第36話 新居初配信、“ただいま”の音
新居のリビングは、まだ少しだけ段ボールの匂いがした。
壁際に組み上げた白いデスク。
モニター二枚と、オーディオインターフェース。
新品のコンデンサーマイクには、ふかふかのポップガード。
左側には、淡いブルーグレーのカーテン。
足元には、星屑みたいな模様のラグ。
天井から吊るした間接照明が部屋全体を柔らかく照らし、
窓際には、小さな観葉植物が一つ。
白露ねむは、その真ん中で――椅子に座ったまま、固まっていた。
「……心臓、うるさ」
配信開始予定時刻、二分前。
右手のマウスは、まだ「配信開始」のボタンの上に乗っていない。
その手前で、ぷらぷらと宙に浮いたままだ。
新居での初配信。
タイトルはシンプルに「【新居】ただいまの夜配信【白露ねむ】」。
サムネイルには、ねむの立ち絵と、
イラスト化された新居のリビング風景。
(押すだけ、なんだけどな)
押した瞬間、もう後戻りはできない。
この部屋が“仕事場”になってしまう。
「ただいま」と「おかえり」が飛び交う場所になる。
(……それは、本当はすごく嬉しいことなんだけど)
喉がひゅっと細くなる。
視界の端で、コメントがじわじわと増えていくのが見える。
まだ配信は始まっていないのに、待機コメントが流れ続けている。
【待機所コメント[19:58時点/予約視聴者 7,820人]】
ねむ待機:新居たのしみー
うた期待勢:音どうなってるか気になる
引っ越し民:わかる、段ボールの匂い好き
初見:流れてきたけど来た
EN_waiting:Waiting room comfy already
ただいま勢:ただいま言う準備できてる
仕事帰り:残業終わったから滑り込み
(……予約、七千八百人)
数字を見て、改めて息を飲む。
少し前まで、同接三桁が当たり前だった。
あの「切り忘れ」の夜以降、世界は変わってしまった。
いい方に、変わった。
でも、それは同時に、責任が増えたということでもある。
ボン、と軽い通知音。
【水城レン】
《配信、楽しんでおいで》
短いメッセージと一緒に、スタンプの毛布が添えられている。
ねむは、思わず吹き出した。
「……楽しむ、かぁ」
そうだ。
怖いけど、嫌じゃない。
“なりたくてなった場所”の入口に立っているだけだ。
ねむは、右手をそっとマウスに置いた。
「よし」
深呼吸。
喉の奥の震えを、ひとつずつ整えていく。
(行ってきます、お母さん)
心の中でだけ呟いて、
「配信開始」のボタンをクリックした。
◆
配信画面が、ふわっと開く。
すぐに、BGMのゆるいピアノが流れ始めた。
「……こんばんは。白露ねむ、です」
新居での最初の一言は、いつもよりほんの少しだけ、低く落ち着いていた。
自分でも驚くくらい、声がすっと前に出る。
イヤホンの返しから聞こえる自分の声が、
六畳の部屋とはまるで違うクオリティになっていることに、
ねむはすぐ気づいた。
(え……声、こんなにクリアなんだ)
室内の反響がなくなり、
マイクとインターフェースを新調したおかげで、
声の輪郭がはっきりしている。
空気のノイズも少ない。
細いささやきさえ、きちんと拾ってくれる。
「今日は……えっと、
初めての、新居からの配信です」
声を伸ばしてみる。
モニターの右側、コメント欄が一気に色づいた。
【コメント】
わーい新居!
おめでとう!!
お引っ越しお疲れさま
声、ちょっと違う?
なんかいつもよりくっきりしてない?
マイク変わった??
BGMも新しい?
EN:New mic? sounds so clear
EN:Her voice is closer now…
ねむは、思わず笑ってしまった。
「バレました?
はい、こっそりマイクを変えました。
お部屋も、ちょっとだけ広くなりました」
『ちょっとだけ』という言い方に、自分でも小さく突っ込む。
(だいぶ広くなったけど)
「今日は、新居のことをしゃべりながら、
皆さんの“ただいま”を受け取る回にしたいなと思います」
その一言で、コメント欄が一気に騒がしくなる。
ただし、「うるさい」のではなく、「わっと湧いたあとすぐ落ち着く」感じ。
【コメント】
ただいま!
ただいま!!!
今帰った!!
仕事終わった!!
学校おわったー
帰宅途中だけどただいま先に言っとく
EN:Tadaima (I’m home)
EN:I’m home from work…
「はい、じゃあ、順番に……」
ねむは、一つひとつコメントを拾い始めた。
「“ただいま!”……おかえりなさい」
「“残業終わりました”……おつかれさまです」
「“まだ電車の中です”……じゃあ電車が“ただいま”かな」
「“夜勤これからです”……いってらっしゃい、かな?」
自分で言っておきながら、胸にじんわりと温度が溜まっていく。
(あ、これ……)
新居だからとか、マイクが新しいからとかじゃない。
「“ただいま”って言われるの、
やっぱり、すごく、嬉しいですね」
正直に言葉が出た。
「六畳のときより、さらに」
コメント欄が、やさしい言葉で埋まる。
わかるよ
ここが帰る場所
ねむんち
六畳のときも好きだったけど
今の声、距離近い
EN:Her voice feels like right next to me
EN:This is home now
◆
配信の前半は、とことん“生活の話”をした。
キッチンの位置。
冷蔵庫の中身。
段ボールの山。
まだカーテンが一箇所だけ仮止めなのをネタにして、
「風が吹くとちょっとホラーになります」と笑いを取る。
「これ、カーテンがこう……ぺろんってめくれるんですよ」
身振り手振りで説明していると、コメントが流れた。
物理ホラー
新居ホラー草
それもセットで愛した
EN:New house ghost DLC
「幽霊はいないはずです。
多分、まだ……」
「“まだ”って言い方やめろ」ってコメントが一斉に飛んできて、
ねむは堪えきれずに吹き出した。
「ごめんなさい、“今のところ”にします」
笑った瞬間、喉が少しだけ緩んだ。
(あ、歌えるな)
新居に来てから、歌の練習は何度かしていた。
隣室のハミングのことも気になりつつ、
音が漏れすぎないようにと小さく声を出す日々。
今日、配信で歌うかどうかは、
ぎりぎりまで決めていなかった。
(でも、なんか……)
この声なら、今の空気なら、
歌ってみても良い気がした。
「じゃあせっかくだし、
一曲だけ、歌ってもいいですか?」
コメント欄が、一瞬で別の色を帯びる。
きた!!!
歌!!!
まってた
絶対音変わってるやつだこれ
新居初歌
EN:SING SING SING
EN:First song in new home!
ねむは、マイクの高さを少しだけ調整した。
背筋を伸ばす。
喉をやさしく撫でるように指を添えて、深呼吸。
(六畳じゃない。
もう、二LDKで、仕事してるんだ、私)
そう思ったら、不思議と足が床に根を張ったように落ち着いた。
「じゃあ、“Nem’s Night”のショートバージョンを、
新居から、初めて、ちゃんと歌います」
EDとして流れている自作曲。
アニメのタイアップも決まり、“箱の顔”になりつつある曲。
イントロが流れはじめる。
新しいスピーカーから出る音は、六畳のときより遥かに鮮明だ。
0.5拍分だけ、息を吸う。
最初のフレーズに、心を乗せる。
「♪ まぶたの裏 あしたが怖くて
ひとりで見てた 青い画面……」
歌い出した瞬間、ねむ自身が驚いた。
(……なに、これ)
声が、前よりも“軽い”のに、“太い”。
高音が苦しくない。
中音が、ちゃんと前に飛ぶ。
低音が、床から支えられているみたいに安定している。
新しい部屋の音響。
マイクとインターフェース。
防音カーテンとラグ。
全部が、ねむの声を後押ししている。
(私、こんな声、出せるんだ)
歌いながら、軽い浮遊感に襲われる。
「♪ “おやすみ”って きみがくれたから
今日も生きてみようと思えた夜――」
コメント欄が、凄まじい速度で流れているのが見える。
でも、読む余裕はない。
ただ、歌詞と、メロディと、
この部屋の空気と、
モニターの向こうの“ただいま”たちだけを想像して歌う。
サビに向かう前、ほんの一瞬だけ、
隣室から聞こえるハミングの記憶がよぎった。
(負けない)
誰かと張り合っているわけじゃない。
でも、“ここで歌っている自分”を、ちゃんと認めたかった。
「♪ 配信は まだ切れてないから
きみに届くように 声を伸ばすの
さよならじゃなくて “またね”の続き
Nem’s Night 明日も
きみの夜にいていいですか――」
最後のロングトーンを、
六畳のときより半拍だけ長く伸ばした。
喉が、かすれる前に。
苦しくなる前に。
ぴたりと止める。
ピアノのアウトロが消えていく。
数秒の静寂。
その静寂を破ったのは――コメントの雪崩だった。
【コメント】
うわ
ちょっとまって
前と全然違うんだけど
声の伸びエグない?
鳥肌立った
CD出した?
EN:HER VOICE??
EN:This is so clean…
EN:Goosebumps
“生きてみようと思えた夜”のとこ刺さった
Nem’s Night、本当に名曲だな
新居補正じゃない、これはれむ補正
【SuperChat】
¥5,000:新居祝い+歌のご祝儀
¥10,000:Nem’s Night CD化待ってます
¥20,000:アニメEDから来たけど、生歌でこれはやばい
¥12,000:今日、生きててよかった回です
$50:From EN fan. Your voice saved my night today.
画面の端で、スパチャバーが爆速で伸びていく。
(まって、速い、速い……)
数字が現実感を失っていく。
でも、それよりも、
「……ありがとう」
口から漏れた言葉の方が、
ねむにとってはずっと大きかった。
「新しい部屋で歌うの、すごく、怖かったんですけど」
正直に言う。
「“前より下手になった”って言われたらどうしようって、
実は、さっきまで考えてました」
コメント欄が、総ツッコミの嵐になる。
下手になってねぇよ!!
進化してるんだよ!!!
むしろ上手くなりすぎ
自覚しろ
EN:You leveled up
EN:This is evolution, not downgrade
「でも、
“きみに届くように声を伸ばす”って歌ってるのに、
怖がってたら、ちょっとダサいなって思って」
自分で言いながら、少しだけ笑えるようになっていた。
「だから、怖いまま、歌いました。
今日の歌は、ちゃんと“怖いまま前に出た”歌です」
その一言に、またコメントが溢れる。
EN:That’s courage
怖いまま前に出るの、かっこいい
Nem’s Nightの歌詞とリンクしてるのヤバい
今日も生きてみようと思えた
“怖いまま”を推せる人を推してる自分を誇りたい
◆
歌のあとは、話題を少し落として“新居の裏話”に移った。
「実はですね……
歌ってるとき、隣の部屋から、
うっすらハミングが聞こえてくる日があって」
さらっと言った瞬間、コメントがざわついた。
隣人!?
隣の人も歌ってるの!?
歌の人?
EN:Neighbor singer??
EN:LMAO duet through wall
「えーと……
管理会社さんが、“音楽関係のお仕事されてる方がいます”って」
そう説明すると、一気に妄想が広がる。
隣人もV説
隣人も歌い手説
隣人もプロ説
隣の人、今の歌聴いてるよ絶対
壁ドンじゃなくて壁ハミング
EN:WALL DUET WHEN
「いや、あの、まだ挨拶すらしてないので……」
ねむは慌てて手を振った。
「ある日突然、“Nem’s Nightいいですね”って言われたら、
たぶんその日、配信お休みします」
コメント欄が笑いに包まれる。
EN:She’ll faint
壁越しファン
それはもう恋なんよ
まだ恋じゃない
でも恋の種はもう撒かれてる
“恋”という単語に、
ねむは一瞬だけ指を止めた。
(恋……?)
意識しないようにしてきた領域だ。
Vを始めてから、ずっと。
“誰かに恋してる暇があったら、声を鍛えろ”と自分に言い聞かせてきた。
でも――
「まあ、
もし隣の方も配信とかしてたら、
いつか“壁越しコラボ”とかできたらいいですね」
ふざけて言ってみせる。
冗談のつもりだった。
でも、その“いつか”が、本当にどこかに繋がっている気がして、
胸がぽっと熱くなる。
◆
配信の終盤。
ねむは、ふと、コメントの流れを見ながら、
もう一つだけ話したくなったことを口にした。
「そうだ、あの……
今日の配信、
“誰に一番最初に見せたいか”って考えたとき」
視界の端で、スパチャの一覧が目に入る。
配信初期から支えてくれた名前。
切り抜きで広めてくれた人たち。
最近増えた海外勢のアカウント。
「箱のみんなにも見てほしいし、
アニメのスタッフさんにも聴いてほしいなって思ったんですけど」
そこまで言って、一拍置いた。
「――正直に言うと、
お母さんにも、いつか、聴いてほしいなって思いました」
コメント欄が、すっと静かになったように見えた。
実際には流れ続けているけれど、
ねむの目には、文字がにじんで一瞬読めなくなる。
「まだ言えてないこと、いっぱいあるので。
“こういう仕事してるよ”って」
新居の住所。
二LDKになったこと。
Nem’s NightがアニメのEDになったこと。
「でも、
今日の配信みたいな夜を、
“わたし、こういう場所で生きてるよ”って、
いつかちゃんと、言えるようになりたいです」
喉が少しだけ詰まった。
「そのとき、“おかえり”って言ってもらえるように、
まだ、生きていようと思います」
言い終えた瞬間、
コメント欄が一斉に爆発した。
EN:I’m crying
EN:Tell your mom when you’re ready. We support you.
ねむママにも届きますように
いつでも帰っておいで
ここがねむの家
Nem’s Night=ねむの人生そのもの
今日も生きてくれてありがとう
推しの親にも幸せになってほしい
スパチャも、止まらない。
¥50,000:親孝行応援基金
¥10,000:いつか親子で聞くNem’s Nightに
¥15,000:ねむママが安心できるように
$100:From EN. You made me call my mom today. Thank you.
(多すぎる……)
現実味が、また遠のく。
でも、その全部が、“ねむの生き方そのもの”に投げられていることだけは、
はっきりとわかった。
◆
「……じゃあ、そろそろ、終わりにします」
配信終了時間は、予定より少しだけ長くなった。
「新居からの初配信、
すごく緊張してたんですけど……」
ねむは、マイクにそっと顔を近づけた。
「六畳のときと、やってることは変わりません。
ただ、“ただいま”って言ってもらえて、
“おかえり”って言える場所が、
ちょっとだけ広くなっただけです」
自分で言っていて、少し胸があつくなる。
「これからも、
Nem’s Nightを、
みんなの夜に置いてもらえたら、うれしいです」
最後の挨拶。
「今日も来てくれて、ありがとうございました。
おやすみ、ちゃんと言ってね?」
配信の締めの言葉を、
六畳の頃と同じトーンで言う。
【コメント】
おやすみ
おやすみ
おやすみ!
EN:Oyasumi
EN:Good night
明日も生きてみる
Nem’s Nightまた来るね
【SuperChat(締め)】
¥2,000:おやすみ代
¥1,000:新居の電気代
$10:For your future talk with mom
表示される名前たちを、
一人ひとりなぞるように、目で追う。
配信を切る前に、
ねむは小さく息を吸った。
「……ただいま、って言ってくれて、ありがとう」
その一言だけ、
マイクがちゃんと拾ったのを確認してから――
ねむは、「配信終了」のボタンを押した。
◆
静寂が戻る。
BGMも、コメントも、画面の赤いLIVEランプも。
残ったのは、自分の呼吸と、
PCの静かなファンの音だけ。
「…………はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
ねむは椅子にもたれかかり、両腕をだらんと下ろした。
「緊張した……」
手のひらは少し汗ばんでいる。
喉は、心地よい疲労感。
インターフェースのレベルメーターは、
さっきまでの賑やかさが嘘みたいに静かだ。
そのときだ。
ぽん、とDiscordの通知。
【Lumière/Staff&Talents】
天音ルナ:おつかれ!!!
白神ナオ:新居ボイス、強すぎ
黒瀬ミオ:歌、今日一番良かった
神崎ユウマ:マイクの設定、今のまま保存しておいて
天ヶ瀬カイ:今日の歌、録画くれ
星野コウ:Nem’s Night、CD出した時のジャケ案考えました(画像)
花咲ユリ:ねむちゃんの「怖いまま前に出る」の言葉、好きでした
笠原サチ:泣きました……
春名ミナト:“隣の人も歌ってたら休む”のとこで死んだ
凪野レオ:壁ドンじゃなくて壁コーラスしに行くわ
水城レン:
《新居初配信、おつかれさま。
六畳のねむも好きだったけど、
今日のねむは、“声の仕事してる人の顔”でした》
ねむは、その文を三回読んだ。
「……なんですかそれ」
照れ隠しのように呟く。
けれど、胸の奥は、じんと熱い。
◆
風呂を済ませて、髪を乾かし終えたころには、
もう日付が変わりかけていた。
スマホを手に取り、
意を決して通知を開く。
Xのトレンド欄には、
「#Nem’sNight」「#ただいま配信」「#ねむちゃん新居」が並んでいた。
アニメ公式アカウントからも引用RTが来ている。
《ED担当の白露ねむさん、新居からのNem’s Night生歌が最高でした。
アニメスタッフ一同、配信のアーカイブを見ながら作業しています》
「ひえっ」
ソファに埋もれた。
(監督さんとかも見てるのかな……)
想像すると胃がキリキリする。
でも、同時に、嬉しくてたまらない。
ふと、連絡先リストの一番上に、「母」の名前が目に入った。
(……今じゃない)
分かっている。
今日のテンションのまま電話したら、
きっと途中で泣いてしまう。
その前に、もう少し言葉を整理したい。
代わりに、メモ帳を開く。
《今度、ちょっとだけいい話ができそうです》
昼間下書きした一文の下に、
ねむは一行だけ付け加えた。
《“怖いまま前に出た”って話です》
保存マークを押す。
送信は、やっぱりまだ先だ。
◆
ベッドに潜り込む前に、
ねむは、部屋の照明を少しだけ落とした。
リビングの端には、簡易の歌ブース。
パネルとカーテンで囲われた、小さな“小部屋”。
今日、そこから世界に向けて声を飛ばしたのだと思うと、
少し不思議な気持ちになる。
(“六畳のねむ”は、もう戻らないんだな)
もちろん、後悔はない。
でも、それはそれとして、すこしだけ寂しい。
「……おやすみ」
誰もいないリビングに向かって、ぽつりと呟く。
その瞬間――
隣の部屋から、かすかなハミングが聞こえた。
今日は、さっき歌ったNem’s Nightのサビのメロディだった。
(……え)
心臓が跳ねる。
(今の、絶対、Nem’s Nightの……)
歌詞こそ乗っていないが、
メロディの流れが完全に一致している。
壁一枚向こうで、
誰かが、ねむの曲を口ずさんでいる。
偶然かもしれない。
でも、そう思い込むには、あまりにもタイミングが良すぎた。
「……聞かれてた?」
囁いてみる。
壁は、もちろん答えない。
ハミングは、ほんの二小節ほど続いて、
ふっと途切れた。
続きは歌われない。
ねむは、布団に潜り込みながら、
胸のあたりをぎゅっと押さえた。
(なんか、やだな)
“やだ”の中身は、
嫌悪でも不快でもなくて。
(めちゃくちゃ、気になる)
そこにあるのは、
好奇心と、少しの照れと――
“誰かに見つけてもらえた”ような、不思議な安心。
「配信、まだ……切れてませんよ?」
自分にだけ聞こえるくらいの小さな声で、
もう一度、あのフレーズを呟いた。
六畳の頃、独り言だった言葉。
今は、壁の向こうと、
画面の向こうと、
いつか電話の向こうにいる誰かにまで届くような気がする。
目を閉じる。
Nem’s Nightのサビの残響と、
隣人のハミングの記憶と、
さっきのスパチャの“今日も生きてくれてありがとう”の文字が、
ぜんぶ混ざり合って、静かな夜の底に溶けていく。
(明日も……生きていよう)
それだけを、そっと決めて。
白露ねむは、新居での最初の夜を、眠りに預けた。
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