(09)兄バカと○○な妹
――氷川雪透は、兄バカだった。
義妹を見ていると、何もなくてもいらない心配をしてしまう。
悩みはないのか。学校で上手くやれているのか。
そんなことを考えるのが、もはや彼の日課になっている。
八年のあいだ兄として過ごし、五年のあいだ彼女を一人で守ってきた。
その長い年月の中で――いつしか、彼女を幸せにすること自体が雪透にとって一番の生きる理由になっていた。
だが、それを前面に押し出すことはしない。
何事にもクールな義妹に対して過干渉になれば、彼女の自由を奪ってしまうと思っているからだ。
だからこそ彼は、心配を胸の内に押し込みながら、黒羽の歩幅に合わせて生きている。
雪透は望んでいた。黒羽には人並み以上に幸せな人生を送ってほしい、と。
要するに――そのためであれば、多少は義妹にウザがられてもいい覚悟なのである。
(♡♥)
火曜日の朝、今日も俺は義妹と歩いている。
通学路を並んで歩く距離は、いつも通り少しだけ遠い。
黒羽の歩幅に合わせて速度を落とすことにも、もう慣れた。
冬の冷たい風が頬を刺すたび、息が白く出る。
吐いた息はすぐに白く散っていき――そんな何気ない時間の中で、俺はあることを考えていた。
(どうにかして黒羽にお小遣いをあげたい)
俺が小説家になってからこれまでの五年間、幾度となく黒羽にお小遣いを渡そうとしてきた。
一般的に考えれば中高生はお小遣いを貰えるものだが、両親は黒羽が中学生の時に家から離れたため、代わりに俺が渡すしかないと考えたわけだ。
……しかし、最低限の生活費や衣服代を除いて、金銭面の申し出はすべて断られてきた。
どんな理由を付けて渡そうとしたところで、黒羽は毎回、「必要ないから」の一点張りで受け取ろうとしない。
だが、いくら黒羽に金のかかる趣味や物欲が無かったとしても――
(生活してて、金を使う場面が一切ないってことは……さすがにないよな)
それに、黒羽は女子の中でも人並み以上に身なりを気にするほうに見える。
本当は、多少なり今よりも高価なものが欲しいはずだ。
今黒羽が持っている服は、中学生の時に買ってやったパジャマが二着と、私服は十もなかった気がする。
俺はできれば、黒羽に不自由をさせたくない。だからといって、人と関わりたがらない黒羽にバイトをさせるのも気が進まない。
友人を作らず、休日もほとんど家にいる黒羽だからこそ――せめて、自分のやりたいことだけは我慢させたくないのだ。
(……よし。いい伝え方を考えよう)
今まで通りに正面から提案したところで、どうせまた断られるのは目に見えている。
黒羽の性格を考えた上で、彼女が受け取りたくなるような伝え方をしなくてはならない。
通学路の角を曲がったところで強風が吹き、大切そうにマフラーを押さえる黒羽の横顔が目に入った。
(……そういえば、このマフラーは俺がいつかの誕生日にプレゼントしたものだったか)
目に入ったその仕草が、何故だか妙に引っかかった。
(……)
考えながら歩くうちに、俺はひとつの答えに辿り着いた。
やはりさっきの仕草がヒントになって、黒羽が頷きそうな言葉が頭に浮かんだのだ。
「黒羽」
「……?」
呼びかけると、黒羽が小さく顔を向けた。
歩みを緩めるでもなく、ただ小さい動作で、視線をこちらに移す。
「黒羽って、俺といるときは大体制服だし……家でもすぐパジャマに着替えるから、あんまり私服って着ないよな」
黒羽はほんの少し考えるように視線を伏せ、それから頷いた。
マフラーの端を指で摘んで、指先でくるくると弄ぶ。
「……うん、そうかも」
黒羽はこちらを向いたまま、わずかに首を傾げる。
きっと、質問の意味を測りかねているのだろう。
――そんな、一瞬の沈黙のあと。
「俺、黒羽が他の服を着てるのも見てみたいな」
――俺は、用意していた言葉をそのまま口にした。
「えっ……?」
俺の言葉を聞いた瞬間、黒羽はその場に立ち止まって、そのまま固まった。
マフラーを押さえたまま、ぱちりと瞬きをする。
……確かに、突拍子もないことを言っている自覚はある。
だが、考えて用意した言葉とはいえ、これは紛れもない本心だった。
「……だって、黒羽ならなんでも似合いそうだし。
それに、大事な義妹の私服姿を見たくない兄なんて……この世の中にいないからな」
言いながら、ほんの少しだけ笑って誤魔化す。
軽口のつもりが、思った以上に本音に近かった。
「……っ」
黒羽が壁に向かって後ずさりする。
初めて見る行動だが……これは、〝戸惑っている〟ということだろうか?
わずかに視線を揺らし、マフラーを握る手に力がこもる。
息を吸っては止めるように、何度か口を開きかけては閉じた。
そうしてしばらく黙り込んだあと――黒羽は、ようやく口を開いた。
「…………わかった。じゃあ、服だけ……雪透さんが選んだ服を、買ってもらおうかな……」
「――えっ?」
一瞬、聞き間違えたかと思った。
「……黒羽が自分で選んで買うんじゃないのか?」
「……だって、雪透さんが私の服を見たいって……なら、雪透さんが選ばないと意味ないし……」
……。
……確かに、一理あるかもしれない。
黒羽は俯いたまま、指先でマフラーの端を弄んでいる。
白い息がその布にかかって、少しだけ揺れた。
「……分かった。今度の休み、近所のデパートに一緒に買いに行こうか」
「……!?」
黒羽がまた固まった。
目を見開いたまま、しばらく瞬きすらしない。
けれど、やがて、息を吐くように視線を落とした。
その頬にかかった髪が揺れて、白い息がふわりと溶ける。
「…………、……はい」
その声は小さくて――それでも、確かな答えだった。
黙っている間、何かを考えていたようだが……結局は了承してくれたので、俺はひとまず安心する。
――うこうしているうちに、黒羽の女子高に着いた。
門の前で立ち止まった黒羽が、少しだけマフラーを整える。
そして俺は、
「あと、今月の衣服代は、その分好きなことに使っていいから」
そんな何気ない一言を最後に、黒羽を高校へと送り出した。
会釈をした後も一度だけ振り返った黒羽は、いつもよりほんの少しだけ表情が柔らかかった気がする。
(……)
あれ、そういえば――
(服代だけは毎月渡してたのに、どうして今まで買わなかったんだろう? 化粧品も高価なものは買ってないし、他に使ってたようには見えないが……)
――そんな小さな疑問を残したまま、俺は大学に向かうのだった。
(♡♥)
――夜、黒羽の部屋。
(きゃあああああ!!!!! お兄さんにお洋服買ってもらえることになっちゃった!!! なんで!? どうして!? いったいなんのご褒美なの!?!? ただでさえ一緒に登下校できていま幸せの絶頂なのに、お兄さんからプレゼント!?!? しかもお洋服って……お兄さんにプレゼントしてもらったものをずっと身に着けられるってこと……!? 冬になると私の13歳の誕生日に買ってくれたこのマフラー着けれるからって大喜びしてたのに……っ)
(――っていうか雪透さんと一緒に買いに行くの!? 最初言われたときは通販とかで選んでくれるって意味なのかと!! いや嬉しい、そっちのほうが100倍嬉しいけど……っ! それ私の心臓もつのかなぁ!?!? だって……だって……だってそれ、で、デッ……デート、だよね……っ!?)
(お兄さんにデート誘われちゃった……デート……お兄さんと、デート……妄想では何万回したか分からないけどリアルでは初めてのデート……♡あっしあわせすぎて涙出てきたかも……)
(それに余分に貰ったお金も好きなことに使う許可貰っちゃった……♡元々使ってたけど……悪い子でごめんなさいお兄さま……♡でもこれで公認ってことだよね……??♥)
黒羽は心の中でそんなことを考えながら、自室の机を見る。
そこには、雪透のブロマイドに、ポスターに、自作ぬいぐるみと――
他にも数々の、『雪透さんグッズ』が並んでいた。
ベッドの下の収納を開けると、箱がいくつも積まれている。
開ければ、封を切っていない素材や写真、布の切れ端、未完成のぬいぐるみ。
彼の姿を形に残すための〝素材〟ばかりが詰まっている。
(はぁ、はぁ……っ♥これで外にいてもたくさん雪透さんを感じられる……♥雪透さんの声を録音して作った寝落ち音声も最高だったし……次は雪透さんの匂いを集めて香水作りたい……♥あぁ想像しただけで最高だよ……♥あそうだ写真ももっと高解像度で撮りたいからお金貯めていいカメラ買わなきゃ……♥はぁ……グッズもたくさん作れるし現実の雪透さんとも近づけて、もう幸せで頭おかしくなりそうだよぉ……♥)
……そう。
黒羽は、自由に使える金を全て、雪透グッズの制作に充てていたのである。
机とベッドの上は所狭しと〝雪透〟で埋め尽くされていて、壁には一面のポスターが貼られている。
黒羽はそっと手を伸ばし、机の上から大きめのぬいぐるみを持ち上げた。
両腕で抱きしめると、まるでそこに雪透がいるかのように目を閉じる。
体温のない布の感触に、胸の奥が少し熱を帯びた。
(はぁ、はぁ……♥もう、むりかも……♥もういいよねっ……??♥今日は我慢しなくても……♥だってこんなに素敵な日なんだもん……♥我慢なんてできないよぉ……♥)
息を荒げながら、クローゼットの扉を開く。
その中には、彼の部屋から持ち出した服が丁寧に畳まれて並んでいて……黒羽は、それを全て抱きかかえ、ベッドへと潜り込むのだった。
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