第7話
一足先に屋敷を出た伊織は外門の前に、一人佇んでいた。
庭に立つ梅の木に薄ら施された雪化粧が陽射しを受けて眩しいほどではあったが、まだ寒さの残る折、伊織は袖の中に組んだ腕を擦りながら、白い息を漏らした。
戸の開く音を聞いて玄関口に目を向けると、八重梅に見送られて廉也が姿を見せた。
「すいません、伊織さん。お待たせしまして」
軽く手を上げて謝る廉也に、伊織は小さく首を横に振った。
「先程はおれが待たせた。気にするに及ばぬ」
「それでは。こちらもあいこですね」
こちらも、との言葉に何の事かと眉根を寄せた伊織であったが、まあよい、と目を瞑ると廉也に向き直った。
「今日は世話になった。八重梅の機嫌が良くなかったが許してやってくれ。あれも普段は気立ての良い女だが。昨晩、おれがちと機嫌を損ねた」
ばつが悪そうに頬を掻いた伊織が昨晩の事情を説明した。
八重梅が洋装を仕立ててくれた事。
その洋装を自分には似合わぬと脱ぎ捨てた事。
最後に、美しい洋装ではあったがな、と付け足してから大きく息を漏らした。
「……まあ、そのような事情よ。機嫌も悪くなろうが」
おれが悪い、と言った伊織に、先程の八重梅とのやり取りを思い出した廉也は、くすりと笑みをこぼした。
「それは確かに伊織さんがよろしくありませんね」
「……そう言っておろうが」
「伊織さんの洋装ならば、是非、僕もお目に掛かりたかったものです」
残念そうに肩を落とす廉也に、伊織は溜息で応えた。
「似合わぬと言っておろうが。人様に見せるようなものではない」
「寸法は丁度良かったはずでしょう」
「そういう事ではない。丈が丁度良いのという話ではなくてだな……」
伊織はそこまで喋ってから、ふと気付いたように言葉を止めると、待てよ、と呟いた。
「……何故、寸法がどうのとお主が知っておる」
「何故と言われましても。あれはうちで取り寄せたものですから」
「……なんと。それは田島殿にも済まぬ事をした」
申し訳なさそうにそう言った伊織は、くしゃくしゃと髪の毛を弄ってから、苦々しげに、だがよ、と漏らした。
「存じておろうが、我が家は父上の残した財で暮らしておるだけの貧乏士族よ。おれに稼ぎはありはせぬ。あのような洋装を高値で売りつけられては困る」
そうは言っても、八重梅の貯えた金で買ったものなのだから、家に金が無い事も、自分に稼ぎが無い事も関係の無い話ではある。
それでも、そもそもが売りも買いもしなければ、こうも面倒な事にはならなかったというもの。お門違いとわかってはいたが、文句をこぼさずにはいられなかった。
ぶつぶつと唇を尖らせる伊織に、廉也は済まなそうにしながらも肩を竦めた。
「とは仰いますが、あれでも安くあがったのですよ」
「……嘘を申すな。おれは値段を聞いて飛び上がったぞ」
安い、などとは到底思えぬ額を聞かされていた伊織は、冗談であろう、と訝しむような目線を廉也にくれてやった。それでも彼は至って真面目な顔で、本当です、と言ってのけた。
「伊織さんの背格好は西洋のご婦人方に近いので品数が多いのです。取り寄せるにも値段の融通は利いた方です」
「それでもあれほど値が張るものか」
「それは、まあ。舶来品ですから」
「……そんなものかよ」
そう言って一応の納得を見せた伊織は、やはり商売人だな、と苦笑を漏らした。
「おれに稼ぎはないが、生きるにさして金はかからぬ。着物など八重梅が仕立てたもので十分に過ぎる。袖を通す機会もない洋装を買うも売るも気が知れぬ」
八重梅には返してくるように言ってある、と吐き捨てた伊織に、廉也は、まさか、と目を丸くさせた。
「折角、八重さんが用立てて下さったのです。大事に着たらいいではないですか」
廉也の言葉に苦虫を噛み潰したような顔を見せた伊織が、おれがかよ、と答えた。
「何の折に着ろと申す。洋装纏って木刀振り回せ、てかよ」
「ですから、夜会にいらっしゃったら良いのです」
「またそれかよ。着るも参るも似合わぬと申すに……」
くしゃくしゃと髪を弄って、うんざりしたように溜息を漏らした伊織は「何度誘われようと行かぬものは行かぬ」とそっぽを向いた。
廉也は口の端を緩ませると、伊織の、その横顔を見下ろした。
「そうであれば、再三お声をお掛けしますとも」
「ならば再三断るまでだ」
仏頂面を作った伊織を見て、廉也はぷっ、と吹き出すと、やがてもはや堪えきれないとばかりに笑い出した。
「おい、何が可笑しい」
そうは言いながら、伊織も目を細めて、くすくすと楽しげに笑みをこぼした。
「懲りぬ男と見るが、おれとて根負けしてやる義理も道理もない」
「それは僕も同じ事です」
やれやれと苦笑混じりに小さく首を振った伊織に、廉也が右手を差し出した。
「そろそろ失礼致しますが。また近々お誘いにあがります」
当たり前のように差し出された右手に、困り顔を作った伊織が掌を着物に擦り付ける。
「全く。苦手だと言うておろうが」
そう言って渋々ながらに手を伸ばし、指先だけで軽く握り返してやった。
昨日は彼に握られた手を清めんと拭った掌を、今日は握り返さんために拭ったのだ。申し訳程度の返礼といえど多少は気を許したのも伝わろうというものだった。
「満足かよ」
「勿論ですとも」
すぐに手を離し、そっぽを向いた伊織の頬がほんのりと朱に染まるのを見た廉也は、言葉の通り満足げに頷いてみせた。
「では、これで。八重さんにもよろしく」
そう言って屋敷を後にした廉也が、その姿が見えなくなるまでの道すがら、何度か振り向いて伊織に手を振ってみせるもので、伊織はその度に呆れ顔を作って「いいから早う行け」と苦笑しなければならなかった。
ようやく廉也の姿が見えなくなるまで見送った伊織は、ふう、と大きく溜息を吐いた。
先程握り返した慣れぬ感触に、手を握っては閉じ、握っては閉じさせながら、邸内へ向けて踵を返した。
「おい。戻ったぞ」
台所を覗き込んだ伊織が、食器を濯ぐ八重梅に声を掛ける。
八重梅は手を止めると、手拭いで濡れた手を拭きながら伊織に歩み寄った。
「お話が弾んだようで、ようございました。話し疲れたのではありませんか。お茶でも御用意致しますか」
「よい。稽古が遅れた。取り返さねばならぬ」
そう言い残して、伊織は台所を後にした。
昨日、八重梅に小言を食わされた手前、稽古するにも庭先で、というわけにはいかず道場へと足を向けた。
二人で暮らすには広すぎるとはいえ、武家屋敷としてはさほど大きいわけではない宇津木邸にあって、その道場だけは、高名な流派の剣術道場にも劣らぬ立派なものであった。
かつては門下を募って、多くの者が技を磨いていたのやもしれぬ。だが、伊織の知る限り、少なくとも父の代には、既にこの道場がその広さなりの用を為した事はない。
父の存命の頃には、二人、この場で稽古をしたものであったが、今や伊織一人が木刀の風切り音を響かせるのみ。
その音の響きの虚しさもまた、伊織の足をこの場所から遠ざける理由のひとつだった。
ただひたすらに木刀を振り、父から受け継いだ技をなぞった。一度たりとも見えた事の無い鬼を、父からの口伝を頼りに夢想する事で、眼前にさもその姿のあらんかのように相手取る。
それを虚しいと言わずして、なんと言おうか。
伊織がそんな雑念を振り払おうとすればするほどに、木刀は虚しく空を斬った。
「……児戯に過ぎぬ」
伊織は木刀を振るう手を止めて、そう吐き捨てた。
廉也から鬼騒動の噂を聞かされた時、その身が震えるのを感じた。
鬼を斬れるやもしれぬと、血の沸き立つのを感じた。
よくよく聞けば、それはただの与太話で、鬼の為した事ではなかったが。
真に鬼が出たとあらば、必ずや見え、確と斬ると固く心に決めている。
それでも技を磨く事に虚しさを覚えるのは、鬼などおらぬと思うが故でもなければ、その決意が虚勢に過ぎぬが故でもない。
磨き続けたこの技、果たして鬼に通ずるものか。
斬る、斬れる、と自らに言い聞かせたところで、鬼を見た事もない自分に、それが真に為せるものか。
鬼に喰われて命を落とす事が恐ろしいわけではない。
いや、それは恐ろしい事なのだろうが、本当に恐ろしい事に比べたら、そんなものは取るに足らぬ事。
本当に恐ろしいのは、最後の鬼狩りが鬼に殺された、と民草の笑い話になる事だ。
鬼狩りの血は、鬼に絶やされたのだ、と。
その汚名を一族に着せる事だ。
それが頭に過ぎる度、伊織は、斬れる、いや、斬る、とひたすらに木刀を振るってきた。
今、この時もそうだ。
固く握り直した木刀を、強く、疾く、鋭く振るった。
「……精が出てございますね」
背後から声を掛けられ、伊織は流れる汗を袖口で拭いながら振り返った。
「なんだ。いつからおった」
伊織は人の気配に敏い質ではあったが、稽古に熱を上げるあまりだろうか、八重梅の背後に立つ気配にはついぞ気付けなかった。己に喝を入れるように、ぴしゃりと自らの頬を張った。
八重梅はそんな伊織を見て、くすりと笑みをこぼすと、そっと歩み寄って手拭いを手渡してやった。
「暫し、見惚れておりました」
手拭いを受け取った伊織は、馬鹿を申すな、と苦笑を漏らしつつ、汗を拭った。
「何を今更、見惚れる事のあるものかよ。さっさと声を掛ければよかろうが」
「お邪魔になろうかと思いましてございます」
「ならぬ。お前を邪魔と思うた事などない」
八重梅は嬉しそうに眉尻を下げながら、ご冗談を、と照れ隠しのような笑みを浮かべた。
「八重梅がお小言を申しますと、いつも鬱陶しそうにしていらっしゃいます」
「茶化すな。本心で申しておる」
そう言った伊織は苦笑を交えながら、今日はすまなかった、と一言、詫びを入れた。
「急に客人を招くなどと、慣れぬ真似をするものではないな。迷惑を掛けた」
ばつの悪そうに鼻を擦った伊織に、八重梅は小さく首を横に振って応えた。
「迷惑な事などございませぬ。八重梅は嬉しゅうございました。若様がよもや、お客様をお連れになるなど。よもや、よもや、そのお相手が田島様などと……」
八重梅は感極まったように両手を握り、胸に宛がった。しみじみと、嬉しゅうございました、と繰り返す。
伊織は、よせよ、とまた苦笑を滲ませた。
「……なんだ。少し、その。機嫌が悪かったようだな」
伊織が遠慮がちにそう切り出すと、八重梅はすまなそうに目を伏せた。
「大変、失礼を致しました。若様にも、田島様にも……」
顔を伏せて謝罪の弁を述べる八重梅に、責めたわけではない、と頭を上げさせた。
「失礼というのなら、おれが外で待たせた事の方が尚更であるし。そもそも、おれは失礼などと思うておらぬ」
だがよ、と呟いた伊織が、訝しむというよりは解せぬといった表情を作ってみせた。
「何がそんなに気に食わなかったよ」
「何が……」
一言、そう呟いたきり、八重梅は次ぐ言葉に窮して俯いたままに視線を泳がせた。
「……鬼が未だ、この都に生きてのさばっているなどと。身命を賭して鬼を退治た旦那様、引いては先祖代々の御家の御歴々への侮辱にございましょう」
我慢がならなかったのです。
そう言った八重梅に、伊織は眉を顰めた。
「……それは真の言葉かよ」
「……八重梅は。八重梅は、若様に嘘を吐きませぬ」
八重梅は顔を上げて、伊織の眼をしかと見つめた。
暫し視線を交え、その目が真っ直ぐに逸れる事のない事を確かめた伊織は、そうか、と小さく呟いた。
「ならば、よい。何の気に病む事も無い。さあらば、父上も、御先祖方も、よう言うてくれたと喜ばれる事であろうよ」
「……恐縮にございます」
また頭を下げた八重梅に、伊織は小さく頷いて応える。
思い出したように、そうだ、と言って八重梅を見た。
「田島殿には会う機会があればよくよく謝っておけ。おれからも詫びは入れて、気にしておらぬとは申しておったがよ」
お前も筋は通せ、と言った伊織に、八重梅は気まずそうな表情を見せて、申し遅れましたが、と遠慮がちに口を開いた。
「お別れ際にお詫びさせて頂いてございます」
「ええ?」
「きちんと、仲直りしてございます」
八重梅が伊織を安心させてやるように、無理をしたような笑みを貼り付けてみせると、伊織は苦笑混じりに、全く、と呟いた。
「それならそうと早く言え」
そうと知っていれば、自分が昨晩に八重梅の機嫌を損ねたなどと、情けない話をせずに済んだものを、と内心で独り言ちた。
伊織は、それならよい、と頷くと、まだ何事か言いたげに視線を泳がせて押し黙った。
八重梅にもその気配は感じられたので、伊織が口を開くまで、ただ黙って次の言葉を待った。
静かな道場の中で、暫し静寂が流れた後、伊織が、なあ、と重い口を開いた。
「……もし、だぞ。もしも、だ。もし、もし鬼がいるとして、だがよ」
伊織が神妙な面持ちでそう切り出すと、柔らかかった八重梅の顔が、どきりと心の臓を跳ねさせたように真顔に変わった。
「……おれに鬼が斬れると思うか」
その言葉に目を見開いた八重梅は、何事か言わねばならぬ、と言葉を探した。まだその言葉も見つからぬうちに口を開きかけたが、伊織が直ぐに言葉を継いだ事で、八重梅は何も言う事が出来なかった。
「あのような話を聞かされて。鬼の仕業でないとわかってはいても。ついな、力が入ってしまう」
つつ、と木刀の腹に指を這わせた伊織が、ぽつぽつ、と静かに言葉を紡いだ。
「おれにはわからぬ。鬼狩りの一族などと息を巻いて、来たる日には必ず斬ると言いながら、この技、鬼を斬るに能うものか、皆目見当がつかぬ」
言葉を紡ぐうち、次第、次第に顔に弱気の色が浮かんでいく。それを見られるのを嫌った伊織が、八重梅に背を向けた。
「情けない。おれは鬼を見た事もない」
伊織は、背を向けたまま、八重梅に向き直る事なく、なあ、と声を掛けた。
「……斬れるかな、おれに。鬼が……」
背中を向けた伊織がやたらと小さく見えるのに、八重梅は直ぐに言葉を返してやる事が出来なかった。
二人の間を、耳に痛いほどの静寂が満たした頃、八重梅は静かに、一歩、二歩と歩を進めて伊織に歩み寄る。
その肩にそっと手を置いてから、優しく背中を抱いてやった。
「……斬れます」
斬れますとも、と同じ言葉を繰り返した八重梅に、伊織は、そうか、と絞り出すように答えを返した。
「……もう少し稽古していく。先に戻っておれ」
大きな八重梅の体が、するり、と離れる。
包み込まれた温かさが、すぐに寒さに冷えてしまいそうになるのを、木刀を振るって紛らわせた。
「……どうかお体、冷やしてしまいませぬよう」
「……おう」
八重梅が道場を離れるのを気配で察した伊織は、暫く無心で木刀を振るった。
風を切る音が、また道場に響く。
八重梅の言葉も、抱かれた背中の温かさも。
その空虚な風切りの音に価値を与えてくれたとは思えなかった。
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