第三部 第2話 もう一度、音楽を
夜の「ヒカリ」は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
照明を少し落とし、ジャズが静かに流れている。
窓の外では、街灯が雨に濡れた歩道を照らし、
人々の影がゆっくりと流れていた。
「こんばんは」
ドアの鈴が鳴り、ひとりの男性が入ってきた。
黒のトレンチコートを羽織り、
手には古びたギターケース。
「お久しぶりです、北原さん」
カウンターの中で加奈が声をかけた。
「最近、見えませんでしたね」
「……少し、離れてました。音からも、人からも」
その声はかすかに掠れていた。
拓真は奥の席から顔を上げ、
「どうぞ、あの席で」と目で合図した。
北原は無言で頷き、
ギターケースをそっと椅子の横に立てかけた。
「相変わらず、そのギター持ち歩いてるんですね」
「いや……もう弾いてません。
見るだけで、どうしても思い出してしまうから」
「教え子さんのことですか?」
北原は小さく頷いた。
「あの子、音楽が大好きでね。
放課後、いつも教室で練習してた。
卒業ライブの日に“先生も一緒に弾いてください”って言われて……
でも、俺は忙しいって断った。
その夜、事故の知らせが入ったんです。」
加奈は、静かにグラスを拭きながら聞いていた。
「それからギターに触れなくなったんですね」
「ええ。……もう、音が怖くなった」
沈黙。
時計の針の音が、まるで息づかいのように響く。
「でも……ここに来ると、不思議なんです。
音がなくても、静けさが“生きてる音”みたいで」
北原の声が少しだけ柔らかくなった。
「音って、不思議ですよね」
加奈がそっと微笑む。
「出すと消えていくのに、心の中ではずっと響き続ける。
たぶん、教え子さんの音も、どこかでまだ鳴ってると思います」
「……そう、かな」
「はい。きっと“あなたの中”で」
加奈は奥の棚から小さなノートを取り出した。
そこには、“ヒカリ”を訪れた人たちの思い出の一文が書かれている。
> 『もう一度、音楽を始める日が来たら、
> この店で最初の一音を鳴らそう』
「これは、あなたが一年前に書いたんですよ」
「……そう、でしたね」
北原の表情がわずかに崩れた。
そのとき、拓真が声をかけた。
「北原さん、もしよかったら。
閉店後、少し音を聴かせてもらえませんか?」
「……聴かせる?」
「ええ。弾かなくてもいいんです。
たとえば、弦を一本だけ鳴らすとか、チューニングだけでも」
北原はギターケースに目をやった。
その表面には、かすかな傷とステッカー。
かつて教え子と貼った、文化祭の思い出だった。
ゆっくりとケースを開ける。
金属弦の光が、店内の照明を受けてやわらかく輝いた。
手が震える。
けれど、指先が弦に触れた瞬間――
ぽろん、と。
一音が鳴った。
それは、痛みでも、懐かしさでもなく、
ただ“帰ってきた音”だった。
加奈が静かに微笑む。
「……ほら、まだ生きてる」
北原はうつむきながらも、確かに頷いた。
「ありがとう。
音が、怖くなくなりました。
また少しずつ、弾いてみようと思います」
「また聴かせてくださいね」
「はい。……次は、ちゃんと歌います」
その夜、北原は“ヒカリ”を出て、
駅へ向かう道を歩きながら、
小さく鼻歌を口ずさんでいた。
“消えた音は、まだ、そこにある。”
その旋律は、静かな夜風に乗って、
誰かの心の奥へと、やさしく届いていった。
次回予告 お楽しみに!
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