第44話 歌詞会議、恋バレ一歩手前
その日の昼、ルミエールのクリエイティブルームは、いつもより机が多かった。
長机がコの字に並べられ、その中央に、大きめのスケッチブックが一冊。
ホワイトボードには、太いマーカーででかでかと書かれた文字が踊っている。
──【Nem’s Night 歌詞会議】
「な、なんか……文化祭の実行委員会みたいですね」
白露ねむは、ペンを握ったまま、おそるおそる椅子に座った。
周りには、見慣れた顔がずらりと並んでいる。
天ヶ瀬カイ、天音ルナ、黒瀬ミオ、星野コウ、白神ナオ、花咲ユリ。
モニター越しには、在宅組のサチとミナトとレオ。
そして、コの字の端っこには——朝比奈湊。
ラフな白シャツにカーディガン、いつも通りの無表情気味。
ノートPCを開いて、静かに何か打ち込んでいる。
「よーし、それじゃ“ねむの夜ごはん——じゃなくて、Nem’s Night 歌詞会議”を始めまーす」
カイが勢いよく立ち上がり、パチパチと手を叩く。
「タイトル間違えないでください……!」
「でも実際、歌詞に“夜食”とか“唐揚げ”って単語入っても良くね?」
「良くないです!」
ルナがくすくす笑いながら、ねむの隣にすべり込んだ。
「落ち着きなさい、今日の主役ちゃん。はい、深呼吸」
「すぅ……はぁ……」
「で、今日の目的はひとつ。——“ねむの夜の気持ちを、言葉にすること”」
黒瀬ミオが、ペン先でホワイトボードを軽く叩いた。
「作詞そのものはねむがやる。でも、掘り出しと整理はみんなで手伝う。湊くんは、横で“音のプロ”的な視点からツッコミを入れる係」
「よろしくお願いします……」
ねむは、湊の方をちらっと見る。
彼は軽く会釈しただけで、特に何も言わない。
(……なんか昨日より、ちょっとだけ距離近い気がする)
会議室の帰り道で話したことを、思い出してしまう。
“君の声は灯りになる”——その一言が、まだ胸の奥でふわふわしていた。
◆
「じゃ、最初に“ねむが夜になにを思ってるか”を、ざっくり出してみよっか」
ミオが、スケッチブックをねむの前に回した。
「単語でもいいし、短い文章でもいい。ぜんぶ拾うから」
「た、単語……」
「配信するときに、ふっと胸に浮かぶこと。いいことでも悪いことでも。飾らないで書いて」
ねむはペン先を紙に落とした。
夜。
眠れない。
息が浅い。
画面の光。
ひとり。
おやすみの文字。
誰かの呼吸。
泣きそう。
でも、まだ生きたい。
書けば書くほど、胸のあたりがざわざわしてくる。
「……こんな感じ、です」
「見せて」
ミオがスケッチブックをひったくるようにして覗き込み、目を細めた。
「うん、良いじゃん。ちゃんと“夜の温度”がある。——ほら、みんなも」
ページが周りに回っていく。
カイが「おお〜」と低く唸り、ルナが「かわいい」と呟く。
「“でも、まだ生きたい”が、いいなあ」
ユリが、そこに丸をつけた。
「この一行だけで、強い曲になる」
「……え」
「“生きたい”って、すごい言葉だからね。軽く使えない分、ここぞってところに置いたときの破壊力がある」
ねむは自分の書いた字を見つめる。
(そんなつもり、なかった)
でも、確かに——何回も、心の中でそう言ってきた気がする。
“おやすみって言ってもらえたら、まだ生きていけるんだよね”。
あの夜、自分が漏らした寝言。
切り忘れた配信。
タグに溢れた“おやすみ”。
「じゃ、“いい感じにエモそうな単語をなんとなく並べる会”はここまでにして」
コウが手を挙げた。
「問題はここから。——“ねむが誰を想って書くのか”でしょ?」
「だ、誰、って……」
「恋の相手、って言い換えてもいいけど?」
「!?!?」
椅子から転げそうになる。
「ちょ、ちょっと待ってください、そういう話なんですか!?」
「いや、歌詞ってだいたいそうだよ?」
カイがさらっと言う。
「“誰もいない”って設定で、こんなに“息”の入った歌、書けねーもん。ね?」
問いかけに、部屋の視線が一斉に湊へ向いた。
湊は、少しだけ困ったように眉を寄せた。
「……たいていの場合は、そうだな」
「朝比奈さんまで……」
「別に“リアル恋人”じゃなくてもいいんだよ」
ルナが、ねむの肩をぽんぽんと叩く。
「“こうだったらいいな”っていう架空の相手でも、“昔の誰か”でも、自分自身でも。でも、“誰にも向けてない”って顔して書くと、うすーい歌になるからね」
ミオが、ホワイトボードにさらさらと書き足す。
──【恋愛相手】
リアル/理想像/リスナー/自分自身/“声”そのもの など
「Nem’s Night の場合、“眠れない夜の横にいてくれる人”だね」
ユリが、マーカーで線を引いた。
「恋人かもしれないし、友達かもしれないし、推しかもしれないし。——で、ねむちゃんの夜に実際いるのは、誰?」
「……配信の画面、です」
即答だった。
「画面の向こうの人たち。コメントの“おやすみ”。」
「うん、それは分かる」
ユリが頷く。
「でも、“この一行”は?」
指先が、ひとつの文章を指した。
“君の声がないと、眠れない”。
さっき、ほとんど無意識に書いた一文。
「これ、“画面の向こう”っていうより、“誰かひとり”じゃない?」
「っ……」
喉がひゅっと鳴った。
「ね、む?」
ルナが覗き込む。
「……たまたまです」
「たまたま、ねえ」
カイがニヤニヤしながら後ろにのけぞる。
「候補:湊、おまえじゃね?」
「はあ!?」
ねむと湊の声が、見事にハモった。
「な、なんでそこで朝比奈さんが出てくるんですか……!」
「いやだって、EDの作曲者で、“Nem’s Night”のコンセプト考えたのも湊だし、ロシア語案も湊だし、昨日の会議で目をキラキラさせてたのも——」
「カイ」
ミオが低い声を出した。
「そこまでにしとけ。ねむが溶ける」
「はいすみませんでした!」
カイが、ぴしっと正座した。
ねむは顔を覆ったまま、机に額をくっつける。
(……落ち着け。べつに、朝比奈さんを想って書いたわけじゃ……)
昨日の会議室で聞いたロシア語のフレーズ。
“Доброй ночи, мой свет”。
意味を聞いた瞬間の、あの心拍。
「ほら、ねむちゃん」
ユリが、ふっと笑いながらペンを差し出した。
「“誰”って今ここで答えなくていいから、歌詞の中で教えて?」
「……歌詞の中で?」
「うん。ミオ先輩もよく言うけど、“歌詞は言い訳の文章じゃない”。“誰が好きです”“あなたが好きです”ってストレートに言う歌もいいけど——」
ユリはスケッチブックの端に、さらさらと書いた。
“おやすみって言う声が、わたしの朝になる”。
「こういうふうに、“行動”とか“夜の変化”で語る方が、ずっとロマンチック」
その一行を見た瞬間——ねむの胸が、ずき、と鳴った。
(あ、これ——)
「……すき、です」
「でしょ」
ユリが目を細める。
「じゃあ、これサビの中核にしよっか。“おやすみの声が、わたしの朝になる”。その前後を、日本語とロシア語で編んでいく感じ」
「ロシア語……」
ねむは、ペン先でそっと“小さな夜”をなぞる。
「朝比奈さん、さっきのデモのロシア語って、他にも意味教えてくれますか……?」
視線を上げると、湊と目が合った。
彼は少しだけ、驚いたように瞬きをした。
「……いいけど」
ノートPCをこちらに向け、メモを開く。
「例えば、“Доброй ночи, мой свет”は“おやすみ、私の光”。“Я слышу тебя — и дышу”は“君を聞くたびに、息ができる”。」
その一文一文が、胸に落ちるたび——紙の上に、何かの芽が生える感覚がした。
(こんなこと、歌にしていいのかな)
でも、歌だから、言える。
ねむは、スケッチブックの新しいページを開いた。
おやすみの声が
わたしの朝になる
君を聞くたび
息ができる
眠れない夜に
君の名前だけ浮かんでしまう
ペン先が止まる。
“名前”。
(……誰の、名前?)
紙の上なのに、喉の奥が熱くなった。
「ねむ?」
ルナが優しく覗く。
「う、ううん、大丈夫です……」
ねむは、慌てて別の言葉に置き換えた。
——君の“声”だけ、浮かんでしまう。
(セーフ。たぶんセーフ)
でも、それでも、胸の奥はごまかせていない気がした。
◆
しばらく、全員で「あーでもない」「こーでもない」と言いながら、単語が紙の上に積み重なっていった。
“窓ガラス”“波”“カーテン”“スマホの光”“タイムライン”“既読”。
ユリとミオが言葉を整理し、コウが「それ韻踏めない?」と横から口を挟み、ナオが「配信者っぽすぎる単語はちょっと減らそう」とバランスを取る。
「Nem’s Night は、あくまで“灯台”のエンディングだからね」
ナオがホワイトボードに丸をつけた。
「配信要素は匂わせ程度にして、“誰の夜にも当てはまる”言葉にしておきたい。白露ちゃんのファンじゃなくても、“自分のことだ”って思えるような」
「……はい」
ねむは、その言葉に深く頷いた。
(わたしのためでもあって、リスナーさんのためでもあって、アニメを見てくれる人たちのためでもある曲)
欲張りだな、と思う。
でも、それくらい欲張らないと、きっと夜には勝てない。
「じゃ、Aメロ・Bメロの“情景部分”はだいたいこれでいいとして——」
ミオが、最後のページをめくった。
「問題はサビ。“おやすみの声が、わたしの朝になる”の前後をどう埋めるか」
「うーん……」
ねむは、ペン先を唇に当てた。
「“君の声がないと眠れない”だと、ちょっと重い……ですか?」
「悪くはないけど、“依存”の匂いが強めかな」
ミオが首を傾げる。
「Nem’s Night のねむは、“依存してる子”じゃなくて、“依存してた時期を、ちょっとだけ越えた子”でいてほしい」
「……越えた子」
自分で読み上げながら、胸がチクンとした。
(わたし、本当に越えられてるかな)
あの切り忘れの夜。
タグに溢れた“おやすみ”。
あれがなかったら、今の自分はいない。
でも今——Nem’s Night の歌詞を書いている自分は、そのときより少しだけ、世界を信じている。
「“君の声があるから、眠れるようになった”くらいのサジ加減がいいかもね」
ユリが、丸っこい字で書く。
——君の声で、眠れるようになった。
「そこにロシア語を絡めると、たぶんすごく綺麗になる」
湊が、静かに付け足した。
「例えば、“もう眠れるよ”って日本語の後に、“Спи спокойно — рядом я(安心して眠って、そばにいるよ)”って入れるとか」
ねむの胸が、またひとつ鳴った。
(そばにいる……)
ペン先が、紙の上にぽとりと落ちるみたいに動く。
——もう眠れるよ
安心して眠って、そばにいるよ
文字にしてしまった瞬間、心のどこかが、どうしようもなく照れくさくなった。
「ねむ、顔真っ赤」
「うるさいです、カイさん……!」
「いいねいいね、恋の歌って感じ」
「恋じゃないです!!」
即答した自分の声が、思ったより大きくて、部屋が一瞬静かになった。
その静寂の中で、誰かが小さく笑った。
——湊だった。
ねむは、反射的に隣を見た。
彼は、口元にほんの少しだけ笑みを浮かべて、モニターの画面を見ている。
「……なんですか」
「いや。恋じゃないなら、それはそれでいい」
「っ」
「歌詞が良ければ、何でもいい」
そう言いながら、彼は画面に映った文字を指さした。
「この“おやすみの声が、わたしの朝になる”って行——」
そこだけ、少しだけ声が柔らかくなる。
「すごく、いい」
胸の中に、何かが落ちた気がした。
重くないのに、確かにそこにいて、消えないもの。
(……ああ、もう)
ねむは、スケッチブックをぱたんと閉じた。
「と、とりあえず、今日のできたやつを持ち帰って、仮の1番だけ組んでみます!」
「おっ、やる気モード」
ルナがにこにこと微笑む。
「偉いわね、ねむ。締切は?」
「レンさんが“できるだけ早めに”って……」
「それ一番怖いやつ」
カイが笑い、ミオが肩をすくめた。
「じゃ、みんな、手伝えるところはそれぞれ動くとして——」
ミオが、会議の締めを宣言する。
「Nem’s Night の歌詞は、“白露ねむが一度本気で夜と向き合った証拠”にする。いいね?」
「……はい!」
返事の声は、自分でも驚くくらい、はっきりしていた。
◆
会議が解散になったあとも、ねむはしばらくクリエイブルームに残った。
窓際のソファに座って、スケッチブックを膝に広げる。
ホワイトボードにはまだ、消されていない言葉たちが残っていた。
——生きたい。
——眠れない。
——おやすみ。
——君の声。
——朝。
(……誰の声、なんだろう)
分かってるくせに、問いかける。
背後で、小さく椅子が引かれる音がした。
「——残業?」
顔を上げると、湊がそこにいた。
部屋の半分が夕方の光で染まっていて、彼の輪郭が少しだけ柔らかく見える。
「い、いえ……歌詞、忘れないうちに、もう少しだけ」
「無理するなよ」
「大丈夫です。夜更かしは慣れてるので……」
自分で言って、苦笑する。
「……あの」
ねむは、スケッチブックの1ページ目をそっと押さえた。
「さっきの、“ロシア語の意味”……メモしてもいいですか?」
「もちろん」
湊が隣に座る。
ソファが少し沈んで、距離が近づいた。
心臓が、また忙しくなる。
「“Доброй ночи, мой свет”が“おやすみ、わたしの光”。」
湊が、ゆっくりひとつずつ音を区切って発音してくれる。
「“ヤ・スルィシュー・チビャ イ・ドィシュー”が“君を聞くたび、息ができる”。」
その声を、ねむは真剣に聞き入る。
メモを取る手が、少しだけ震えているのが自分でも分かった。
「ロシア語って、やっぱり難しいですね……」
「歌うぶんには、意外とそうでもない。母音がはっきりしてるから」
「朝比奈さんは、どうしてロシア語を……?」
「昔、ちょっとハマったアーティストがいてな。歌詞をちゃんと理解したくて、真似してた」
「……好きな人の言葉を、分かりたくて、ですか」
口に出した瞬間、自分でも「あ」と思う。
(なんか、今の——恋みたいな言い方……)
湊は少しだけ目を細めた。
「そういうの、あるだろ。白露さんも、“配信”っていう言語を覚えたんじゃないのか」
「言語……」
「最初からできたわけじゃなくて、誰かの配信見て、“こうやってしゃべるんだ”って覚えたんだろ」
「……はい」
推しの配信。
憧れの人たち。
誰かの声を真似て、少しずつ自分の言葉に変えていった日々。
「Nem’s Night も、たぶんそういう曲になる。——誰かが、君の歌を真似していく」
「え」
「眠れない夜に、白露さんの歌を聴いて、それを自分の夜の言葉にするやつが出てくる。俺たちは、その最初のひとつを作ってるだけ」
ねむの胸が、じんわりと熱くなる。
「……なんか、こわいです」
「怖いか」
「だって、わたしの歌が、誰かの夜の言葉になっちゃうんですよ。間違えたら、どうしようって……」
そう言うと、湊は少しだけ首を傾げた。
「間違えたっていいだろ」
「え?」
「夜に正解なんてない。寝られない夜に、なに考えても自由だ」
彼の声は、いつもより少しだけ柔らかい。
「“正解の夜”なんて、だいたい朝になったら忘れてる」
「……それ、慰めになってます?」
「なってるつもり」
ねむは、思わず笑ってしまった。
「じゃあ——」
スケッチブックを閉じて、胸の上に抱きしめる。
「わたし、自分の夜のこと、ちゃんと書きます。かっこつけないで。変に大人ぶらないで」
「その方がいいな」
「その代わり、ロシア語で変なこと言わないでくださいね?」
「言わない」
湊は、即答した。
「そのかわり——」
少しだけ間を置く。
「“誰を思って書いたか”は、教えなくていい」
「……」
「それは、曲を聴いたやつの仕事だ」
ねむは、胸の奥で小さく息を吸った。
(誰を思って書くかは、わたしだけのひみつ)
でも、ペンを握る手は、もう知っている。
夜。
おやすみ。
声。
光。
その全部の真ん中にいる誰かのことを。
「——がんばります」
夕方の光の中で、そう言う自分の声は、少しだけ大人になって聞こえた。
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