運搬人
柚
担架の上
おそらくここは、国の東部なのだろう。とある片鱗の荒地。そこにコートを羽織った二人の男が担架を運び、歩んでいる。彼らの持つ担架。それは真っ白な絹によって包まれている"何か"であった。担架は彼らの歩みと共に、ギシギシと音を立てながら揺れていた。風が時折、砂埃を巻き上げる。
そして立ち止まった。そこは荒地の丘のような場所。高さがあるので、その広大な大地を見晴らすことができるだろう。
前を持つ老けた男が、先に担架を下ろし始める。それに合わせるようにやさしく、後ろの若い男が担架を地面に下ろした。手でコートをはたきながら若い男は言う。
「ここでいいのか?」
老けた男は無言でタバコに火をつけた。煙が風に流れていく。長い沈黙。彼は若い男を一瞥し、視線を逸らす。
「いやすまない。考え事をしていてな」
若い男は頷いた。自分もコートのポケットからタバコを取り出す。火をつける。煙。
「どこへ行っても同じなんだろうな」
老けた男が遠くを見ながら呟いた。
若い男は担架に視線を落とす。真っ白な絹をハラリとめくる。滑らかな絹とは対照的な、血の匂いと香水の混じった不愉快な香り。
きっと死んでいるのだ。痩せこけた腕と、泥とキズで覆われた老人のような顔。脇腹あたりに、何ヶ所か刺し傷が見て取れる。彼はため息をつく。
「どう見てもただの……野垂れ死んだ男だろうに」
そう言いながら彼は、端の汚れた白い絹を被せ直し、整える。タバコの灰を落としながら老けた男が答える。
「今は天使だ」
若い男はため息と同時に煙を吐き出す。
老いた男が言う。
「お前の気持ちも分かる。誰でも良いんだ。民衆は信仰する理由を欲しがっている」
2人は同時に地平線の方を向いた。
遠くで、何かが燃えている。オレンジ色の光が灰色の空を僅かに染めている。煙か雲か判然としない。
「燃えてる…またあいつら教会を燃やしたのか?」
若い男が目を細めた。老けた男がタバコを口から離す。
「古い教会を燃やしていくのが、ここ最近の流行だからな。」
沈黙。風だけが音を立てている。
若い男はコートの襟を直す素振りを見せながら、彼に向けて口を開いた。
「さて、休憩中にこんな話もするのも野暮だが、これからどうしようか? この天使。どこへ運ぶ?」
老けた男は遠くの教会の炎を見つめたまま答えた。
「そうだな……どうするか……」
若い男がタバコを吸う。煙が流れる。
「指示は?」
「何もない。ただ運べと」
長い沈黙。二人はそれそれ、二本目のタバコを吸い始める。
「……つまり、我々の判断に任されているということか」
「そういうことになる」
老けた男が担架を見下ろした。泥に汚れた絹の端。
「裁量があるのは、初めてだな」
若い男は答えない。ただ地平線を見ている。遠くの炎はまだ燃え続けている。
「このまま放置すれば、獣が来るだろう」
老いた男は腰のリボルバーに手をやり、近くの石に腰を預けた。
「見張るのか?」
若い男が聞いた。
「他にすることもないだろう」
リボルバーを傍に置く。金属が鈍く光った。
「番人をするのか」
若い男も、少し離れた場所に腰を下ろす。タバコを地面に捨てる。小さく火花が散った。
沈黙。
風。
遠くの炎。
「……で、いつまで?」
「知らん」
「指示が出るまで?」
「来ないだろうな」
そして二人はしばらく黙っていた。
やがて老いた男が言った。
「……この前はどこへ持っていった?」
若い男が遠くを見たまま答えた。
「北東の街の外れにある小さな教会だ」
「あそこは確か…」
「ああ、燃えた」
「…その前は?」
「覚えていない。石造りの何かだった」
「そうか…」
「…たぶん崩れているだろうな」
老けた男が深く息を吐いた。
「全部、消えていくな…」
「ああ」
若い男が地面の石を拾って投げた。
乾いた音。
「俺たちは今まで、近々燃えるか、崩壊する場所へ向かって、こいつを運び続けていたんだな」
「……そういうことになるな」
風が強くなる。
遠くの炎が一瞬、高く燃え上がった。
「東地区のことを聞いたか」
老けた男が低い声で聞く。
「……焼かれたんだろう。天使も、運搬人も。偽物だと言われて」
沈黙。
若い男が立ち上がり、リボルバーに近づく。
男のリボルバーを手に取り、重さを確かめる
「これで番人をするのか? しかも貧乏人の死体を?」
白い絹のそれに銃口を向ける。
老いた男は答えない。
若い男は失笑し、冗談めいた表情で手を広げる。
「この世界は狂っているじゃないか!」
叫びに近い声。笑っていた顔はその瞬間強ばる。
風だけがそれに答えるように、砂を舞い散らせた。
老けた男は新しいタバコに火をつけた。視線を逸らし、遠くの教会の焼き跡を見る。
黒い硝煙が立ち昇る。
彼は、若い男の吐け事を片耳で聞いていた。
「天使を捨てればこの暴動は終わるだろう!? そんなの簡単な事じゃないか! 遺棄すればいいだけの話だ! あとはどうにでもなるだろう!?」
若い男は強くリボルバーを握りしめている。
「そうだね」
老けた男が静かに答えた。タバコを口から離す。
「だがそれにはそれ相応の覚悟がいるだろうね。天使として、それを扱う我々の文化を真っ向から否定しなければならない。」
タバコを座っている石に擦り付ける。コートに着いた白い残灰を手で払いながら続ける。
「…君は物心ついた時から、村のみんなが天使にする事を見てきただろう? これが当たり前だと、大事なことだと聞かされてきただろう? その当たり前という名の慣習を君自身が否定することは、ある意味、君自身への自傷行為とも取れるのではないか?」
若い男は黙り込んだ。右手のリボルバーを見つめている。
「君は本当にこの天使を、今、捨てられるのかい?」
……
沈黙の中、静かに若い男の方へ近づく。
「運ぶしかないんだ。我々は既に文化から叛逆できない領域にいる。抵抗なんて、最初からできない。もしすれば自分を疑い始めるだろう。…そしてその疑いは、やがて誇りになる。あの慣習に囚われていた連中とは違う、と。そうして教会を燃やす者が生まれるのだ。この世は狂ってる。それは自明だろう」
若い男はリボルバーを覗いていた。
五連装のリボルバーの銃口を見つめている。
老けた男がその様子を見守った。
風が二人の間を通り抜けた。
「……何を見ている」
老けた男が静かに聞いた。
「この銃を」
「それがどうした」
若い男が銃口から視線を上げる。
「これで、終わらせることもできる。天使を。あるいは、自分を」
風が吹く。絹がまた揺れた。
「だが、どちらもしないんだろう?」
老けた男が聞く。
「……ああ」
「なぜだ?」
若い男が銃を握りしめる。
「分からない。ただ、できない」
若い男はリボルバーをゆっくりと腰へ下ろす。引き金がカチャリと鳴る。
「お前はどうだ。この仕事を、いつから?」
「覚えていない。ずっと前からだ」
老いた男が空を見上げた。灰色の雲が流れている。
「…何人運んだ?」
「数えていない」
老いた男は少し間を置いて、ゆっくりと話し始めた。
「俺は数えているんだ。いや、覚えてしまう。俺たちは天使を運んでいるだろう。敬意を示さなければならない。だが、送り届ける前のコレを見ると、何があったんだろうか? どうしてこんなことになったんだろう? そう思ってしまうんだ。そうして次第に、いつか俺も天使になれたら、何人の人の心に生きることができるのだろうか? そう思えてしまって……」
ボソボソと呟きながらタバコを取り出す。しわくちゃなパッケージから一本。枯れた枝のようなタバコが出てくる。
「言葉が見つからない。強いて言うなら……寂寥感というやつに駆られる時がある。それも若干違うんだが」
若い男が静かに言った。
「もういい。何となく理解できる。もう天使に対して大層なことはしない」
老いた男が首を横に振った。
「いいや違う。君はやりたいように生きればいい。遠回しに君の否定したようだが、伝えたいことはそれじゃない。……つまりだ。既にこの国には大きな変化が訪れている。そしてその変貌の中に我々はいる。俺たちはいつか天使になる。だが、いつか天使になりえない未来も訪れるかもしれない。常識やルールは時に、大きく塗り替えられてしまう。俺たちはそれすら決められない、ちっぽけな一人の民衆なんだよ」
若い男の手にあるリボルバーを老けた男は包み込むように手を重ねる。彼はリボルバーを離すと、どこか悲しい表情をしながら天使の前に膝まずいた。老いた男はリボルバーをコートの内側に入れると、タバコを深く吐き出す。
若い男に聞いた。
「さて、俺たちはこれをどこへ運ぼうか?」
風が吹く。
遠くの炎は、まだ燃えている。
二人は黙って担架のそれを見つめていた。
運搬人 柚 @Kmkm970279
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