第12話 夜を出て、同じ朝へ

 朝いちの白湯は、湯気が糸みたいに細く立ちのぼった。

 窓の外はうす曇り。カーテンの縁にだけ金色が貼りついて、部屋の空気まで柔らかく見える。ミントを一枚、指でちぎって落とす。香りが喉の奥でほどけ、胸の奥に残った緊張の角が、少しずつ丸くなる。


「おはよう」

「おはよう」

 春斗は肩にタオルを引っかけ、寝癖を指先で押さえながら入ってきた。無地のマグを両手で受け取ると、湯気に目を細める。

「今日、いよいよ披露だね」

「うん。新ビジュアル……ちゃんと似合うといいけど」

「似合うよ。昨日のテスト、めちゃくちゃ良かった」

「喉は?」

「強い。今日は本当に」

 言い慣れたやり取り。だけど、声の奥に、緊張と嬉しさが同居している。どちらも、彼がちゃんと生きている証拠だ。


 棚の奥で、星柄のマグが光を拾っていた。表には出さない。けれど、そこにあるだけで落ち着く。隠すためじゃなく、守るために奥にいる。その区別を、俺たちはやっと言葉にできるようになった。


「最後の挨拶、もう一度だけ練習させて」

「どうぞ」

 春斗は軽く姿勢を正し、ゆっくり息を吸い込んだ。

「……君の夜が、優しいままでありますように。僕の夜も、誰かの手で守られています。ありがとう」

「大丈夫。言わないところが、一番届く」

「うん。言わない勇気って、思ったより筋力使うね」

「使う。でも、春斗は持ってる」


 トーストが上がる音。バターを薄く塗る。皿の端に四角いチョコを一粒置くと、春斗が小さく笑った。

「朝からご褒美?」

「七海の“甘いものルール”。今日は朝から前借り」

「了解」


 食器を流しに置くと、冷蔵庫の内側の紙に視線が止まる。角が少し丸くなったルールの列。そのいちばん下に、昨夜ふたりで書き足した細い一行がある。

 ——帰り方を忘れない。

 地図の凡例みたいに、さりげなく、でも確かに効く言葉。


「行ってくる」

「いってらっしゃい。戻ってこい」

 笑い合って、扉が静かに閉まる。鍵はかけない。家は、帰ってくる気配に合わせて呼吸している。


 ***


 午前、洗面台の鏡を拭いた。水の痕が消えて、輪郭がくっきりする。

 ベランダでシーツをばさりと広げると、白い布に日が潜り込み、部屋の匂いが一段軽くなる。布の影が風で膨らんでは、また戻る。呼吸を真似しているみたいだ。


 昼前、七海から短い通話が入る。

「現場は安定。照明も音も上出来。もし何かあるなら曲明けでケーブル交換。……あんたは“いつもの温度”を用意しとき」

「了解」

「緊張したら、やわらかい匂い。ミントでも米をとぐ音でも、なんでもいい。生活の音に勝てる不安は少ないから」

 それだけ言って、七海は切った。頼もしい。


 午後は洗濯機を回しつつ、キッチンの引き出しを整える。箸は箸、スプーンはスプーン。ラップの箱の角を揃え、輪ゴムの束を作り直す。

 どうでもいい整頓が、こんなに効く。身体の中の雑音が、ひとつずつ止んでいく。


 夕方、ミントと、少し良いチョコレートを買い足した。

 夜の“よくやった”を約束する味。帰ってきたら、二人で少しずつ砕こう。

 玄関マットの向きを整え、ポットに水を足し、ラジオを小さくつける。どこかの街の交通情報が流れては消える。世界は広いのに、ここは狭くて、そして十分だ。


 ***


 スマホの端で、カウントダウンがゼロになる。

 「こんばんは、星影ハルです」

 新ビジュアルの彼が画面に現れた瞬間、胸の奥で、固く結ばれていたなにかが解けた。目の奥の静けさは、ライトに負けずに残っている。チャット欄が一斉に弾け、拍手と星とハートが混ざる。


 彼は急がない。言葉を置く前に空気を置き、空気に意味が宿るのを待ってから口を開く。

 その“間”に、見ている人の夜がそっと入り込む。

 「距離は、悪いものじゃないと思う。遠いほど見える形もあるし、戻ってくるための助走にもなるから」

 少し笑って、また間を置く。

 間は空白じゃない。呼吸だ。呼吸の乗り物に言葉を乗せると、遠くまで、静かに届く。


 歌のあと、スタッフの影が自然な身のこなしでケーブルを入れ替えた。音が一瞬澄んで、すぐに馴染む。

 “何も起きないように、誰かが起きている”事実が、胸を温める。俺はブレーカーのそばに立ったまま、ゆっくり息を吐いた。


 終盤、彼はわずかに目を伏せ、呼吸を一つ深くした。

 「最後に、少しだけ。君の夜が優しいままでありますように。僕の夜も、誰かの手で守られています。——ありがとう」

 チャット欄が一瞬、きらりと静まり、それから波のように拍手で満たされる。

 「それじゃ、君の夜に、星を」

 決め台詞。マイクが切れる直前、壁越しに伝わる深い呼吸。


 扉が開く。

 「おつかれ」

 「ただいま」

 いつもより低く、少しかすれた声。緊張が抜けたばかりの、人間の音。

 白湯を差し出す。マグの縁に唇が触れ、喉が上下する。体温が戻ってくるのが目でわかる。


「どうだった」

「……届いた。怖さが、形を失っていく感じがした」

「よかった」

「ありがとう」

「理由なしで?」

「理由なしで」

 笑い合う。笑いは家の灯りを明るくする。


「最後の言葉、練習より良かった」

「練習の時は、まだ帰り道の途中だった。今は、もう帰ってきた」


 “帰ってきた”が、胸の内側の一番柔らかいところに座る。そこに座ったまま、しばらく動かない。

 外では、トラックが角を曲がる音。遠い犬の吠え声。生活の景色が、夜の緞帳のすき間から覗いている。


「……約束、していい?」

「なに」

「この先、外がどれだけ騒がしくなっても、ここで“好き”を言える人間でいる」

「じゃあ俺も。どれだけ怖くなっても、怖がってることを隠さないで言う」

「うん」


 沈黙が降りる。ミントの匂いが薄く漂う。

 春斗はそっとマグを置き、視線をテーブルの角に落としたまま、言葉を選ぶように指先を動かした。

 「……言っていい?」

 「どうぞ」

 「ダメだ、離したくない」

 声が震えた。

 次の瞬間、強い力で抱き寄せられ、唇が重なる。柔らかく、熱があって、頭が真っ白になる。外の夜音が遠ざかり、世界は二人だけのものになった。

 背中を探る手の軌跡に、心臓が拍で答える。額が触れて、離れて、また触れる。呼吸は少し浅くなる。苦しくはない。照明のスイッチが指の甲にかすかに当たって、ぱち、と小さな音。光が一段落ち、影が増える。影は音を食べる。夜が、静かに落ちていく。


 ソファの端に腰を下ろし、肩口に顔を埋めた春斗が、小さく笑った。

 「……練習、続けててよかった」

 「呼吸の?」

「うん。拍、迷子にならなかった」

 「俺たち、呼吸は優等生」

 「うん」

 指先がまた重なる。掌を合わせるほど強くは握らない。でも、離れない。その加減を知っていることが、今日いちばんの誇りだった。


「“彼氏”、今日は二回言っていい?」

「ルール違反だ」

「じゃあ、一回と半分」

「半分はどう言うの」

「言わないで、触れる」

 唇がもう一度そっと触れ、少しだけ擦れて、離れる。それ以上は何も起きないのに、それで全部、足りていた。

 二人の呼吸が混ざり合い、静かな熱が部屋に留まる。

 時計の秒針が、今夜にだけ優しい音で進む。

 窓の外の街灯が、雨上がりのアスファルトに小さな星を何個も落とす。

 “星”は外にあって、灯りはここにある。

 それでいい。もう、それで十分すぎる。



*舞台裏:玲と七海の短い夜(サブ視点・数段)


 配信会場の脇、機材ラックのLEDが虫の目みたいに瞬いていた。

 玲は腕を組んで、音の波形を横目に見ながら言う。「間、うまいな」

 「歩くための間、だよね」七海が頷く。

 「そう。止まるための間じゃない」

 舞台袖の埃っぽい匂い。スタッフが暗闇の中で合図を交わし、曲明けにケーブルを換える。

 「“何も起きないように、誰かが起きる”。うちらの仕事、これだよね」

 玲は目尻だけで笑った。「帰る場所がある声は強い。……帰り方を忘れなければ、なおさら」

 最後の挨拶が終わる。拍手。

 七海が小さくガッツポーズをする。「よし、今日は甘いもの許可。二人とも、家で砕け」

 玲は短く相槌を打ち、タブレットに“OK”と一文字だけ残した。



*“続ける散歩”掌編(部屋の六景)


シンク

 ステンレスの光は、眠っていても緊張している。ふたりでスポンジを握り、蛇口を細く落とす。水の糸が皿の縁を伝い、泡を連れて流れる。——「今日も洗い物はここで終わる」。言葉にした瞬間、皿は生活に戻り、俺たちも戻る。


冷蔵庫

 開けると、内側の紙が息をする。角が一日ぶん丸くなって、インクが少しだけ薄まっている。ミントの束はまだ元気だ。——「明日の朝、ミントある」。こんな小さな在庫確認で、未来の一片が具体化する。届く未来は、たいてい台所にある。


テーブル

 木目の一本が傷のように見える日もあれば、道のように見える日もある。今夜は後者だった。——「“ありがとう”は、理由なしでも言える場所」。言ったあとに沈黙が続くのを怖がらないこと。沈黙は、何かが壊れた音ではなく、何かが守られている音だ。


ソファ

 座面は少しへたっている。座る位置を変えると、身体の重さの履歴が違う形で残る。——「離したくなったら、ここで言う」。離したくないときも、ここで言う。言葉は軽くても、ここに置けば落ちない。


窓辺

 季節は窓のパッキンに最初に届く。ゴムの匂いに混じって、外の冷たさや花粉のざらつきが、ほんの気配だけ滑り込む。——「季節の匂いに気づいたら、伝える」。説明できない匂いを、無理に言葉にしない。伝えるは、ことばの数じゃなくて“向き”だ。


寝室

 ——「手前から歩いて、ここで止まる」。

 止まるたびに、安心は増える。

 天井の薄い影が、まぶたの裏で静かにゆれる。

 触れすぎない。けれど、離さない。

 それだけで、今夜も十分だった。



*明け方と、家のエンディング


 カーテンの縁に淡い金色。湯が沸く音。

 白湯の湯気が、ふたりのあいだをゆっくり通り過ぎる。

 「おはよう」「おはよう」

 「約束の、“家のエンディング”」

 「今?」

 「今」

 「春斗」——名前を呼ぶだけで、彼の目がやわらかくなる。

 「おかえり。——ずっと、好きだよ」

 「ただいま。——ずっと、好きだ」

 繰り返しは、言葉を生活に変える。生活になった言葉は、簡単には壊れない。


 冷蔵庫の紙の下に、もうひとつ小さく書き足す。

 ——季節の匂いに気づいたら、伝える。



*翌日のミニ外出(公園・ベンチ・パン屋)


 昼前、少しだけ外に出た。

 近所の小さな公園。芝の切れ端がまだ冬を引きずっていて、ベンチの鉄がひんやりしている。

 自販機で温かい飲み物を一本。順番に口をつける。缶の口の金属の味がわずかに移って、お互いの体温で消える。


 ブランコの鎖が微かに鳴って、子どもが笑う。

 「ここ、春になったら桜が一列だけ咲くんだって」

 「一列だけ?」

 「うん。細い列」

 「細い列、いいな」

 話す内容は薄い。けれど、薄い話ほど深く沁みる日がある。

 ベンチの端に小さく腰掛けて、肩は触れない。触れない距離で、同じ方向を見る。


 帰り道、パン屋に寄る。

 ショーケースの中でバターの匂いが揺れ、紙袋に熱がこもる。

 店先で小さく会釈した老夫婦が、手を繋いで歩いていく。

 「いいな」

 「どっち?」

「全部」

 言い終えて、自分でも笑った。

 手は繋がない。かわりに紙袋をふたりで持つ。

 持ち手が二つあって、重さが半分ずつになって、ふと気づく。

 ——重さは、想像より軽くなるんじゃなく、同じ重さのまま“楽”になる。


 家に戻ると、部屋の匂いが迎えてくれる。

 ほんの少しだけ開けた窓から薄い風。

 スープを温め、パンを切り、チョコを砕く。

 昼の光の中で、テーブルの木目に新しい小傷を見つける。

 きっと昨日まではなかった。それでも、今日からここにある。

 生活とは、そういう増え方をする。



*夜の“ただいま”と、これからのこと


 夕方、短いニュースが流れる。

 《星影ハル、新ビジュアル披露。「最後のありがとう」に称賛》

 数行の文章の最後に、“温度で伝わった”という言葉。

 画面を閉じる。俺の世界は画面より狭くて、確かだ。

 ポットの湯が小さく弾け、台所のステンレスが微かに鳴る。


 鍵が回る音。扉。

 「ただいま」

 「おかえり」

 その二言のあいだに少しだけ“外”が混じって、すぐ“家”に馴染む。

 コートの布の匂いが、スープの湯気に溶ける。


「今日も、“好き”をここで言える人間でいられた」

「よかった」

「——好きだよ」

「うん。俺も」

 パンをちぎり、スープに落とす。

 汁気を吸ったパンが、生活と恋の境界みたいに柔らかくなる。

 食べ終えると、二人で立ち上がる。


「今夜も“続ける散歩”、する?」

「する」

 シンク、冷蔵庫、テーブル、ソファ、窓辺、寝室。

 指差しながら、短く言葉を置く。

 ふざけているようで、ふざけていない。

 確認するたび、体温が少しずつ同じ高さに揃う。


 寝室の前で、彼が笑った。

 「ねえ、最後にもう一個だけ、場所を増やしていい?」

 「どこ」

 「ここ」

 胸のあたりを指す。

 「“怖い”を置く場所。出したら、ここで溶かす」

 「いい場所だ」

 「でしょう」


 灯りを一段落として、影が増える。影は音を食べる。

 夜は静かに深くなる。

 触れすぎない。けれど、離さない。

 それで、今日も十分だった。



*同じ朝へ


 朝。

 白湯の湯気が、ふたりのあいだをゆっくり通り過ぎる。

 「行ってきます」

 「いってらっしゃい。戻ってこい」

 「必ず」

 扉が閉まり、静けさが戻る。

家は呼吸を続ける。星柄のマグは棚の奥で、今日もひっそり光を拾っている。隠しているのではない。守っているのだと、胸の奥で、もう一度言い直す。


 机に座り、メモを開く。

 > ——画面の向こうの“好き”は、もう、この部屋で呼吸している。

 > 夜が来ても、朝が来ても、帰り道はいつもここにある。

 > そして、続ける。手前から、歩くみたいに。


 ペン先を置くと、春の風が薄く入り、カーテンが小さく揺れた。

 窓の外、昼の光に紛れて星は見えない。

 でも、いい。窓の内側で灯りのつけ方を覚えたから。


 白湯をひと口。吸って、吐く。

 ——今日も、手前から歩こう。世界は広く、生活は狭い。

 その狭さを二人で愛していけるなら、終わりはどこにもない。

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