第二十四話:『降下、再び絶望の底へ』


91階層、「封印の書庫」。

俺、アレンの進むべき道は、定まった。

地上へ戻る唯一の可能性。それは、この牢獄の最下層、「100階層」にいるという「原書の聖魔」を討伐し、迷宮の「封印」そのものを解放すること。


俺は、最後の準備を整えていた。

99階層の拠点(聖魔樹のテリトリー)から持ち運んできた「赤い果実」と「雫の実」を、腰のポーチに可能な限り詰め込む。

【炎牙の槍】の穂先に埋め込んだ【斬撃の種】と【氷結の種】の魔力回路を、エルミナに教わった通りに調整し、起動効率を高める。

生体鎧の、最後の点検。


すべてが、完璧だった。

俺は、書庫の入り口――92階層へと続く、あの幻術の壁だった場所――へと、振り返った。


「……行くぞ」

俺が短く呟くと、背後から、ふわり、と軽い気配が近づいた。

エルミナだ。

彼女は、俺のすぐ真後ろ、背中合わせになるほどの距離に、その半透明の霊体を浮かべていた。


「……本当に、いってしまうのかね?」

彼女の声は、いつもの回りくどさはそのままに、どこか、湿り気を帯びていた。

「この私を、一万年の孤独に、また置いていくとは。……薄情な男だ」


「あんたも『同行』するんだろう」

俺は、振り返らずに言った。

「100階層の主が、どんな奴か。あんたの知識が必要だ」


「フフ……」

エルミナの気配が、俺の肩先に移動する。

彼女は、俺の横顔を覗き込むように、その青白い顔を、俺の耳元、吐息がかかるかのような距離まで、平然と近づけてきた。

霊体でなければ、髪が触れているほどの近さだ。


「……もちろんさ。君という『希望』の最期、あるいは始まりを、この目で見届けるまではね。……それに」


彼女の声が、囁きに変わる。


「君のような、歪で、純粋で……そして、実に『可愛げ』のある魂が、あの『原書の聖魔』とやらを前にして、どんな顔で絶望するのか。実に、実に、興味深い」


「……!」

俺は、その(意味のない)距離感と、彼女の瞳に宿る、亡霊とは思えないほどの熱量に、本能的な戸惑いを覚えた。

一歩、彼女から距離を取るように、横にずれる。


「……趣味が悪いぞ」

「おや」

エルミナは、俺の露骨な反応を見て、心底楽しそうに、クスクスと笑った。

「照れているのかね? 可愛らしい。そのリナという女性は、君の、そういう顔も知っていたのかな?」


「……黙れ。行くぞ」

俺は、彼女のからかいを振り切るように、91階層の出口へと足を踏み出した。



来た道を、「降下」していく。

92階層の「嵐の荒野」。

93階層の「音の牢獄」。

94階層の「強風の渓谷」。


だが、その道程は、登ってきた時とは比較にならないほど、容易なものとなっていた。


「フンッ!」

92階層で、嵐の中から奇襲してきた「テンペスト・イーグル」の生き残りの群れ。

俺は、それに対し、槍を構えるまでもない。

エルミナとの修行で「栽培」した、【氷結の種】を、空中に数個、撒き散らす。


「―――『凍れ』」


俺が意図した瞬間、種が炸裂。

周囲の空気が一瞬で凍りつき、嵐ごと、魔物の群れを、巨大な「氷のオブジェ」へと変貌させた。

古代魔法と俺のスキルの融合は、もはやこの階層の魔物では、相手にすらならなかった。


「……見事だ」

俺の隣を浮遊するエルミナが、感嘆の息を漏らす。

「君は、私の想像以上に、私の『魔法』を『君の庭』のものにしている。憎悪を燃料にしながら、聖力で制御し、現象を『栽培』する。……一万年かかっても、私には辿り着けなかった領域だ。ああ、君という存在は、本当に……」


彼女の、ねっとりとした賞賛の視線を背中に感じながら、俺は無言で、階層を降下し続けた。


95階層、マグマの海。

96階層、重力の罠。

97階層、毒の沼。

98階層、監視者の広間。


一度「主」を倒したフロアは、もはや、その脅威を失っていた。

残党の魔物も、俺の敵ではない。

俺は、エルミナの指導の下、戦闘の合間に、この「逆走」を、修行の総仕上げとして利用していた。


「雷撃の種」で、マグマの中に潜む敵を感電させ、

「斬撃の種」をブーツに込め、重力下での機動力を補い、

「発火の種」で、毒の霧を焼き払う。


俺は、もはや「庭師」でも「槍使い」でもない。

この深淵の「理」そのものを武器として栽培し、使いこなす、唯一無二の「魔術戦士」へと変貌していた。



そして。

どれほどの時間が過ぎたのか。

俺は、ついに、98階層の底――99階層へと続く、あの螺旋階段の入り口へと、戻ってきた。


「……99階層」

俺の、すべての始まりの場所。


階段を降りる。

そこには、俺が「拠点」としていた、あの「聖魔樹」のテリトリーが広がっていた。

だが。


「……これは」


俺は、その光景に、息を呑んだ。

俺がエルミナと共に修行に明け暮れていた、この数ヶ月(あるいは、それ以上)の間。

俺の「聖魔樹」は、俺の不在中も、この99階層の、無限とも思える魔素を「捕食」し続け、凄まじい「変貌」を遂げていた。


かつては半径20メートルほどだった「中立領域」は、もはや半径100メートルを超える、広大な「森」のようになっていた。

聖魔樹の「幹」は、大聖堂の柱のように太く、その枝は、99階層の暗い天井にまで達している。

白と黒のまだら模様は、より色濃く、その脈動は、まるで、この階層そのものの「心臓」であるかのように、ドクン、ドクン、と、重低音を響かせている。


「…………信じられない」

俺の隣に浮かぶエルミナが、その光景に、初めて、本気で「戦慄」しているのが分かった。

「アレン君……これが、君の『庭』だというのか……?」

「ああ」

「……これこそが……!」

彼女は、自分の半透明の手で、口元を押さえた。

「これこそが、私の一族が……そして、あの忌まわしきザグラムの一族が、一万年も追い求めてきた、『聖』と『魔』の……完全なる『融合』の、完成形……!」


彼女は、聖魔樹の幹に、まるで恋焦がれたものに触れるかのように、うっとりと、その霊体を寄せた。

「ああ、なんと美しい……。リナという聖女の『聖』と、君という復讐者の『魔』が、完璧に調和している……」


俺は、エルミナの恍惚とした呟きをよそに、その巨大化した聖魔樹の「森」の中心部へと、足を踏み入れた。

ここは、99階層の魔素が、最も濃い場所。

そして、俺が「聖魔樹」を植えた、最初の場所。


そこにあった。

聖魔樹は、この階層の魔素を「捕食」し続けた結果、その「根」で、隠されていた「道」を、掘り起こしていたのだ。

98階層への上り階段とは、真逆の方向。

岩盤が、まるで巨大な顎(あぎと)のように裂け、深淵の、さらに奥底へと続く、暗黒の「穴」。


俺は、その穴の縁に立った。

下からは、何も聞こえない。

魔素の気配すら、ない。

99階層の「底」が抜けたような、完全な「無」が、口を開けている。


「……この先が、100階層」

エルミナが、我に返り、俺の隣に浮かんだ。

彼女の顔から、先ほどの恍惚も、からかうような余裕も、すべて消え失せていた。


「『原書の聖魔』の領域だ。……アレン君。君は、ここで死ぬかもしれない。いや、死ぬ確率の方が、遥かに高いだろう。……それでも、いくのかね?」


俺は、何も答えず、目を閉じた。

脳裏に浮かぶのは、ザグラムの「歪んだ庭」と、そこで「救世主」と崇められる、あの男の顔。


「……死ぬつもりはない」

俺は、目を開け、暗黒の穴を見下ろした。


「俺は、俺の庭を荒らした『害虫』を駆除しに戻るだけだ」


俺は、100階層へと続く、その絶対的な暗黒の中へと、迷いなく、最初の一歩を、踏み出した。

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