第2話 図書館の隅で

 私は高校生活で三回目の図書委員を拝命することになった。委員会は学年が変わってから最初のホームルームで決めることで、委員会活動は通年で行われるため一度決まれば学年が変わるまで(私は三年生だから卒業まで)働かなくてはならない。

 私は極力クラスメートとの接触が少ない委員会を選びたかった。あと本がそれなりに好きということもある。

 そんな理由で毎年図書委員に立候補しているわけで今年も無事図書委員になることができた。私じゃんけんは強いらしい。履歴書の特技の欄に書けるだろうか。

 放課後、最初の委員会活動が始まる。普段の仕事はカウンター当番をすることだけど、学期の始めは図書委員が集結して書架の整理だ。

 図書室に入ると見慣れた笑顔があった。 


「あら恵那ちゃん、今年も図書委員になったの?」

「はい。図書委員を希望する人はクラスでも結構いたんですけど、じゃんけんで勝ちました」

「なんかそのセリフ、ちょうど一年前にも聞いた気がするわねぇ。あっはっは」


 そう言って気持ちのいい笑顔を見せるのは公立浦ヶ丘うらがおか高校で司書教諭を勤めている中年の女性は新見にいみ先生だ。

 司書教諭というともっと静かで穏やかなイメージが最初はあったけど、新見先生は明るく溌剌で生命力を感じさせてくれる人だ。そんな人が図書室にいるとどこか空気が柔らかい。人と積極的に関わってこなかった私でも長い間一緒に仕事をしていれば、近所の気のいいおばさんくらいの距離感になっている。

 配布されたリストに従い、本棚を回りながら古い本を回収し、新しい本を並べる作業が始まった。

 カウンターで本は読めないけどこういう地味な作業を黙々とするのは嫌いじゃない。流石に二年間も図書委員をやっていればある程度の本の位置は見当がつくから、リストに載っていた本の中でもできるだけ図書室の隅になるところで作業を始める。

 薄暗くて埃っぽい匂いがする。本棚の下のほうからしゃがんで作業しているからますますそう感じる気がする。周囲の空気が淀んでいるかのようで、他の委員たちの声や足音が微かな残響として届く。私のいる場所だけが薄い膜に覆われたように感じる。でもそんな空間の居心地が良くて根を張ってしまう。陽なんてあたるはずもないのに。


「ーーさん。さん?」 

「ねぇねぇ。中津川さん?」

「へっ、はひっ!?」


 名前を呼ばれた気がして声のほうに首だけ振り向くと松宮さんがいた。文字通り目の前に。私が顔を動かしたらおでこがぶつかりそうだ。


「ち、近い近い」

「ごめんごめん。何回か呼んでも気づかなかったからつい」


 えへへと笑う松宮さんも私と同じようにしゃがんで目線を同じ位置に合わせていた。


「ところで何か用があったんじゃ?」

「そうそう。手芸の本がどこかにないかなって。自分で探そうかと思ったけど、なんだか今日の図書室は人が多くてうろうろするのも申し訳ないし司書さんも忙しそうだったから」

「今日は学期始めだから図書委員が集まって書架の整理をしてるんだよね。手芸の本は多分あの列の本棚にあると思うけど、松宮さんって手芸部に入ってるの?」

「まぁ一応所属かな?ほとんど幽霊みたいなものだけどね」


 手芸部所属で幽霊部員だけど手芸の本を探すほどの意欲はある?

 そんな疑問が顔に出ていたのか松宮さんは少し恥ずかしそうにして話し出した。

 

「手芸部に入ってればミシンとか使い放題だし材料も貰えるんだ。お恥ずかしい話、わたしの家はそんなに裕福じゃなくて……ってこんなこと今日ちゃんと知り合った人にする話じゃないねっあははっ」


 私は「そうなんだ」と軽い相槌を打つだけで、それ以上何も言葉は出てこない。

 埃っぽい空気まで笑い飛ばしそうな松宮さんの笑顔は一片の曇りもない。別に本人はなんとも思っていないかもしれないし、実際に重い雰囲気になられても困るけど、松宮さんの笑顔は痛々しいほど眩しい。

 松宮さんが心からの笑顔を浮かべているのかそれともその雰囲気に合った出来合いの笑顔を浮かべているのか私には分からない。分かるはずもない。分かってしまったらそれはもはや他人ではないから。


「っていうかさ!もしかして中津川さんのお父さんとかってお医者さんだったりする?」

「へっ?」


 その通りだった。私の父親は大学病院で小児科医をしている。高校で父親の職業を誰かに公開したことはなかったはずだけど。

 私が怪訝な顔をしていたのか松宮さんは私の父親の職業を知っている理由を話す。


「いやね。わたし弟がいるんだけど、ちょっと身体が弱くてよく病院のお世話になってるんだよね。それで何回かわたしも弟の付き添いで病院に行ってるんだけど、確か担当してくれてるお医者さんの名前が『中津川』先生でさ、さっき名前を呼んでたらもしかしてと思って」


 私は「なるほど」と相槌をうつと


「今後ともどっちの中津川さんにもお世話になります。なんちゃって」

「私は松宮さんのリボンを直す人になるのかな?」


 松宮さんの軽い冗談に私も乗っかると、私たちは顔を見合わせて抑え気味に笑う。するともともとお互いの距離が近かったのも相まって私と松宮さんのおでこがこつんとぶつかる。

 薄暗くて埃っぽい図書室の隅っこで春の陽気のような暖かいものが生まれた瞬間だった。ひょっとしたら松宮さんの成分がおでこを通じて摂取したのかもしれなかった。

 暖かいものの正体は何なのかわからないけど、私の胸にじんわりと広がってから深くまで染みていく。それでいて鋭利な高揚感が胸を一刺しにして鼓動が早まっているのが分かる。未知の経験だけど拒絶反応は起こさない。

 これが毒だったらどうしようと思うけどもう摂取してしまっているのだから、手遅れで何かの始まりでもあった。

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