな人生を歩むのだろうか――。

 今年はもう見れなくなるであろう、厚い入道雲をただひたすらに、私はしみじみと眺めていた――。

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