第16話 はじまりのテイク

 朝いちばんの光は、紙の端みたいに薄かった。

 目を開ける前に、昨夜の通知の震えだけが指先に戻ってくる。

 ——“アニメ主題歌オーディション、受けないか?”


 枕の横でスマホが静かに光っていた。

 皆の寝息は、まだ夜のつづき。ルナの呼吸は規則正しく、ユリは丸く、カイは仰向けで、ミナトは腕を枕にしている。

 ねむはそっと身を起こして、長い言葉を短くたたんだ。


ねむ:受けたいです。受けます。

——Good night, not goodbye(※朝だけど、合言葉)


 送信。鼓動が一つぶん早くなる。画面の「既読」が落ちる前に、ドアの向こうでケトルがコトと鳴った。

 今日がもう、始まっている。



◆ 事務所ミーティング(午前10時・小会議室)


 丸テーブルの向こうで、黒瀬ミオが短く頷いた。

 隣には水城レン、少し遅れて氷室リア。資料は薄い。けれど空気は濃い。


「結論から。制作はアニメ『灯台の手紙』。放送は来期。主題歌は“声で描く灯台”。テーマ、君に合う」

 ミオの声はいつもと同じ平熱。けれど目がいつもより温かい。


「審査は二段階。課題曲のショートテイクと、自由曲45秒。

 審査員は音楽P、アニメP、ディレクター。締切は三日後、夕方五時」


「三日……!」

 ねむの喉が、驚きで少し鳴った。リアが笑う。


「短納期なんて、歌の世界ではよくある。でもねむには既に“声”がある。焦るな。呼吸から作る」


 レンが譜面を開き、鉛筆で二箇所に丸をつけた。

 Aメロの立ち上がりと、サビの“また明日”に重なるところ。


「ここで語尾が消えない人が、実は少ない」

 レンは言う。「ねむの配信を見てわかった。君は“語尾を残す”天才だ。それを歌に移す」


 ミオが小さく笑う。「つまりいつものねむでいいってこと」


「……はい」


「今日の午後からリハ室押さえてある。コーチも呼んだ。

 鍵盤のキー選定、ブレス位置、子音の処理。三つだけ徹底する。ほかは君の“灯り”に任せる」


 短い説明だった。けれど充分だった。

 ねむは頷き、深く息を吸って、吐いた。4で吸って、1止めて、6で吐く。

 手の中の紙は軽いのに、未来の重さがちゃんとあった。



◆ リハ室(正午)——呼吸と子音


 グランドピアノにカバー、壁一面の吸音材。

 **ボーカルコーチ・東雲(しののめ)**が、最初に訊いたのは経歴でも好きな歌手でもなく、「どんなときにあなたは息を吸う?」だった。


「眠る前です。……あと、“おやすみ”って言う前」


「いい。じゃあそこに印を置こう」

 譜面に小さな星印が増える。言葉の前で吸うのではなく、“言葉の余白で吸う”。ねむの呼吸に合わせて、拍がすこし後ろへ下がった。


「sとkとtが硬い。硬いのは悪いことじゃない。灯台の輪郭になる。でも、“また明日”のtだけは、舌先で触れて離すだけにしよう。殴らない」


「舌先で……触れて、離す……」

 口の中だけで反芻して、母音をすっと置く。

 鍵盤はまだ音を出さない。部屋にあるのは、喉を通る空気の音だけ。


 キーは半音下げで落ち着いた。

 テストテイク一本め。録音ボタンの赤が灯る。


♪ 眠れない夜に 灯りを置いて

  ここにいるよって 言えるように


 言葉は出た。

 けれど、東雲は首をひねる。


「正しいけど、弱い。

 “置いて”のいが、どこにも置かれてない。

 君は配信でそれをやれてる。部屋の角に言葉を置くみたいに」


「部屋の角に……」

 ねむは一拍だけ目を閉じる。昨夜の部屋の、薄い月色の灯り。

 みんなの寝息。コンビニ袋のかさ。

 胸の中に、その部屋を一つ、作ってから歌い直した。


♪ 眠れない夜に 灯りを置いて

  ここにいるよって ——(い)を、部屋の角に、そっと


 東雲の目が細くなる。「それ」


 “正解”という言葉ではなかった。けれど、ねむには“合図”に聞こえた。



◆ 昼の告知配信(15分)


タイトル:【大事なお知らせ】挑戦します。

同接:3.2万 → 6.4万


「こんにちは、白露ねむです。

 短く。——オーディション、受けます。

 “灯台”の歌。ここまで連れてきてくれた声で、行けるところまで行きたい」


『泣く』『行ってこい』『推しがまた前に進んでる』『#灯台の主題歌』

『翻訳班、急げ』『Nemu go!!』『화이팅』


「配信は練習の妨げにならない範囲で夜に短くやるね。

 今日も、おやすみは言いに来る。——これは約束」


 短い告知はそれだけ。

 切った瞬間、胸の中に空白ができた。

 怖さではない。多分、跳ぶ前の助走。



◆ 夕方——自由曲45秒


「自由曲は、“Good night, not goodbye”のセルフアレンジで行こう」

 ミオの判断は速い。「君の名刺だ。短く、強く」


 東雲がピアノのベースだけを残し、余計な和音を抜いていく。

 レンが譜面を覗き、「“また明日”の語尾を残すために、タンギングを使わないで音価で支えろ」と指先で示した。


「一回、語らないで歌ってみよう」

 リアが言う。「歌じゃなくて。夜の部屋にひとりいるように。

 誰にも見られてなくて、でも見られてるみたいな。配信切り忘れのときの君で」


 教室の静けさみたいな間ができた。

 ねむは椅子から立って、鍵盤から一歩離れる。

 両手で部屋の角を作るように、空気を囲った。


♪ Good night, not goodbye

  眠りの海で 会おう

  おやすみは また会う約束だから


 声は小さかった。けれど、よく通った。

 誰も拍手しなかった。重ねるものがなかったからだ。

 東雲が静かに通話機の録音停止を押し、ミオがメトロノームを消す。

 レンが短く一言。「提出できる」


 ねむは、ほんの少しだけ笑った。語尾を残すみたいに。



◆ 夜——一本目の“本番”テイク


 録音ブースは、昼よりも狭く感じた。

 ガラスの向こうで、皆が手を出さない形で見守っている。

 スタンドのポップガードに近づくと、心拍の音が耳の奥でとんとん**と鳴る。


「いける?」(ミオ)

「いけます」(ねむ)


 赤が灯る。

 課題曲テイク1。


♪ 朝の手紙は 灯りの下で

  誰でもない誰かに 届くように

  ねぇ、——


 ねぇのぇで、舌がすべって子音が立った。

 東雲がすぐ止める。「ちょっと硬い。もう一回」


 テイク2。

 今度は吸いすぎた。冒頭の母音が浮き、息が先に出る。

 レンが首を振る。「呼吸を隠すな。でも、見せびらかさない」


 テイク3。

 普通。悪くはない。けれど、足りない。

 リアが小さくマイクに寄る。「ねむ。“置いて”。角に」


 テイク4。

 置いた。

 “置いて”のいが、確かに部屋の角に触れた。

 音がそこから落ちずに、灯っていた。

 終わった瞬間、ねむは自分の喉の形が少し変わって戻るのを感じた。


 ガラスの向こうで、ミオが親指をゆっくり立てる。

 東雲は何も言わず、波形を見ながら保存。

 レンが一拍だけ笑って、「それ」

 リアは、妬ましそうに、でも嬉しそうに目を細めた。


「自由曲、45秒。さっきの“部屋”で」(ミナト)


 テイク1。

 語尾が残った。

 “また明日”のたが、叩かずに、触れて離れた。

 静かな、しかし確かな着地。


「提出しよう」(ミオ)

 時計は22:08。締切まで、まだ余裕がある。けれど、ここで止めるのが最善だと全員が分かった。



◆ 提出ボタンの手前——ねむ、少しだけ配信


 会議室の隅。

 ねむはスマホを立てて、限定公開で五分だけ配信を開いた。

 通知を拾った箱推したちが、静かに集まってくる。


「こんばんは、ねむです。

 いま、録り終えました。提出のボタンの手前です」


『ドキドキする』『うちらも息止めてる』『#灯台の部屋』

『I’m here.』『숨 참고 있어요』


「緊張、してます。

 でもね、今日は“部屋”がちゃんとあった。

 みんなが“おやすみ”って言ってくれるあの部屋。

 そこで歌えたから、行けるところまで行きます」


 言葉をそこで止めた。語尾を残して。

 画面の向こうで、たぶん何人もの息が同じタイミングで下がった。


「——提出、してきます。Good night, not goodbye」


 配信を切る。世界は無音になった。

 けれど、怖くはない。灯りがある。



◆ 提出


 ミオがPCを回し、ねむの前に置く。

 ファイル名は至ってシンプル。「nemu_take4_main.wav」「nemu_free45_room.wav」。

 指先が、送信の青を一度撫でてから、軽く押す。


 ——送信しました。

 画面の文は無機質。なのに、胸の中で温度を持った。


「お疲れ」(ミオ)

「おつかれ」(リア)

「ナイス」(レン)

「よくやった」(東雲)

「水」(ミナト)

「砂糖」(ユリ・キャンディを一個)

「語尾、残ってた」(カイ・にやり)

「灯台隊、解散! よく眠れ!」(ルナ・敬礼)


 笑いが静かに広がる。

 涙にはならない。今日はまだ、泣かない。

 泣くなら、結果の夜だ。



◆ 夜道


 外は小雨。

 傘の膜に当たる水のとんとんが、メトロノームみたいに胸を落ち着かせる。

 ねむは歩きながら、掌の真ん中にまだ残っている譜面の感触**を確かめた。


 歌うことは、こわくない。

 こわいのは、声がどこまで届くか。

 でも今夜は、届き先がはっきり見えた。

 部屋の角、寝息の手前、そして——画面の向こう。


 スマホが一度だけ震えた。

 ミオから、スタンプがひとつ。灯り。

 ねむは小さく笑って、独り言みたいに言った。


「……また明日」


 返事は誰からもない。

 でも、返事はもうある。

 Good night, not goodbye。


 傘の向こう、街灯の輪が重なって、遠くで灯台みたいに見えた。


 休憩室に戻ると、外の光はすっかり夕方になっていた。

 窓の向こうに走る電車の影が、少しだけ金色を引いている。


 ねむは紙コップの麦茶を両手で包んだ。

 温度はもうほとんど残っていない。

 でも、その「残りかけの温度」が悪くなかった。


「……喉、痛くないんだよね。前は、すぐ熱くなってたのに」


「当たり前だよ」

 レンは壁にもたれたまま言った。


「喉だけで歌ってたら、痛むのは当然。

 でも今は、“声を置く”ってことができはじめてる」


「置く……」


「そう。押すんじゃなくて、置く。

 その声を“受け取る側”が、勝手に感じる。

 歌う側が力む必要はない」


 ねむはコップを少し下にさげて、指先で淵をなぞる。


「ねえ、レンはさ……」

「ん」


「舞台に立つの、怖くなかった?」


 その質問に、レンは少しだけ目を細めた。

 懐かしむというより、思い出の重さに触れた目だった。


「めちゃくちゃ怖かったよ」


「……やっぱそうなんだ」


「当たり前だろ。

 ステージってのは、“自分が自分であること”が全部見える場所だから」


 ねむは少しだけ息を呑む。

 レンは続ける。


「でもな、怖いってことは、生きてるってことなんだよ。

 心臓がちゃんと拍動してる証拠。

 だったら、それをそのまま声にすればいい」


「そのまま……声に」


「うん。

 無理して強く見せなくていいし、無理して泣かなくてもいい。

 お前の声は、もう“届く”形になりつつある」


 ねむの胸の奥が、じわりと温度を持った。


「……じゃあ、私、歌っていいんだ」


「歌え。お前はもう歌える側の人間だよ」


 それは、励ましとか優しさとかじゃなかった。

 事実としての宣言だった。


「……嬉しい」


 ねむはくしゃっと笑った。

 目の端が少し濡れても、拭かない。


 レンは何も言わず、ただ手を伸ばして、ねむの頭を撫でた。

 力は弱かった。


「明日、また同じ練習する。

 そこで“息の置き場所”、本当に身体に覚えさせる」


「うん」


「で、その次の日、一旦休む」


「休む?」


「そうだ。歌は、“休み”で伸びる。

 喉も心も、使った時間と同じだけ、黙って回復させる必要がある」


 ねむは目を見開いた。


「……休みって、大事なんだ」


「大事。むしろ、歌は“休みの質”で決まる。

 ずっと走りっぱなしじゃ、声は育たない」


 その言葉は、不思議なほどすっと胸に落ちた。



 夜、ねむは帰り道でイヤホンをつけた。

 音楽は流さない。

 ただ、街の足音と、信号が変わる電子音と、道路を走る風の音を聴いた。


 全部が節を持っていた。

 全部が、歌の外側にある“リズム”だった。


「……あ、息って、こんな感じで混ざるんだ」


 誰にも聞こえない声で呟く。


 身体の中で空気が通る道が、ぼんやり分かる。

 胸→喉→口→空気

 その順路が、一本のやわらかい線になっていた。



◆ 家に帰って、配信を切ったあと


 部屋の灯りは暗め。

 モニターの光が、ねむの頬を静かに撫でる。


 椅子に座りながら、ねむは喉にそっと触れた。


「……声、ちゃんといるね」


 息を吸い、静かに吐く。


 そこに言葉が乗らなくても、声は消えない。

 声は、息の中に存在してる。


 そのことを初めて理解した気がした。



◆ 手帳を開く


《今日の音の記録》

・息は、喉の前じゃなくて、胸の奥から

・怖い=生きてる

・声は置く

・ステージは“素”が見える

・私は歌っていい


 書きながら、胸の奥が少し震えた。


 不安はある。

 まだ、怖い。


 でも、


「怖いから、行きたい」


 その言葉が、手帳の隅に小さく置かれた。



◆ そして、ひとつだけ呟く


「また明日」


 息は、やわらかいまま落ちた。

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