第5話
明くる日、まだ陽も昇らぬ頃、伊織は目を覚ました。
いつもより早く布団から出ると、八重梅を起こさぬように足音を殺して廊下を歩き、外の蔵に向かった。
まだ夜も明けきらぬ中、真っ暗な蔵の中を蝋燭の仄かな灯りを頼りにごそごそと探し物をして回った。
あまり物を持たぬ伊織が自分の持ち物を蔵に仕舞っておく事はなく、蔵の中にある物の大半は彼女にとって馴染みの薄いものだった。
代々に亘って溜め込まれた物品の数々は、貴重な物なのか、ただ捨てきれぬから仕舞い込まれた物なのか、もはや判別は付かなかった。
ようやっとで一本の釣竿と仕掛けの入った小さな木箱を探り当てると、ふっ、と息を吹きかけて埃を払った。
伊織は釣竿を片手に、薄明の中を近場の清流まで足を伸ばした。
少しずつ顔を見せ始めた朝日が川面を照らし、きらきらと跳ね返った光が朝靄を浮かび上がらせる中、釣り糸を垂らす。
それは朝餉に魚でも釣って並べてやろう、という浅はかなご機嫌取りだったが、そうでもしなければばつが悪くて、昨日の今日で八重梅と顔を合わせられなかった。
釣り糸を垂れて暫くの時が経ったが、魚の一匹も掛からぬままに空が少しずつ白んでいく。
明るくなった川面に自分の姿が薄ぼんやりと映し出されるのを見た。
昨晩の鏡に映った洋装の女子と、今、川べりに胡座をかいた膝に頬杖を立て、つまらなそうに釣り糸を垂れる自分が同じ人間とは。
改めて思い浮かべても、到底信じられるものではなく、いっそ滑稽に思えた。
そうだ。滑稽極まりない。
川面に映る、この男女がおれではないか。
そのように育てられ、自分とて、男として振る舞う事、生きる事になんの疑問も抱かぬ。
剣の技をひとつ覚える度に、父上は次代の鬼狩りに相応しいと褒めそやした。八重梅とて、宇津木家は安泰にございます、などと宣った。
それを今更。
女のように振る舞えだの、言葉遣いがどうだの、挙句の果てには、けったくそ悪いひらひらとした女物の洋装を着ろだのと。
そのような事、知らぬ、存ぜぬ、出来ぬ事。
今更。
まこと、今更よ。
ならば、元より女として育てればよかったのだ。
刀の代わりに包丁でも持たせて、料理のひとつも覚えさせればよかった。
四季折々に柄物の着物を着せて、この身を飾ればよかった。
剣の技に、誇りなど持たさねばよかった。
されば今、この技、振るう機会の無い事を。
不甲斐ないなどと思う事もなかったものを。
好きに生きよ、とはよう申す。
誰もおれを好きに生かしておいてはくれぬのに。
伊織は、えいくそ、と余計な考えを振り払うように竿を振った。
魚など釣れる気配のないままに、辺りはすっかり明るくなって、朝も早くから川原に遊びに来た子供達が声を響かせる。声のする方に顔を向けると、伊織に気付いた顔見知りの子供達が駆け寄ってくるのが見えた。
「姉ちゃん、釣りしてんの?」
「……見ればわかろうがよ」
面倒臭さを隠そうともせずにそう吐き捨てる伊織にも構わず、口々に何が釣れるのか、などと矢継ぎ早に尋ねた子供達が、答えも待たずに魚籠の中を覗き込んだ。
「なんだい。何も釣れてやしないじゃないか」
「うるさい。まだ始めたばかりだ」
強がるにしても、始めたばかりと言い張るにはもう随分と時が経っていた。それでも、鬼狩りの当主が魚も釣れぬとあれば良い笑い物だと見栄を張った。
「朝っぱらから遊んでいて、八重さんに怒られないの?」
「遊んではおらぬ。こうして朝餉に魚でも釣ってやろうかと気を利かしておろうが」
伊織の言葉に、ふうん、と疑わしげな視線を送った子供は空を見上げると、日の高さを見上げた。
「もう朝ご飯の時間は過ぎているけれど」
「我が家の朝餉の時間をお前らにとやかく言われる筋合いがあるものかよ。ほれ、向こうへ行っておれ。気が散る」
鬱陶しそうに、しっ、しっ、と手を煽ると、子供達はつまらなそうに伊織から離れた。
やっと落ち着ける、と小さく息を漏らして竿を持ち直す。
その伊織の傍らに、一人の娘が未だその場を離れず、立ちつくしていた。
「どうした。お前も向こうへ行って遊んでおれ」
伊織がそう言っても娘はぐずぐずとその場を離れなかった。伊織は困ったように眉根を寄せて、もう一度、どうした、と尋ねた。
「なんだ。久しぶりに遊んで欲しいのか」
その娘は幼い頃からの馴染みで、伊織にとっては妹分のようなものだった。ここの所は顔を合わせる事も少なくなっていたが、少し前まではよく屋敷に遊びに来ており、その度に遊び相手を買ってやる事もあった。
伊織が微笑みかけてやると、娘は顔を伏せて目を逸らし、言いにくそうに口を開いた。
「……伊織ちゃん、穀潰しってなに?」
「なんだ、藪から棒に。そんな言葉を何処で聞いた」
「お母ちゃんが言うの。宇津木の跡継ぎは穀潰しだからあんまり遊んじゃいけません、って……」
娘の言葉に伊織は言葉を失った。
近所付き合いも碌にしないので、あまり良くは思われておらぬだろう、とは思っていたが。
まさか、そのような話を吹聴されていたとは露知らず。
妹のように面倒を見てやり、伊織ちゃん、伊織ちゃんと後をついて回っていた娘にそのような事を言わせては、頭を巡る思索もとっちらかって整理のつかない思いだった。
「それは、お前……」
なんと取り繕ったものか、と言い訳を考える自分にも嫌気がさしたが、まさか「穀潰しとは働きもせず、家の財を食い潰す者だ」などとは。
その通りだとしても、いや、その通りだと思っているからこそ、言えるものではなかった。
「……伊織ちゃんと遊んじゃ駄目なのかなあ」
返答に窮する伊織に、娘が小さく口を開く。
その淋しげな、切なげな表情に伊織は胸の痛む心持ちだった。
その表情が自分の不甲斐なきが故に生まれたものだと知れば、尚の事、胸が痛むというもの。
伊織はぎゅうっと表情を歪めて無理をしたような笑みを浮かべてみせると「何の駄目な事がある」と言ってみせた。
「ここの所、屋敷に顔を出さぬと思えば、そのような事情か。母のおらぬおれにはわからぬが、御母堂の申す事は、それは守らねばならぬのかもしれぬ。だが、お前が遊びに来たいと思うのなら、何時でも来たらよい。おれが穀潰しかどうかはわからぬが、家には八重梅がおる。あれは大変な働き者だ。八重梅を手本にすると申せば、御母堂も文句はなかろうよ」
伊織は今度は柔らかく、自然に頬を緩め、娘の頭にぽんと掌を乗せてやった。
「……お前の好きにせよ」
結局、穀潰しという言葉の意味など、有耶無耶にしたままに話を終わらせたが、うん、と頷いた娘の嬉しそうな表情を見ると、少しは気持ちの落ち着く思いがした。
「ほれ、早う行け。仲間外れにされるぞ」
伊織がそう言って背中を押してやると、娘は子供達の方へと駆けていった。その背中を見送ると、また川べりに腰を下ろして、つまらなそうに釣り糸を垂らした。
「……好きにせよ、とは。よう申すわ」
自分こそ、好きにせよ、と言われてもどうすればよいのかわからぬのに。
あの娘のように、好きにせよ、と言われて笑顔を浮かべる事が出来れば、どれほどよいか。
伊織は自嘲するように苦笑を漏らすと、やめだ、やめだ、と竿を上げて立ち上がった。
ふと、子供達の方に目をやると、川面に投げた石を跳ねさせて遊んでいるのが見えた。ぱしゃぱしゃと音を立て、石が跳ねるのを照り返しの眩しさに目を細めながら見つめた。
伊織は足元から平べったい石を見繕い、ひとつ手に取ると、子供達の方に歩を進めた。
「全く見ておれぬ。下手くそどもめ」
伊織は釣竿と魚籠を足元に置くと、手にした石を振りかぶって、低い姿勢から思いっきり放り投げた。
一回、二回、三回と跳ねた小石は次第に跳ねる間隔を小さくしながらも何度も川面を跳ね、もはや何度跳ねたのかわからなくなった頃、静かに川底へと沈んでいった。
ふん、と満足気に鼻を鳴らした伊織は、頭の中のもやもやした考えも諸共に川に投げ捨ててしまったように、少しは胸のすく思いがした。
子供達が、すごい、すごいと囃し立て、こつを教えてとねだるのを満更でもない顔で見やって「楽な道などあるものか」と答えた。
「日々の稽古があるのみよ。精進せよ」
偉そうにそんな事を宣い、釣り道具を拾い上げ、踵を返そうした伊織の背中に、聞き覚えのある男の声が掛かった。
「いや、上手いものですね」
伊織が振り返ると、見覚えのある背の高い青年がにこやかに手を叩いていた。
「田島殿……」
昨日、会ったばかりの者を忘れはするまいが、田島、何某と言ったか、下の名前は思い出せぬ。そもそも姓もあやふやで思わず口にしたその名も確かかわからぬ。
大体、この男、あれだけ悪態をつかれた相手によくもまあこのように軽々と話しかけられるものだ。
伊織は和やかな物腰の廉也に居心地の悪さすら覚えた。
「いや、良い朝だったもので、たまたま散歩に出ましてね。足を伸ばしてよかった。まさか伊織さんにお会い出来るとは」
廉也がそう言うと伊織は、やはり調子のいい男だ、と辟易する思いだった。付き合った事の無い類の男に、何と言葉を返してよいものか。返答に窮する伊織に構わず廉也は続けて口を開いた。
「伊織さんは水切り遊びがお好きなのですね」
くすりと笑みを漏らした廉也の言葉に、伊織は子供っぽいと言われたような気がして、ほんのりと頬を染めた。
「別に。好きだの嫌いだのとは言わぬ。幼い頃によく遊んだというだけの話よ」
そうですか、とまた笑みをこぼした廉也は、足元から小石を一つ拾い上げた。
「どれ。僕も久し振りにやってみましょうか」
勝手にしろ、とばかりに仏頂面を浮かべる伊織の横で、廉也が小石を放り投げた。
放たれた小石は川面を何度も跳ねて、跳ねて。
子供達がその勢いに、わっ、と歓声を上げる中を、自分に重さのある事を忘れたかのように川面を滑った。いけ、いけ、と子供達の送る声援に後押しされたかのように、小石は川を渡りきってしまった。
「やあ、随分飛んだな」
眩しそうに向こう岸に目をやった廉也の横顔を、伊織は忌々しげに見やった。
やはりこの男は好かぬ。
昨日といい、今日といい、横から出てきて自分のお株を奪われ、歯噛みする思いだった。
「僕も子供の頃にはよくこうして遊んだものです。懐かしい思いがしますね」
「上手いものだ。よほど時間を持て余していたと見える」
伊織は悔しさ紛れに嫌味を飛ばしたが、廉也は「いや、耳が痛いですね」と言ってまた笑みを浮かべた。伊織はそんな彼に、へらへらと笑ってばかりで締まりのない顔しか出来んのか、と言いたい気持ちを抑え込んだ。
そんな二人の間に小僧が一人、割って入ると廉也の袖を引っ張って「兄ちゃん、水切りを教えてよ」とせがんだ。
「僕より伊織さんに習うといい。伊織さんの方が投げ方が綺麗だよ」
廉也はそう言って小僧の頭を撫でると、同意を求めるように伊織に見やった。
伊織は、それで華を持たせたつもりかよ、と逆にへそを曲げて、ぷいと目を逸らす。
小僧はそんな伊織をちらりと見て不満げに唇を尖らせた。
「……穀潰しの姉ちゃんは教え方が厳しいもん」
小僧がぽそりと呟いた言葉を廉也は不思議そうに、穀潰し、と繰り返す。その横で伊織は、参ったと言わんばかりに手で顔を覆った。
なんと無様な。
よりにもよって、この男の前で穀潰しなどと呼ばれようとは。
返す言葉もなく佇む伊織に代わって、先程の馴染みの娘が小僧を、こら、と叱りつけると、その頭を小突いた。伊織を気遣うような目を向けた娘にひらひらと手を振ると、もうよい、と絞り出すように声を掛けた。
「……あまり叱ってやるな。間違った事を申したわけではない」
すっかり気を落とした伊織はもう一度、もうよい、と小さく言い残して背を向ける。廉也はその背中の丸まってしょげ返った様を見ると追いすがって、伊織さん、と声を掛けた。
「まだ何か御用か。おれはもう帰る」
伊織は仏頂面のままに魚籠を逆様にひっくり返して、魚も釣れぬしな、と言う。目の上に手で陰を作ると、眩しい朝日に溜息を漏らした。
「朝餉に魚を釣るつもりであったが。こうも日和は良いと申すに。どうも日が悪い」
ではな、と伊織がぶっきらぼうに振った手を廉也が、お待ちを、と咄嗟に掴む。
伊織は眉を顰めて「軽々に人の手を取るな」と吐き捨てると、流れるような手つきで廉也の手を解いて叩き落とした。
「いや、失礼しました。ですが、少々お時間を頂けませんか。よく釣れる場所を知っています」
「それなりに粘って釣れなかったものがそう簡単に釣れるものかよ」
「すぐに釣れますとも。任せて下さい」
自信たっぷりにそう言う廉也に伊織は怪訝な目を向けた。
それでも廉也が「八重さんに手土産を持って帰りましょう」と言うと、渋々ながら「わかった、わかった」と応じた。
「釣れなければすぐに帰るが。それでよいか」
「もちろんですとも。さあ、行きましょう」
廉也はそう言って伊織の手を引こうと差し出した手をすぐに引っ込めた。
「おっと。これは失礼しました」
苦笑混じりにそう謝ると、伊織は手を隠すように腕を組んで、ふん、と鼻を鳴らし「学びを得て頂けたようで何よりだ」と言った。
廉也は川辺まで歩くと、手頃な石をひっくり返して小さな川虫を捕まえて伊織の手にした竿の針先に刺してやった。
「さあ、あの辺りに投げてご覧なさい」
そう言って廉也は瀬になっている場所を指差す。伊織は眉を顰めて疑わしげな目線をくれると「あのような場所にか?」と尋ねた。
「あのように流れの速い場所に魚がいるものか。おれが魚ならもっと流れの緩やかな場所でのんびりとしていたい」
伊織の言葉に廉也は思わず、くすくすと笑みをこぼした。
「僕もそう思いますがね。人間と魚は随分違うようですよ」
物は試しです、と言った廉也に顔も向けず、伊織はぶっきらぼうに瀬に向けて竿を振った。浮きが速い流れに巻かれて、浮いたり沈んだりを繰り返すのをぼんやりと見ていると穣一郎が、伊織さん、と声を掛ける。
「どうして今、竿を上げなかったのです」
「む。何かあったか」
「魚が喰っていましたよ。浮きが沈んだでしょう」
「……流れに巻かれただけであろうが」
半信半疑で竿を上げると、確かに針先の川虫は無くなっていた。ほら、と言う廉也に「流れが速いから餌が落ちただけであろう」とぶっきらぼうに言った。
「今度は魚が喰ったら教えますよ。さあ、もう一度」
再び針先に川虫を刺してやり、伊織を促す。伊織が「もう次で終わるぞ」と言いながら竿を振ると、廉也は彼女の背に回り、竿を握った手を取った。
「お、おい! お主、何をしておる! やめよと申したであろうが!」
喚く伊織に構わず真剣な面持ちで浮きを見つめる廉也は「伊織さん、浮きをしっかりと見て」と伝えた。その目にはむくれ顔を作る伊織など目に入らぬようで、伊織も仕方なく流れに巻かれる浮きに目を向けた。
前を向いていても、すぐ背後に男のいる感覚に落ち着かず、自分の手を包む彼の手の生温い感触にも慣れなかった。
居心地の悪さに耐えかねて、もうよい、やめよう、と言おうとした矢先であった。竿を握る伊織の手を、廉也が鋭く振り上げた。
「ほら、掛かりましたよ」
そう言って伊織から離れた廉也がしなる竿を指差した。伊織は一瞬、廉也を見るとすぐに竿に魚の掛かった手応えを感じて前を向いた。
伊織は瀬の中を泳ぎ回る魚の手応えを竿のしなるに任せていなしながら、時折川面から跳ねる魚体に心を踊らせた。川縁にその見事な魚体が現れると、伊織は川縁に歩み寄って手を冷たい水で濡らし、慎重に魚を取り込んだ。濡れた手で掴んだ魚体の丸々とした見事な大きさと、何よりその美しく輝く銀色に思わず息を呑んだ。
「やあ、見事な寒バヤですね」
廉也はそう言って伊織に魚籠を差し出す。伊織は寒バヤの、その美しい魚体を傷付けぬよう、丁寧に針を外して魚籠に放り込んだ。魚籠には穣一郎が気を利かせたのであろう、いつの間にか熊笹の葉が敷かれており、濡れた葉の緑が殊更に魚体の銀色を煌めかせて美しく見えた。
「……食い出はありそうだが、食うにはちと勿体無い美しさだ」
魚籠の中に横たわる寒バヤに見惚れる伊織の隣で、廉也もまた魚籠を覗き込み、何を仰います、と言った。
「これほど立派な寒バヤは食してこそですよ」
暫しその魚体を眺めていた伊織は、やがて名残惜しそうに、うむ、と頷くと「……そうであろうな」と顔を上げた。
「八重梅にも食わせてやりたい。あれは魚が好きだから」
伊織は二匹目の寒バヤを狙って川縁に歩を進める。その後に廉也が続くのを、慌てて手を上げて制した。
「こ、此度は一人で釣る! 手は握らずともよい!」
その慌てぶりに廉也はまた笑みを浮かべて「元よりそのつもりですとも」と答えた。
伊織は「……そうか」と呟くと、ばつが悪そうに頬を掻いた。
「おれは他人付き合いが苦手だから。どうも言葉の選びようがわからぬが……」
そう言って伊織は照れくさそうに目を逸らし、ぽそりと呟くように口を開いた。
「先程の事。ありがたい事はありがたかった。おれ一人では魚など釣れなかったしな。だから……」
もごもごと口篭りながら言いにくそうに「礼は言う」と呟き、廉也の返事も聞かずにそそくさと竿を振った。
決まりの悪そうな顔を浮かべていた伊織が川面に向き直るや真剣な面持ちで浮きの動きを見やる。
いつもの仏頂面とは似て非なる真剣なその表情に、廉也には彼女の生まれ育ちが確かに武芸の家の者であると合点のいく思いがした。
伊織はその横顔を見つめられている事など気にも留めず、流れに巻かれる浮きを睨め付ける。
廉也の目に映る伊織の眉がほんの少し動くや、伊織は鋭く竿を振り上げた。
「おお、上手くいった」
手に魚の重さの乗った感触を覚えた伊織は、さして驚いた様子もなく、当たり前のように竿を操った。先程まで魚の釣り方を知らなかったとは思えぬ手捌きで魚を手繰り寄せる。その堂に入った竿を捌く様に、穣一郎は思わず息を漏らした。
「驚いた。今の当たりがよくわかりましたね」
よくもあの速い流れの中で浮きの動きを見切ったものだと感服する思いで賛辞を述べる。
「そうか。さして難しいとは思わなかったが」
廉也の言葉を世辞の類とは思わなかったが、教わった事を繰り返したまで、と当然のように釣り上げた魚を魚籠に放り込んだ。
「いや、いや。そう簡単な事ではありませんよ」
「ならば教え方がよかったのであろうよ」
魚を釣り上げた伊織よりも、廉也の方が興奮冷めやらぬ様子であった。当の伊織は何処吹く風で、何事か考え込むように魚籠の中の二尾の魚を覗き込んだ。
伊織が見栄を張ってさも事もなさげに振る舞っているわけでもないと見るや、廉也はその才にいっそ苦笑を禁じえぬ思いがした。
なるほど、かつての武士は武芸に通ずるとして釣りを嗜んだというが、伊織の才を見るにその話もあながち与太話ではないと思えた。
廉也がそう伝えると、伊織は困ったように「ただの手慰みであろうが」で言った。
「このような事で武芸の足しになるのならば世話は無い」
片腹痛いとばかりに苦笑を漏らした伊織は「もう一匹釣って帰ろう」と言い、廉也に向き直った。
「田島殿の分が要る。世話になった故に礼をせねばなるまい。是非、朝餉を食っていかれるがよい」
伊織からのよもやの申し出に廉也は一時、目を丸くさせると、すぐにいつも通りの微笑みを返して「ご迷惑でなければ、是非にも」と答えた。
伊織はその返事に頷きを返すと、満足気にふわり、柔らかな笑みをこぼした。
ああ、この人はこういう顔で笑うのか。
廉也はこの朝の僅かな間にころころと変わる伊織の表情を目にした。
この人には笑った顔が一等よく似合う。
無心に釣竿を振るう伊織の口元は、未だ僅かに緩んでいた。
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