第32話 五十一万一千人の会議
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
スマホの通知音は、夜のうちにとうに飽和していて、ロック画面には「99+」の表示しか出ていない。
白露ねむは、枕元でそれをつかんでから、しばらく目を開けられなかった。
「……こわ……」
小さくこぼしてから、ようやくスワイプする。
アプリのアイコンが並ぶ。X、YouTube Studio、Discord、Lumière内ツール。
指は、ほとんど条件反射で「Studio」を押していた。
ロード中の丸いぐるぐるが、やけに長く感じる。
(落ち着け……昨日の時点で、えっと……五十万四千三百八十二人。だから、きっと……)
数字が、表示される。
——チャンネル登録者数:511,204人
「……は?」
声が裏返った。
何度か瞬きをして、更新ボタンを押す。表示は変わらない。
グラフを開くと、夜中から明け方にかけて、きれいな右肩上がりの線が伸びていた。
「LetNemSleep」タグ付きの海外切り抜き動画からの流入。
アニメ公式アカウントの引用RT。
英語圏のまとめアカウント。
(五十万、超えたばっかり……だよね……? そこから、さらに……)
喉の奥が砂みたいに乾く。
嬉しいという感情より先に、「重さ」のほうが先にきた。
「……みんな、大丈夫かな……。疲れてないかな……」
自分のことより、自然とそこに思い至ってしまう。
昨夜は、おやすみ返し枠のあとも、箱の先輩たちがリレー配信で空気を整えてくれた。
天ヶ瀬カイのバラエティ枠。
ユウマの静寂三分配信。
ミオの、柔らかい雑談。
ねむのために、ではあるけれど——箱全体の文化を守るためでもあった。
(……会議、あるんだっけ)
レンからのDMを思い出す。
《10:30から本社で会議。ねむちゃんは11:00に来てくれれば大丈夫。体調優先で、遅れてもいいからね》
短く、「了解です。行きます」とだけ返す。
文字を打つ指が、少し震えた。
◆
Lumière本社の会議室は、午前の光で明るかった。
長テーブルの向こう側、壁一面のモニターには、白露ねむのチャンネルダッシュボードが映っている。
左上に、小さく「511,204」の数字。
東雲隼は、背もたれに寄りかかりながら、その数字をじっと見ていた。
黒縁の眼鏡の奥の目は、ビジネスの光と、どこか保護者の色を混ぜている。
「……一晩で、約七千増ですか」
水城レンが、手元のタブレットを確認する。
「はい。深夜の切り抜き拡散と、アニメ公式の引用RTが重なって。
海外比率が、四十五パーセントを超えました」
霧原シンが、腕を組んで笑った。
「歌も再生、じわじわ伸びてるな。EDフルが四十万再生、ショート切り抜きが合計で三百万。
音源としてじゃなく、“あの声の子”として聞かれてる」
黒瀬ミオは、資料の数字をざっと眺めてから、短く息を吐いた。
「数字だけ見たら、もう中堅どころじゃないわね。
——でも、中身は、いつものねむちゃんだものね」
レンが苦笑する。
「自分がこんなに伸びてる実感、たぶん、まだないと思います。
“夜中の小さい配信枠”の感覚のままですから」
東雲はホワイトボードに近づき、マーカーで大きく数字を書く。
『50.4万 → 51.1万』
「……ここからどうするか、だ」
マーカーの音が止まる。
◆
「まず、現状の収益。」
レンがスライドを切り替える。
棒グラフと円グラフが並び、色分けされた項目が浮かぶ。
「先月の、白露ねむ関連の収益内訳です」
画面に、数字が並ぶ。
・SuperChat:1850万円
・メンバーシップ:380万円前後
・広告収益(配信+アーカイブ):約140万円
・アニメEDの印税(初動分):70万円
・企業コラボ案件(スイーツ/コスメ/アプリ):合計250万円
「計、だいたい二千六百五十万前後。
ここから、プラットフォーム手数料と税、経費を引いて——」
別のスライドに、もう少し現実的な数字が出てくる。
「うちの取り分と、ねむちゃんの取り分は、現状七対三です。
事務所が、約千八百五十万。ねむちゃんが、七百九十万前後」
天音ルナが、椅子にふんぞり返ったまま口を尖らせる。
「普通に考えたら、悪くない数字なんだけどさ。
ここまで箱を引っ張ってる新人に対しては、ちょっと、渋いよね」
星野コウも頷く。
「れむ、案件の台本も自分で直してるし、歌の練習もずっとやってるし。
“天然たらし”とか言われてるけど、ガチで努力型だからな」
黒瀬ミオが、少し強い口調で付け加えた。
「それに、あの子の配信スタイルって、
箱の文化そのものに影響してるのよ。
“寝かせる配信文化”とか、“おやすみ返し”とか」
「箱の看板、というより——象徴だな」
と、霧原シン。
東雲は、ホワイトボードに「収益比率」という言葉を書いた。
「……現状の七対三から、変更する。
これはもう、決めている」
その言い方は、質問ではなく宣言だった。
「候補は三つだ」
ホワイトボードに、三行の案が並ぶ。
A:60:40(箱:れむ)
B:55:45
C:基本は60:40+案件・音楽は+10%
「Aなら、箱側も安定する。
Bは、れむにかなり寄せた数字だ。
Cは、歌やタイアップでの貢献を評価するパターンだな」
レンが付け加える。
「業界全体の相場で言うと——
A案は“かなり良心的”、C案は“トップクラスに良い”という感じです」
ミオがじっと東雲を見る。
「あなたは、どこまで出すつもり?」
東雲は、少しだけ目線を落とし、すぐに戻した。
「……Cだ」
部屋の空気が、少しだけ揺れた。
「基本の配信・メンバー・通常スパチャは六対四。
案件・音楽・大型タイアップに関しては、七対三でねむ側を七。
こちらの取り分は、四と三でいい」
「社長、それ結構、攻めた数字ですよ」
レンが、慎重な声を出す。
「箱の固定費、新人育成費、スタッフの給与、サーバー、スタジオ……」
「それでもだ」
東雲は、静かに遮った。
「白露ねむが入ってから半年で、
箱全体の売上は三倍だ。
新人応募数は六倍。
コラボの打診も、れむ絡みが半分以上を占める」
ホワイトボードの隅に、「箱の数字」として別の棒グラフが描かれていく。
「彼女に還元することは、箱の宣伝費であり、
——箱の良心の証明にもなる」
その言い方は、妙に真っ直ぐだった。
霧原シンが、ニヤリと笑う。
「らしくねぇな、社長。
でも、嫌いじゃない」
ミオも小さく笑った。
「れむちゃん、絶対戸惑うと思うけどね。
“こんなにもらえません!”って、泣きそうな顔で」
「そこは、俺たちの仕事だろ」
東雲は、肩をすくめた。
「彼女の優しさを理由に、安く使い続けるなんて真似はしない。
それをやった箱がどうなるか、業界全体で見てきただろう?」
ルナが、真顔で頷いた。
「燃えるね。
箱も、信頼も、全部」
「だからこれは、“守るための数字”だ」
ホワイトボードのC案の横に、大きく丸が付けられた。
◆
「次に、安全面。」
スライドが切り替わり、「セキュリティ・マネジメント」というタイトルが出る。
「最近、れむちゃん宛のDMが増えてます。
ほとんどはファンレター的な内容ですが、一部、境界線が曖昧なものもあります」
レンは、やわらかい声で、それでも淡々と説明する。
「現状、僕ひとりでチェックしてますが、
夜通し配信が続いたあとだと、どうしても漏れが出やすい。
マネージャーを、もう一人つけたいです」
「賛成」
ミオがすぐに言う。
「れむちゃん、絶対、何かあっても“迷惑かけたくないから”って黙るタイプだもの」
コウも頷く。
「そういうところ、ほんとにある。
喉痛いときも、“みんなに悪いから”って隠してたし」
ルナが、椅子の背もたれを蹴ってから、真剣な声を出した。
「新任マネ、誰にすんの? 変なやつ付けたら、私がぶん殴るけど」
レンが苦笑しながらも、用意していた書類を出す。
「候補は三人います。
元音楽事務所のマネージャー経験者が一人。
元イベント会社の進行ディレクターが一人。
あと、うちの制作部から移動を希望してるスタッフが一人」
東雲は、三枚のプロフィールをざっと眺め、印象を掴むように目を細める。
「最終的には、れむ本人にも会わせて決めよう。
“話しやすい人”でなければ意味がない」
「そこまで本人に選ばせるの?」
ミオが少し驚いたように言う。
「最終決定はこっちがする。
——ただ、“話しづらい相手”を押し付けることだけはしないって決めている」
東雲は、ボードに「安全対策:箱負担」と書き足した。
◆
「で——肝心の本人への伝え方ですが」
レンが、配布資料の最後のページをひらりとめくる。
「ここが一番、難しいポイントです」
そこには、れむの性格についての簡単なメモがまとめられていた。
・自分だけ得をすることに、強い抵抗感
・箱のみんながいるから自分がある、という意識
・お金の話が極端に苦手
・でも、自分のせいで誰かが疲弊するのはもっと嫌
・『努力』の認知が弱く、“たまたま”だと思いがち
ミオが肩をすくめた。
「……これ、実験用マウスみたいにメモ書かれてたら怒るわよ、普通」
「愛ですよ、愛」
レンは笑いながらも、真剣な目をしている。
「ただ、“ねむちゃんのために”って言い方をすると、
“じゃあ大丈夫です、みんなに回してください”って返される可能性が高いです」
「だから?」
「“箱のためでもある”という言い方にしたい。
れむちゃんを守ることが、Lumièreの理念そのものなんだ、って」
東雲は、静かに頷いた。
「いい。そう伝えよう」
時計を見ると、針は十時五十五分を指していた。
「——そろそろ、本人が来る時間だ」
部屋の空気が、少しだけ張りつめる。
数字やグラフの議論から、「一人の人間」にフォーカスが戻ってくる瞬間。
レンは、スマホで短くメッセージを打った。
《今、何階です?》
数秒後、返事が来る。
《エレベーター待ちです……緊張してきました……》
レンは、ふっと笑った。
「今、エレベーター前だそうです」
「迎えに行ってやれ」
東雲が促す。
レンは頷き、会議室を出て行った。
◆
エレベーターホールは、静かだった。
ドアが開くと、マスク姿の小柄な女の子が、両手でバッグを抱えて乗っていた。
「……レンさん」
「おはよう、ねむちゃん」
マスクから見える目が、不安と緊張で泳いでいる。
「なんか……怒られるんじゃないかって、
ちょっと、思ってて……」
「怒られること、した?」
「切り忘れ……しました……」
小さな声で言ってから、自分でも笑ってしまう。
「でも、皆さんが守ってくれて……あの、
箱のリレー配信とか、すごくて……」
レンは首を振った。
「怒るわけないでしょ。
今日は、“ありがとう”って言う会議だよ」
「ありがとう……?」
「そう。
——そして、“これからどう守っていくか”って話」
ねむは、目を瞬いた。
「……守る、のは、私じゃなくて、みんな、です……。
みんながいてくれるから」
「その考え方が、もう尊いんですよねぇ」
レンは、苦笑混じりに言いながらドアを押した。
「行こう。
白露ねむという一人の人間の話を、ちゃんと箱の真ん中に置く時間だ」
◆
会議室に入ると、全員の視線がふっと柔らかく向いた。
ねむは、反射的に小さく頭を下げる。
「お、おはようございます……」
「おはよー、五十一万人」
ルナが、いつもの軽口で空気を割った。
「えっ」
「今ね、五十一万千二百四十……何人だっけ?」
コウが画面を見て笑う。
「二百四人だね。さっき三人増えた」
「ぞっとします……」
ねむは、本気で震えた声で言った。
「ぞっとするほうかよ」
ミオが呆れたように笑う。
「普通、嬉しいが先でしょ」
「う、嬉しいです、もちろん……! でも、その……
こんなにたくさんの人が、“おやすみ”って言ってくれてるって思うと、
なんか、私、ちゃんとしなきゃ、って……」
「それでいい」
東雲が、そこで口を開いた。
「——その“ちゃんとしなきゃ”って気持ちが、
ここまで箱を大きくしてくれた。
だから今日は、そのことに、まずありがとうを言わせてほしい」
ねむは、目を丸くする。
「わ、私、そんな……
箱のみなさんが、守ってくださったからで——」
「そういうふうに言うと思ってた」
ミオが、先回りして笑う。
「でもね、れむちゃん。
“守られる価値がある人”って、勝手にそうなるんじゃないの。
毎日、ちゃんと配信して、ちゃんと声を届けて、
ちゃんとリスナーを大事にしてきた人だから、
守りたくなるのよ」
霧原シンも、短く付け加える。
「数字も、文化も。
お前が変えたんだよ、れむ」
「……」
ねむの喉が、少しだけ鳴った。
「……ありがとうございます……」
それは、かろうじて言葉になった。
◆
「で——本題だ」
東雲が、ボードの前に立つ。
「白露ねむ。
君のチャンネル登録者数は、昨日の配信で五十万を超え、
今、五十一万一千人を超えている」
数字が、改めて口に出されると、実感がないまま胸に乗っかってくる。
「それに伴って、収益も大きく伸びた。
ここからは、箱としての契約の話だ」
「け、契約……?」
ねむの肩が、びくっと動いた。
「そんなに難しい話じゃない」
レンが、そっとフォローに入る。
「今まで、うちとねむちゃんの収益の分け方は、七対三でした。
事務所七、ねむちゃん三。
それを——六対四に変えます」
「ろく……」
ねむは、頭の中で必死に計算しようとする。
でも、月の総額を思い浮かべた瞬間、怖くなってしまった。
「で、でも、それって……
みなさんの取り分が減っちゃうってことで……」
「減らしていい分だ」
東雲は、即答した。
「君が箱にもたらした利益と、
箱全体の成長を考えれば、当然の調整だ。
それに、案件や音楽に関しては——」
ボードに、新しい比率が書かれる。
『案件・音楽:れむ 7 / 箱 3』
「こちらを、君に七、箱側三にする」
「えっ、えっ、待ってください……」
ねむは、慌てて手を振った。
「そんな、そんなにもらえません……!
だって、歌も、アニメも、
スタッフさんや、作曲家さんや、いろんな人が——」
「その人たちへの支払いは、別枠でちゃんとやる」
レンが、穏やかに言う。
「これは、“ねむちゃんの取り分”の話です。
ここを増やしたからといって、スタッフが困るわけじゃない。
それどころか、みんな喜びますよ。
“自分たちが支えた子が、ちゃんと報われてる”って」
「……でも……」
「それでも、怖い?」
ミオが、少しだけ真剣な目で問う。
「自分だけ得するみたいで、嫌?」
「……はい」
ねむは、正直にうなずいた。
「みんな、頑張ってて……
私だけが、増えるのは、なんか……」
シンが、鼻で笑う。
「だったら、こう考えろ」
「え?」
「お前に還元される分は、
“箱への投資の一部”だ。
お前が、生活に余裕を持って、喉のケアもちゃんとして、
引っ越したいなら防音の部屋に引っ越して、
安全に、長く続けられるようにするための、必要経費」
コウも続ける。
「れむが倒れたら、箱ごと困るんだよ。
だから、“箱を守るために、れむに金を渡す”って思えばいい」
ルナが、大げさに指をさす。
「そうそう。
“私のためじゃなくて、箱のため!”って思っときゃいい」
「そんな……理屈だけ聞くと、
なんかすごく、ずるい感じがします……」
ねむは、半笑いで抗議しながらも、
少しだけ肩の力が抜けているのが、自分でもわかった。
「でも——」
東雲が、最後に口を開く。
「これは、君に選ばせる話じゃない。
守る側が決めるべきラインだ。
僕たちは、“このくらい渡さないと、君を守れない”と判断した。
だから、迷惑だと思う必要はない」
ねむは、しばらく言葉を失っていた。
喉の奥が熱い。
泣きそうになるのを堪えて、マスクの中で口をかみしめる。
「……そんな言い方、されたら……
断れないじゃないですか……」
ようやく出た言葉は、それだった。
ミオが、くすっと笑う。
「それでいいのよ。
たまには、守られる側に甘えなさい、れむちゃん」
「……はい……」
ねむは、目尻を指で押さえた。
涙は、ぎりぎりこぼれなかった。
◆
会議の終盤、レンが最後のスライドを出す。
「あと、もうひとつ」
画面には、「新人募集計画」と書かれている。
「れむちゃんのバズ以降、Lumièreへの応募が激増しています。
歌勢、雑談勢、ゲーム勢、色んな子が、“ここで配信したい”って言ってくれている。
そこで——来期、新人を四〜六人ほど増やす予定です」
「えっ」
ねむは、思わず顔を上げた。
「……後輩、増えるんですか?」
「そう。
で、君には、“優しい先輩”をやってほしい」
レンは、そう言って笑う。
「お姉さんムーブ、得意でしょ?」
「と、とくいじゃないです……!」
即座に否定したものの、心のどこかで、
少しだけ楽しみだと思ってしまった自分に気づいて、
ねむは照れくさくて、また目を逸らした。
東雲は、最後に、会議室全体を見渡す。
「——白露ねむ五十一万人突破。
これは、ゴールじゃない」
数字の向こうの人間たちの顔を、順番に見ていく。
「ここから、箱として、どう“正しく伸びるか”を考える段階だ。
数字を追いかけるんじゃない。
この空気を、どう守って増やすかを考える」
ねむは、その言葉を聞きながら、
胸の奥に、少しだけ新しい感情が芽生えるのを感じていた。
(……私、ちゃんと、この箱の役に立ててるのかな)
不安と同じくらい——
誇らしさに似た、温かいなにか。
会議室のモニターには、相変わらず
「511,204」の数字が光っている。
その下に、小さく、さっき更新されたばかりのグラフ。
“おやすみ”の一言から始まった線は、
まだ、右上に向かって静かに伸び続けていた。
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