(15)初デートと夜の事故-前編


 土曜日の朝、目覚ましが鳴るより先に目が覚めた。


 薄い雲を透かした光がカーテンの隙間を割り、白い線が床を撫でている。


 布団から出て立ち上がると、息を吸うたびに冷たさが喉を抜けた。


 階段を降りて洗面所へ向かい、冷たい水で顔を洗う。鏡の中の自分は普段通りのはずなのに、どこか落ち着かない。


 身支度を終えて玄関へ行くと、黒羽が既に待っていた。


 アイスブルーのロングコートに、黒のショルダーバッグ。襟元からは小さく畳んだマフラーが覗いている。

 その下には白のハイネックニットとネイビーのプリーツスカート。普段の制服と色味は近いが、やはり黒羽にはこの配色もよく似合う。

 髪はいつものツインテールだが、巻きがいつもより丁寧で、全体にわずかな弾みがある。


 互いに言葉を交わさぬまま靴を履き、玄関の扉を開けた。冷たい外気が家の中に流れ込み、吐く息が空気に白く揺れる。


 外に出て歩き出すと、足並みは自然に揃っていた。



(♡♥)



 停留所までの道は短い。冬枯れの並木を抜けると、タイミングよくバスが滑り込んできた。

 乗り込んでから十数秒後、ドアが閉まり、足元には冷気が残る。


 俺は黒羽を窓側に寄せ、手すりを握って外側から囲うように立った。

 人の出入りが多く、車体の揺れも強い。こうしていないと、どうしても落ち着かない。


(お、お兄さん……っ!? いきなりこんなに近づかれたら私の心臓が……!! ……あ、これってもしかして守ってくれてるの……?? 嬉しいし素敵すぎる、けど、近いっ近いよぉ……っ!! 私の心臓の音聞こえちゃったらどうしよ!! ……うぅ、このままじゃお買い物が始まる前に私がしんじゃう……♡)


 バスが動き出すと、吊り革が小さく揺れ、エンジンの低い唸りが床を伝って足先に響いた。


 黒羽は視線を落としたまま、肩を竦めるように小さく息を呑む。車体が曲がるたび、袖と袖がわずかに擦れた。

 窓に映る横顔は無表情のままだが、耳たぶの先だけが、寒さのせいかほんのり赤いように見えた。



 バスを降りてデパートに入ると、館内の暖気と食べ物の甘い香りが顔に当たる。


 自動ドアの向こうは外とは別の時間が流れているように静かで、人熱ひといきれと照明の反射が柔らかく混ざり合っている。


 正面の案内板で服飾フロアの階を確認し、エスカレーターへ向かう。

 上りの途中、吹き抜けの広場に飾られた少し早めの季節装飾が視界を掠めた。


 上りきった先のフロアには、十代向けのレディース店が並んでいる。

 暖色の照明が適度に明るく、ガラス越しには落ち着いた雰囲気の服が整然と並ぶ。


 その中から、黒羽に似合いそうな店を選び、足を止めた。

 入口のガラス越しには、厚手のコートやセーターが肩を寄せ合うように掛けられている。

 金属のハンガーが触れ合う音が時折混じり、奥では暖房の風が微かに揺らいでいる。


「ここはどうだ?」


 黒羽はガラス越しに店内を覗き込み、並べられた服を一望する。

 白い照明が反射して、瞳の奥が一瞬だけ明るく見えた。


「……うん。可愛い」


 短い返事のあと、彼女は少しだけ柔らかい表情になって視線を落とす。

 気に入る店が見つかっただけでも、十分に幸先がいい。


「何でも、好きなの選んでいいからな。こんな機会も中々ないんだし」


「……ん。ありがとう」


 黒羽は小さく頷き、ショルダーバッグを持ち直して店の中へ入った。


 思っていたよりも広い店内を、黒羽がゆっくりと歩いていく。

 並んだハンガーの間で立ち止まり、一着ずつ引き上げてから指先で軽く生地を確かめるのを繰り返す。


 その様子を見ながら、自然に考える。


 制服の印象が強いせいで忘れがちだが、黒羽はどんな服を着ても雰囲気が崩れない。それほどに、本人の造形が完成されている。

 細い肩は少し落ち気味で、動くたびに髪がその上を滑らかに滑る。胸は控えめだが、それがかえって全体の線をすっきりと見せる。

 先だけがわずかに色を抜いた髪は光を受けるたびに淡く煌めいて、儚さをより一層際立たせる。

 顔立ちの静けさも相まって、派手なものより落ち着いた服の方が似合うだろう。


「これとかどうだ?」


「……兄さんが選んで。全部試すから」


 その言葉に少し考えてから頷く。


 ラックからいくつかの服を選んでカゴに入れていく。

 これでは完全に俺の好み一色になってしまうが……元々「俺が選んだ服をプレゼントする」という話だったのだから、それは仕方ない。


 一着目は、薄いライトベージュのリブニット。柔らかい陰影が白い肌に溶け込み、黒羽の冷たくも静かな印象を損なわないだろう。

 もう一着は、くすみブルーのギャザーブラウス。黒髪の深みとよく馴染み、光が当たれば自然と視線を引き寄せるはずだ。

 下には、膝下丈の黒のフレアスカート。歩くたびに揺れが控えめに出て、黒羽の清楚さをそのまま残せる。


 ……少しだけ季節感を足すなら、これらにアイボリーのファーブルゾンを重ねてみるのもいいかもしれない。淡色であればむしろ黒羽の肌の白さを際立たせるだろう。

 ファー素材といっても毛皮の膨れ具合は最小限で、10代向けの志向に合わせた少女らしいスタイルに収まっている。


 俺はここでふと、あることに気付いた。


(……自然と露出が低い服だけを選んだな、俺。過保護もいいところだ)


 「視線が集まる」などと言いながら、無意識のうちに他人の視線を遠ざけようとしていた。

 その矛盾に小さく苦笑して、黒羽に声を掛ける。


「どうだ? いくつか良さそうなのを見繕ってみたけど」


「……うん、可愛い。試してみるから待ってて」


 黒羽はカゴを受け取ると、それを胸の前で抱え直し、試着室へ入っていった。

 カーテンの布が静かに揺れ、金具が小さくぶつかる音が一度だけ鳴る。



 中で衣擦れの音だけが静かに響いて、しばらくの後。

 カーテンが、わずかに開いた。


 布の隙間から、鏡の光を反射させた彼女の姿が現れる。


 最初はベージュのニット。スカートは、まだ家を出た時のままだ。


 一度服だけに視線を送った後、改めて全体像を眺める。


 袖口から覗く手首が細く、編み目の陰影が白い肌に柔らかく映っていた。


 ベージュの生地が体の線に沿って呼吸するように寄り添い、素材の静けさと彼女の静けさがそのまま重なる。


 胸元は過剰な膨らみがなく、余計な主張のない分だけ全体の輪郭がきれいに整って見える。


 ……思わず、言葉が出るよりも先に視線が留まる。そのまま視線を逸らすことができず、しばらく見つめたまま立ち尽くしていた。


(あうぅぅ……お兄さんの視線が刺さってて心臓はちきれそうだよぉ……♡見られすぎて息が苦しくなってきた……♡うぅ、でも見てほしいの……♡お兄さん、もっと私のこと見て……♡)


「――うん、やっぱり似合ってる」


「……!」


 返事はなく、けれどわずかに肩が持ち上がって――黒羽はすぐに、〝シャッ〟と勢いよくカーテンを閉めた。


 中からまた、脱ぐ音と布の擦れる音が聞こえる。

 金具が軽く触れて揺れ、沈黙が少しだけ長く続いた。



 ――再びカーテンが開いた。


 二着目は、ブルーのブラウスだった。袖口に小さなギャザーが寄っていて、光の角度で淡く艶が浮かぶ。

 黒羽は姿勢を整えるように動いてから、こちらに視線を向けた。


 今度はさっきよりも落ち着いた印象で、肩の線がきれいに出ている。

 布の張りが体の線に沿って滑らかに落ち、呼吸に合わせてわずかに膨らんでは戻る。


 無意識のうちに目を奪われたが、黒羽は視線を合わせようとしない。

 視界の端で一瞬だけ俺の方を――まあ要は〝チラ見〟をして、すぐに顔を伏せてしまう。


(うぅ、こんな綺麗で大人っぽい服、私に似合うわけないのに……♡お兄さんの視線が熱い……♡♡そわそわしちゃうのに、見られるのが嬉しくて仕方ない……♡♡感想聞きたいけど聞けるわけないよぉ……♡)


 黒羽は指先を胸元で合わせたり、布地を整えるように繰り返し触れたり、何やらもじもじとしている。 


 きっと、普段着ないような服だから落ち着かないのだろう。


 しかし、慣れないからといって買わないのは勿体ないほどに、色味も形も彼女と調和している。


「うん、これもいいな。黒羽の雰囲気によく合ってる」


「……っ、……そう」


 黒羽は一瞬だけ目を見開いて、それからまた視線を落とした。

 それだけの動作なのに、呼吸の間が少し長く感じられる。


 黒羽は小さく会釈だけして、もう一度カーテンの内側へ消えた。


 中でスカートの留め具を外す音、布擦れの音、ハンガーから布が抜ける音が順に重なる。



 カーテンが、静かに開いた。


 最初に目に入ったのは黒のフレアスカート。色が最高に合っているのはもちろん、少女らしい膝丈の裾が黒羽の落ち着いた雰囲気にマッチしていて、黒羽の少女らしさの部分を強調している。


 上は最初のベージュのリブニット。襟元は詰まり過ぎず、鎖骨がわずかに見える程度だが、全体が隠れている分、自然にそこへ目が行く。


 最後に、アイボリーのファーブルゾン。首周りをふわりと囲うもこもこの生地が、黒羽の顔の小ささと、冷たくも愛らしい灰桃色の瞳を引き立たせて――


「――めちゃくちゃ可愛いな」


 それを抑えるための思考よりも先に、正直すぎる感想が口から漏れていた。


「……っ!?!?」


 再びカーテンが〝シャッ!!〟と強く閉められる。

 気のせいだろうか、さっきよりもさらに力強いのは。


(っ~~~!! か、かっ、かわっ……かわいいって言われた!!! 可愛いって言われたいま!!! えええっ!? 可愛いって思ってくれたの!? しかも着たあとに言うってことは服じゃなくて私のことだよねこれ!? ってことは脈ありですか!?!? もしかして脈ありなんですか!?!? 脈ありだって分かったら告白するからおねがい彼女にして……♡♡あっ雪透さんまだ私のこと見てるかっこいい♡あああけどはずかしいよおぉやっぱ告白まだまだ無理かも……っ♡)

(……あっしかも可愛いって言われるの二回目では……?? そうだよねまだ頭に手置かれた感覚残ってるから夢じゃないもん……♡あぁ……また雪透さんに可愛いって言ってもらえちゃった……♡♡っはぁ、はぁ……♡もうだめわたししんじゃう……♡でも、しあわせ…………♡♡♡)


 黒羽が出てくるのを待ちながら、思う。


 ……正直、さっきは息が止まるかと思った。


 最後に選んだブルゾンは大正解だったと我ながら思う。


 客観的なことは知らないが、俺にとっては、黒羽には〝可愛い〟の方がよく似合う。


 黒羽はカーテンを閉めてから、しばらく動かなかった。

 中で小さく息を吐く音がした後、そのまま、何も言わずにまた着替えが始まった。

 金具の触れる音が少しして、静かに幕が開く。


 着替え終えた黒羽は、カゴを大事そうに抱えていた。


(はぁあ嬉しい……♡お兄さんに何回も似合ってるって言われちゃった♡こんなに幸せでいいの……? 私ちゃんと雪透さんと並んでも恥ずかしくない女の子になれてるかな……?♡)


「よし、全部買おうか」


「……!? ……いいの?」


「ああ、言ったろ、俺が新しい私服を見たくて選んだんだよ。……それに今日は特別なんだから、黒羽が気に入ったのなら全部持って帰るべきだ」


「…………うん、ありがとう……」


 黒羽は言葉を飲み込むように小さく頷く。唇の端が、わずかに揺れた。

 その仕草に、胸のあたりが少しだけ温かくなる。


 会計を済ませたあと、デパートのカフェに寄る。

 店内は夕方のざわめきが少し落ち着いていて、窓の向こうで光が傾きはじめていた。

 服を選ぶだけでもかなりの時間が経っていて、時計を見るともう十六時を回っている。


(……三着だけで、どれだけ見てたんだ俺は)


 黒羽は熱いココアを両手で包み、縁に口を寄せる。


 購入した服の袋は、地面に置かずに黒羽の膝上で抱きかかえられている。……さっきよりも、もっと大切そうに。


 湯気に遮られて表情は見えにくいが、頬のあたりがわずかに色づいて見えた。指先は白く、カップの影で微かに震えている。


 ふと思いついて、テーブルの隅に置かれた紙袋を指さす。


「……今日は、そのままそれ着て帰るか?」


 黒羽が瞬きをする。少し間を置いて、小さく首を傾げた。


「……いいの?」


「もちろん。プレゼントなんだから」


 短い言葉のあと、黒羽は袋を持ち直し、少しだけコートの前を押さえて視線を下げる。

 立ち上がるとき、黒羽が脱いだコートを俺が受け取った。

 袖を通しながらも、黒羽が俺の腕を見て口を開く。


「あの、お兄さん、それ……」


「ああ、帰るまで俺が持ってるよ」


「っ……ありが、とう……」


(ええっ!? お兄さんが私のコート持ってくれるの!? 私が今日一日着てた服を!? 絶対私の匂い着いちゃってるのに……っ!! お、お兄さんに私の匂い嗅がれちゃうなんて……♡♡っきゃああお兄さんのえっちーー!!)


 黒羽は慌てて顔を逸らすが、耳の先だけほんのり赤い。

 それを気にも留めず、俺は腕にコートを掛けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る