第6話 再開の夜に、声の届くところ
休止の七日目の朝、加湿器の青いランプは、もう合図ではなく習慣になっていた。
白湯を一口、星柄のマグに唇をつける。喉の奥で、春斗が軽く鳴らす。“こほん”の手前、家の音。
ニュースの端に並んでいた休止の記事は消え、タイムラインも落ち着いている。静けさは、長く続けば鈍い恐さに変わる。でも今日は違う。
──再開の夜、だ。
「十八時、事務所のチェック。二十一時、再開」
春斗は、ノートに丸い字で書き込みながら、淡々と言う。
「回線は?」
「午前に一度だけ。……一緒に見る?」
その一言に、なぜだか胸が温かくなった。
「見る」
壁に沿って配線を確認する。ルーター、配信用PC、無停電電源装置。ブレーカーの位置、テーブルタップの予備。
生活の中にある“配信の骨”を、一本ずつ撫でる作業。俺にできるのはそれだけだけれど、それが今は大事な気がした。
「七海に“頑張れ”って言っとく?」
「ううん。……“楽しんで”のほうがいい」
「了解」
昼前、高良から電話が入った。
スピーカーにはしない。春斗は相手の声を聞きながら、「はい」「大丈夫です」をいつもより少ない回数で返す。短い沈黙に、頷きが挟まる。
通話が切れると、彼は喉に手を当てた。
「どうだった?」
「アンチが一気に来る可能性、最初の三十分。コメント欄はモデレーター強化。……“生活音の件”は触れない。徹底」
「了解」
「それと、玲さんが言ってた。“楽しむ声は、守る声になる”って」
「好きな言い方だ」
「俺も」
午後、七海から短いDM。
七海:おまえは“視聴者として”は黙る。
その代わり、“生活の相方として”そばにいろ。
それが今日の役割。
“相方”。
恋人と言い切らない、でも同居人以上の、ちょうどいい言葉が胸に残る。
夕方。外の空は灰色から薄い桃色へ、小さく色を変え続けた。
十八時、事務所との接続チェック。音量、映像、ディレイ。春斗は「OK」を三回言い、相手の笑いが一度だけ混じる。
切断。「二十一時、よろしくお願いします」。
その瞬間、家の空気は、少しだけ軽くなった。
「晩ごはん、どうする?」
「喉にやさしいやつ」
「豆腐と鶏と、春雨」
「好き」
小鍋に出汁をとり、鶏団子を落とし、春雨をくぐらせる。ネギは細く。生姜は控えめに。
湯気が上がる間、春斗は配信画面のレイアウトを確認する。チャット欄の幅、サムネ、枠名──《ただいま、星拾いに戻りました》。
俺は皿を二つ置き、箸置きを滑らせ、音が立たない角度を覚える。
「いただきます」
「いただきます」
食べながら、話すことは少ない。話さないことが、準備みたいに感じられる夜がある。
ごちそうさま。食器の音を小さく重ねる。シンクに水を落とす角度を浅くする。生活の音を抑える儀式。
十九時四十五分。
壁の向こう、椅子が小さく鳴る。マイクに触れる音。ポップガードの布が指先で張りを確かめられる、あの短い音。
扉の縁まで行って、「ブレーカー、見ておく」と小さく言う。
返事は、家の声。「お願い」。
扉は閉じたまま。十分だ。
廊下の電気を落とす。白い明るさが一段下がり、影が増える。影は、音を食べる。
壁に背中をつけて、息を整えた。
──二十一時。
「ん、……こほん。お待たせ。今日も来てくれて、ありがとう」
再開の一声は、思ったより澄んでいた。
画面の向こうより近いのに、ちゃんと“向こう”に届く声。
歓声の波は壁を越えてこない。けれど、空気の密度でわかる。
“帰ってきた”。その事実だけで、部屋の温度が少し上がった。
雑談──休止中に見た映画の話、朝の散歩の話、星座アプリの新機能の話。深刻なことには触れない。触れないと決めたことが、軽さを守る。
チャット欄は二万、三万、四万。
早口になりそうな瞬間、春斗は一拍置く。
その“置く”を、俺は壁のこちらで一緒に置いた。
呼吸の拍が、重なる。
二十一時二十八分。
配信画面の奥、わずかに照明が瞬く。外の風が強くなった合図。
俺は廊下のブレーカーの前に立つ。スイッチに指を添えて、何も起きないことを祈る指先。
配信は滑らかに流れ続ける。
緊張がほどける。足の裏の力がゆるむ。
「……それじゃ、君の夜に、星を」
再開の夜の決め台詞は、いつもより少しだけ低かった。
誰にもわからない一ミリの差。その一ミリを拾う人間が、この家には二人いる。
配信を閉じる音。椅子が小さく戻る音。
扉の向こうに、家の人間が戻ってくる。
「おつかれさま」
扉が少し開いて、春斗が顔を出す。
目の奥に残った光が、やっと人間の明るさに戻っていく途中だった。
「……ただいま」
その言い方が、少しだけ笑っていた。
「回線、無事」
「ありがと」
「こっちは何もしてないよ。置いてただけ」
「“置く”のが、いちばん難しいんだよ」
テーブルに白湯。氷をひとつだけ。温度差が喉を驚かせないように。
春斗は両手でマグを包み、唇をつけ、目を閉じる。
“ああ”と、誰にも聞こえない声で言った。
「……さっきの“星座アプリ”の話、好きだった」
「ほんと?」
「うん。家の話と、画面の話の間に橋があった」
「橋」
「うん。ちゃんと“向こう”にいるのに、“こちら”の匂いがした」
会話がゆっくり流れて、沈黙の手前で止まる。
俺は一度だけ呼吸を深くして、言葉の形を整えた。
「春斗」
「うん」
「好き、だよ」
静かな夜を、静かな言葉で割る。
それは、派手な爆発ではなく、部屋の中に小さく灯りがひとつ増える感じだった。
春斗は、マグから顔を上げて、まっすぐ俺を見る。
驚きは、なかった。
でも、確かに“揺れ”はあった。水面が風を飲むみたいな、微小な、でも確かな揺れ。
「……知ってた」
「だよね」
「でも、言葉で聞くと、やっぱり、違う」
彼は息を吸い、吐いた。
家の声で、続ける。
「俺も、好きだよ。……推しとか、同居人とか、そういう言い方じゃ届かない“好き”」
胸の奥で、何かが位置を変える音がした。
痛みはない。ただ、重さが移動して、呼吸の入り口が広がる。
目元が熱い。笑いながら、泣きそうになる。
「……ありがとう」
「こちらこそ」
沈黙。
でも、もう“気まずい”の名前は、ここにはない。
テーブルの端の星柄のマグ、加湿器の青、廊下の影。全部が、やけに輪郭を持って見える。
「ライン、どうする?」
「ライン?」
「“触れていいところ”と“まだのところ”。……今日、更新してもいい?」
「うん」
布団の端。昨夜までと同じ、境界をまたいだすぐの場所。
加湿器の青が、指の節に薄く乗る。
「手は、いい?」
「いい」
「肩は?」
「いい」
「額は?」
「……いい」
「口は?」
少しの沈黙。
彼は、ほんのわずかに笑った。
「……今日、少しだけ」
心臓が、優しく跳ねる。
合図みたいに、窓の外で風が鳴った。
俺たちは、同じ速度で近づく。
触れるか触れないかの距離まで。
そこでいったん止まる。
息を合わせて、一拍。
薄く触れて、離れる。
“キス”という言葉で呼ぶには、あまりに小さい、でも確かな接触。
頬の内側が、ゆっくり熱を持つ。
「……初めては、雑にしたくない」
「うん」
「でも、“初めて”を待つ間に、たしかめたいことはある」
「たしかめよう」
手が触れる。絡める。強くは握らない。
肩が、少しだけ重なる。体重は預けすぎない。
額が、触れる。
それだけで、世界の音が一段引いた。
誰かの足音も、遠いエンジン音も、壁の時計の秒針も、全部が背景になっていく。
「……颯太」
「うん」
「配信、続けたい」
「知ってる」
「続けながら、ここを守りたい」
「一緒にやる」
「ありがとう」
彼の言い方は、どこまでも真面目で、どこまでもやさしい。
恋の言葉は少ない。けれど、恋以外の言葉でできた“約束”は強い。
「今日だけ、特別をひとつ。……“彼氏”って言ってみる?」
冗談みたいに、彼は目を細める。
「まだ早いかな」
「うん。少しだけ」
「じゃあ、“好きな人”」
「それは、もう、言ってる」
二人で笑う。
笑いながら、同じタイミングで目を閉じる。
もう一度だけ、薄く触れる。
“初めての前の、練習の前”。
それで十分に、夜は満ちる。
灯りを一段落とす。
線は越えない。
越えないまま、今日の線は、はっきり先へ進んだ。
星柄のマグがテーブルで静かに冷え、加湿器の青が小さく脈を打つ。
眠りに落ちる直前、彼が囁いた。
「戻ってこられて、よかった」
「うん」
「……好き」
「好き」
言葉に形ができて、やっと、この部屋の空気がひとつの名前を得た気がした。
──星の音は、今夜も聞こえない。
でも、声は届いた。
向こうへ、こっちへ。
小さく、確かに。
夜更け。加湿器の青い光がもう一度ゆらいで、部屋の空気が少し冷たくなった。
春斗はまだ机の前にいて、配信のアーカイブを確認していた。
サムネの横に「コメント4.1万」「高評価2.3万」。その数字を、ただ数字として眺めている。
「……すごいな」
「数字、見てる?」
「ううん、見てないふりしてる」
「えらい」
「えらくないよ。気にならないふりをしてるだけ」
言葉の間に、小さなため息が落ちた。
画面の光に照らされた頬は、配信中とは違って柔らかい。
緊張が抜けると、春斗はほんの少し子どもの顔をする。
その表情が好きだ、と言葉に出せば簡単なのに、出せない。
名前を呼ぶのは許されたけれど、“好き”を何度も言っていいとは、まだ思えなかった。
彼が画面を閉じ、照明を落とす。
静けさが戻る。
喉の奥で、軽い咳払い。
その音だけで、今日が“終わる”とわかる。
「明日、大学行く?」
「うん。午前だけ」
「俺、昼から事務所」
「行ってらっしゃい」
「うん……」
会話が途切れる。
“行ってらっしゃい”という言葉のあとに、何かを足したいのに、
足せる言葉が見つからない。
「気をつけて」でも「好き」でも、どれも少し違う。
春斗が“春斗”のまま出かけて、“星影ハル”として帰ってくる、その往復の途中で、
俺はいつも“ただの颯太”として待っている。
それを寂しいと思うのは、贅沢だろうか。
窓の外では風が強くなって、街灯の光が斜めに伸びている。
春斗は眠る前に白湯をもう一度飲んだ。
星柄のマグを持ち上げて、目を細める。
「これ、そろそろ欠けてきた」
「買い替える?」
「ううん、これでいい。……ちょっとずつ減ってくのが、いい」
「それ、なんか人生みたいだな」
「そうだね。完璧なままだと、落ち着かない」
言いながら、彼はマグの縁に指を滑らせた。
光がその指に触れる。
俺はその動きを、目で追う。
どうしてだろう、触れなくても触っているような気がした。
彼がベッドに入る。
加湿器のライトが半分だけ照らして、残りは影になる。
俺も同じタイミングで布団に潜り込む。
空気が少し動くだけで、同じ場所にいることがわかる。
壁が薄いのは不便だけど、時々、それが救いになる。
「ねえ」
「うん」
「この前、言ってたじゃん。……“好き”って」
「うん」
「俺、たぶん、ずっと前からだった」
「いつから?」
「たぶん、最初の“ありがとう”のとき」
「マグ渡したとき?」
「うん」
「俺も、かも」
暗闇で、笑い声が混じる。
ほんの一瞬、息が重なる。
触れようと思えば触れられる距離。
でも今夜は、それをしない。
“しない”という選択が、いちばんの「する」になる夜がある。
彼が少し寝返りを打って、背中を向けた。
背中越しに呼吸が聞こえる。
一定のリズム、穏やかな音。
その音に合わせて、俺も目を閉じた。
夢の手前で、誰かの指が手の甲に触れた気がした。
現実か夢かわからないまま、指を少しだけ動かす。
触れたまま、眠る。
***
朝。
カーテンの隙間から、薄い金色の光。
鳥の声と、アラームの音。
春斗が先に起きて、髪を濡らしている。
洗面台の鏡に光が反射して、白いTシャツがやけに眩しい。
「おはよう」
「おはよう」
「パン、焼く?」
「うん。あと、コーヒー」
「インスタントでいい?」
「いい。……そのほうが、匂いがやわらかい」
彼はコーヒーを淹れる手つきまで静かだ。
沸かしたお湯を落とす音が、朝のBGMになる。
テーブルの上に湯気が立ちのぼって、陽の光の中で溶ける。
「昨日のアーカイブ、すごかったな」
「見た?」
「音だけ」
「ありがと」
「“ただいま”のとき、泣くかと思った」
彼は照れたように笑いながら、カップに口をつける。
「泣いたよ、ちょっと」
「やっぱり」
「でも、泣いてたって言わないほうが、カッコつくでしょ」
「十分かっこよかったよ」
目が合って、ほんの数秒、静かになる。
コーヒーの香りの中で、何も言わずに笑い合う。
それだけで、心が満たされていく。
外の空は、昨日よりずっと明るい。
春斗はマスクを取り、リュックを背負う。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
その言葉の重みが、昨日より確かに変わっていた。
ドアが閉まる音がして、静寂が戻る。
加湿器の水を替え、カーテンを少し開ける。
光が床を走って、星柄のマグを照らす。
湯気が細く立ちのぼる瞬間、心の奥で思う。
──今はまだ“恋の途中”でいい。
“恋の途中”が、いちばん穏やかだから。
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