第3話「誓約の夜」

朝日が東の空から昇り、柔らかな陽光が村を照らした。朝露が草木に宿り、空気は冷たく、しかし清々しい。


村の広場では、焚き火の残り香が漂う中、エスペラと子供たちが朝食を取っていた。


リリアが作った温かい粥と焼きたてのパン。子供たちが嬉しそうに食べている。昨夜、仮面の下で怯えていた表情は消え、今は子供らしい笑顔が戻っている。


エスペラは子供たちの様子を見守りながら、柔らかく微笑んでいた。


桜は広場に近づいた。


昨夜、命を懸けて守った子供たち。あの子たちは今、どうしているだろうか。朝食はきちんと取れているだろうか。昨夜の恐怖は癒えただろうか。


気がつけば、桜の足は自然と広場へ向かっていた。


朝の光を浴びて歩く桜の姿を、狛犬の仮面を斜めに被った小さい女の子が見つけた。


「あ~!侍のお姉ちゃんだ~!!」


無邪気な声。昨夜の恐怖を感じさせない、子供らしい明るさ。


女の子が桜に駆け寄ってきた。


桜はしゃがみ込み、女の子の頭を優しく撫でた。


(この子も、昨夜は怯えていたのだろう)


桜の心が少し温かくなった。


「おはよう」

「おはよう!お姉ちゃん、ご飯食べる?」


桜は微笑んだ。


「ああ、ありがとう」


エスペラが桜に気づき、立ち上がった。


「おはようございます、桜さん」

「おはようございます、エスペラ様」


鬼の仮面を被っていたリーダー格の少年が頭を下げた。痩せこけているが、真摯な目をした15歳の少年だ。


「おはようございます」


桜は微笑んだ。


「元気そうだな」

「はい。リリアさんの料理、とても美味しいです」


少年の目が少し潤んだ。温かい食事、安全な場所、優しい言葉──この子たちが長い間求めていたものだ。


小さい女の子が桜の袖を引っ張った。


「お姉ちゃんも食べて!」

「ああ、いただこう」


桜も一緒に朝食を取った。温かい粥が体に染み渡った。


◆ ◆ ◆


食事が終わり、子供たちが少し離れた場所で遊んでいた。笑い声が広場に響く。昨夜の緊張が嘘のような、平和な光景。


エスペラは子供たちを見つめていた。その表情に、迷いと責任感が浮かんでいる。


エスペラが桜に小声で話しかけてきた。


「桜さん、少し相談があります」

「何でしょうか。」

「この子たちを、保護してくれる方はいらっしゃらないでしょうか。このまま王国に連れて行くこともできません。」


エスペラの表情は真剣だ。


(この方は、本当に彼らのことを考えているのだろう)


桜は少し考えた。


(この子たちに必要なのは、居場所と導いてくれる大人だ)


「我に、良い案があります」

「聞かせてください」

「我の師匠の道場に、住み込んでもらうというのはいかがでしょう」

「師匠の...?」

「師匠は、その、だらしのない方でして。道場の掃除や食事の用意など、お世話してくれる者が必要なのです」


桜は少し苦笑した。


「それに、道場には我以外に門下生がおりません。閑古鳥が鳴いている状態で」

「それは...」

「この子たちが住み込めば、師匠の世話もできますし、何より、この子たちも剣を学び、自分の身を守る力を得られます」


桜の表情が真剣になった。


「二度と、誰かに怯えることのないように」


エスペラは目を見開き、そして微笑んだ。


「素晴らしい案ですね。しかし、桜さんのお師匠様が、お許ししてくれるでしょうか?」


桜は微笑んだ。


「大丈夫です。師匠は、なんだかんだ言って、誰よりも人情に熱い男ですから」


桜は師匠の顔を思い浮かべた。だらしなく、酒好きで、口は悪い。しかし、困っている者を見捨てられない。誰よりも優しく、誰よりも強い。そんな男だ。


◆ ◆ ◆


桜、エスペラ、子供たちが一緒に道場へ向かった。


道の途中、子供たちは緊張していた。これから預けられる場所。新しい生活が始まる場所。


桜は子供たちを励ますように声をかけた。


「師匠は、見た目は怖いかもしれない。でも、良い人だ。安心しろ」


リーダーの少年が答えた。その声は少し震えている。


「...はい」


師匠・紅葉影虎が道場の前で腕を組んで待っていた。がっしりとした体格、鋭い目つき、口元には無精髭。


子供たちが一歩後ろに下がった。影虎の迫力に気圧されているのだろう。


「よう、桜。こいつらは...?」


桜は深呼吸をした。


「師匠、単刀直入にお願いします。この子たちを預かっていただけませんか」


影虎の眉が跳ね上がった。


「はあ?ガキ7人も預かれだと?」


案の定、渋い顔だ。


エスペラが一歩前に出た。その動きは優雅で、気品がある。


「初めまして。私はエスペラ・ソルレグと申します。ソルレグ王国の第3王女です」


影虎の目が少し見開かれた。さすがの影虎も、王女の来訪には驚いたようだ。


「ほう、王女様か。わざわざこんなボロ道場まで」


エスペラは丁寧に頭を下げた。その姿に、影虎の表情が少し和らいだ。


「この子たちは、事情があって、行き場を失いました。お師匠様の下で、生きる術を学ばせていただけないでしょうか」


影虎は腕を組んだまま、沈黙した。


(師匠...)


桜は影虎の顔を見つめた。


だが、影虎はまだ渋っていた。


「王女様の頼みとはいえ、ガキ7人の面倒は大変だぞ」


桜が続けた。ここは自分が説得しなければ。


「師匠は、その、だらしのない方ですから。道場の掃除や食事の用意など、手伝ってもらえれば助かるかと」


影虎が睨んできた。


「おい」


桜は構わず続けた。


「それに、道場には我以外に門下生がおりません。この子たちが剣を学べば、道場も少しは賑やかになります」


影虎は唸るような声を出した。


「...」


そこへリーダーの少年が前に出て、土下座をした。


「お願いします!僕たち、何でもやります!掃除も、薪割りも、料理も!どうか、置いてください!」


少年の声は震えている。必死さが伝わってくる。


他の子供たちも頭を下げた。小さい女の子も、必死に頭を下げている。


影虎は困った顔をした。だが、その目は優しい。


桜は知っていた。影虎は、もう心を決めたのだ。


「ったく、わかったよ。根負けだ」


桜の胸に安堵が広がった。


リーダーの少年が顔を上げた。その目には涙が浮かんでいる。


「ありがとうございます!」


影虎は照れくさそうに頭を掻いた。


「その代わり、きちんと働けよ。それと、俺の弟子になるなら、剣の稽古は厳しいぞ」


「はい!」


◆ ◆ ◆


影虎が渋々承諾した後、桜が子供たちを集めた。


「では、道場の管理方法と、師匠の取扱について説明する」


リーダーの少年が首を傾げた。


「取り扱い...?」


桜は真面目な顔で言った。


「其の壱、師匠は朝が弱い。無理に起こすな。だが昼まで寝ていたら叩き起こすこと」

「其の弐、師匠は身だしなみに頓着はないが、綺麗好きだ。隅々まで掃除しておかないと拗ねることがある」

「其の参、師匠は酒が好きだ。だが、飲み過ぎたら止めろ。と言っても止めるような性格でないので必要量以外は蔵に隠しておけ」


「そして、師匠は口は悪くぶっきらぼうな性格だが、性根は優しい。怒られても、気にするな」


リーダーの少年は笑った。


「わかりました」


遠くで影虎が聞いていた。


「おい、聞こえてるぞ。師匠を何だと思っている」

「聞こえるように言っています。これを機に改めるのも良いのでは?」

「ったく」


影虎も内心笑っていた。


桜は子供たちに最後の言葉をかけた。


「これからの生活も大変かもしれないが、頑張ってな」


リーダーの少年が頭を下げた。


「ありがとうございました。命を助けてくれて」


副リーダーの少年も、幼い少女たちも、皆が頭を下げた。


桜は微笑んだ。


「顔を上げろ。お前たちは、もう野盗じゃない。これからは、堂々と生きろ。それが一番大事だ」


子供たちは頷いた。


幼い少女の一人が、泣きながら桜に駆け寄った。


「侍のお姉ちゃん、ありがとう!」


桜はしゃがみ込み、少女の頭を撫でた。


◆ ◆ ◆


子供たちの引き継ぎが終わった後、桜がエスペラを道場の奥の部屋に案内した。


「こちらで話をしましょう。落ち着いて話せます」


静かな一室。畳の部屋で、掛け軸が飾られている。


エスペラと桜が向かい合って座った。


「申し訳ございません。王女様を床に座らせてしまい」


エスペラは微笑んだ。


「気にしないでください。こういうのも新鮮で良いものです」

「恐縮です」

「では、桜さん。昨夜の続きをお話ししましょう」

「はい」

「まず、ソルレグ王国の現状についてですが」


エスペラの表情が少し曇った。


「今、王国は腐敗しています。私の姉である第1王女は貴族と結託し、国王である父上を傀儡にして実権を握っています。民は重税に苦しみ、貧しい者は見捨てられています」

「...」

「私は腐敗を正し、力強く国民が安心して暮らせる王国を取り戻したいと考えております。しかし周囲からは無能な第3王女と蔑まれている状況です。その評価は間違いではなく、私には政治構造に入り込む力もなく、味方も多くありません。だからこそ、桜さんのような真の強さを持っている方が必要なのです」


桜は真剣な表情で聞いていた。


「そして、桜さんの一族、ルナガルド家について」


エスペラは古い日記を取り出した。


「これは先王、数世代前の王が残した日記です」


桜は驚いた。


(先王...!)


エスペラが日記を開いた。


「ここに、ルナガルド家のことが記されています」


エスペラが日記を読み上げた。


「『ルナガルド家は我が王家を支える忠臣。魔族討伐の任を受け、誇り高く戦場へ向かった』」


「『報告では、魔族の数は百程度。ルナガルド家の精鋭ならば、容易に討伐できるはずだった』」


「『しかし、実際には、その数倍の魔族が待ち受けていた』」


桜は息を呑んだ。


「『後に判明したことだが、貴族の誰かが、誤った戦力報告を流していた。意図的に、ルナガルド家を罠に嵌めるために』」


(何...?)


「『ルナガルド家当主は致命傷を負いながらも、部下たちを逃がし、最後まで戦い抜いた。その勇気と忠誠は、誰よりも尊いものだった』」


「『だが、貴族たちは言った。「ルナガルド家が作戦を誤った」「無能な指揮で兵を失った」「王家の恥だ」と』」


桜の拳が、無意識に握られた。


「『私は、その時、真実を見抜けなかった。貴族の謀略を見抜けず、ルナガルド家を窮地に追いやってしまった。そして、貴族たちの声を抑えることもできなかった』」


「『結果、ルナガルド家は追放された。重傷を負った当主は、家族と共に東国へ去った』」


「『私は、王として、あまりにも無力だった』」


「『せめてもの償いとして、王家の剣を密かに下賜した。この剣が、いつか彼らの誇りを取り戻す証となることを願う。いつか、彼らの正義を取り戻す日まで』」


エスペラは一度、日記から目を上げ、桜を見た。そして再び日記に目を落とした。


「そして最後に、こう記されています」


「『我が子孫よ、ルナガルド家の末裔を探せ。彼らと共に、真の王国を取り戻せ。これは、我が償いきれなかった罪への、唯一の贖罪だ』と」


エスペラは静かに日記を閉じた。


桜は言葉を失った。拳を強く握りしめた。


(我が一族は...ソルレグ王国の忠臣だった)


(それが貴族の嫉妬で...陥れられた)


(これが...真実)


桜の胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。今まで知らなかった一族の誇り。今まで知らなかった一族の無念。


目頭が熱くなった。


桜は深く息を吐き、顔を上げた。


「我が一族は、王家に仕える忠臣だったのですね」


声が震えている。


「ずっと、知りませんでした。ただ追放されたとしか」

「私は、先王の遺言を果たしたいのです。あなたと共に、王国を取り戻したい」


桜は静かに頷いた。その目には、強い決意が宿っている。


「エスペラ様」

「もし可能なら、先王から下賜されたという剣を見せていただけますか?」

「はい。我が一族の墓に供えてあります。ご案内いたします」

「ありがとうございます」


◆ ◆ ◆


夕暮れ時。太陽が沈み、月が昇り始めた。


「エスペラ様、こちらです」


桜が先祖の墓の前に立った。


墓には、王家のレイピアが供えられている。


桜はレイピアを手に取った。


月明かりが刀身を照らす。刀身に刻まれた言葉が、光の中に浮かび上がった。


「月の守護者ルナガルドへ - 我が想いと共にあれ」


エスペラは息を呑んだ。


「間違いありません」


エスペラは王家の紋章を確認した。


「これは、確かに王家紋章です」

「我が一族は、代々、この剣を大切に守ってまいりました」


エスペラは深く息を吐いた。そして、まっすぐに桜の目を見つめた。


「守月桜さん、いえ、サクラ・ルナガルド」


その瞳には、強い意志が宿っている。


「私は、王国を取り戻します。腐敗を正し、民を救い、真の王国を築きます」


桜は息を呑んだ。


「そのために、あなたの力が必要です。どうか、私の騎士となってください」


エスペラの声には、迷いがない。王女としての、いや、未来の女王としての決意。


桜は静かに頷いた。


「承知いたしました」


短い言葉。だが、その声には確固たる決意が込められている。侍らしい、簡潔で力強い承諾。


「ありがとう、桜さん」


二人は、まっすぐに互いを見つめ合った。対等な、信頼し合う関係。


月明かりが二人を照らした。


桜は片膝をついた。


「我、守月桜。エスペラ・ソルレグ様に誓います」

「命に代えても、エスペラ様をお守りします」

「月の守護者ルナガルドの名にかけて」


桜の声は静かだが、力強い。


「ありがとう、桜さん。これから、共に歩みましょう」


エスペラが右手を差し出した。


桜はすぐにその意味を理解した。


(これは主従ではなく、対等な誓約の証)


桜は立ち上がり、右手を差し出した。


二人の手が固く握られた。月明かりの下、誓約が交わされた瞬間。


桜の胸に、温かいものが込み上げた。


(これが...使命か)

(我は、この方のために刀を振るう)


月が二人を祝福するように、優しく輝いていた。


【第3話終了──第4話に続く】

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