第7話「石鹸と希望の香り」

 ――儀式から十ヶ月が過ぎた冬のことだった。


 館の作業室には、甘く優しいラベンダーの香りが漂っていた。


「若様、見てください! 固まりました!」


 セナが興奮した声で僕を呼ぶ。作業台の上には、型に流し込まれた石鹸が、きれいに固まっていた。


 僕たちは八ヶ月もの間、試行錯誤を繰り返してきた。灰汁の濃度、油脂の配合比率、加熱の温度と時間。Oracleに何度も質問し、v1.1の文脈理解能力を活かして、少しずつ最適な製法を見つけ出してきた。


「セナ、試してみよう」


 僕は固まった石鹸を一つ手に取り、水を張った桶に浸して揉んでみた。すると――泡が立つ。ふわふわとした、きめ細かい泡が。


「泡が……泡が立ちます!」


 セナの声が弾む。彼女の目には、達成感の涙が光っていた。


 僕は石鹸で手を洗ってみた。汚れがすっきりと落ち、手のひらがさっぱりする。そして、ほのかなラベンダーの香りが残る。


「完璧だ。これなら、領民たちに使ってもらえる」


   ◇


 翌日、僕は村の広場に領民を集めた。


 中央の井戸の脇には、完成した石鹸と、水を張った桶が用意されている。セナも隣に立ち、緊張した面持ちで領民たちを見つめていた。


「皆さん、今日は大切なお話があります」


 僕は石鹸を一つ手に取り、高く掲げた。


「これは『石鹸』と呼ばれるものです。手や体を洗うための道具です」


 領民たちがざわめく。見たこともない、真っ白な四角い塊。


「ただの石じゃないのかい?」


「水で洗えば十分じゃないか?」


 疑問の声が上がる。無理もない。この領地では、手を洗うといっても、井戸水でさっと流すだけが習慣だった。


「では、実際にお見せしましょう」


 僕は土で汚した手を、まず水だけで洗ってみせた。土は少し落ちたが、手のひらにはまだ汚れが残っている。


 次に、石鹸を使って洗った。泡を立て、丁寧に揉み洗いする。そして水で流すと――手のひらが、見違えるように綺麗になった。


「おお……!」


 領民たちから、驚きの声が上がる。


「この石鹸を使えば、手についた汚れや、目に見えない悪いもの――病気の元になるものを、しっかり洗い流すことができます」


 僕はセナに目配せし、彼女が用意した絵を掲げた。Oracleの助言を元に描いた、簡単な図だ。「手を洗わないと病気になる」「石鹸で洗えば病気を防げる」という内容を、絵で表現している。


「特に大事なのは、食事の前、トイレの後、そして病人の世話をした後です。必ず石鹸で手を洗ってください」


「若様、その石鹸は……高いんでしょう?」


 一人の女性が、不安そうに尋ねる。貧しい領地では、贅沢品を買う余裕などない。


「いいえ。今回作った石鹸は、すべて領民の皆さんに無償で配ります。一家族に一個ずつ」


「本当ですか!?」


「ただし、条件があります。毎日、必ず手を洗うこと。そして、子供たちにも教えてあげてください」


「はい! 若様、ありがとうございます!」


 領民たちが次々と石鹸を受け取りに来る。セナが一つ一つ丁寧に渡しながら、使い方を説明していく。


「水で濡らして、手のひらで揉むと泡が立ちます。その泡で手全体を洗ってください……」


 彼女の声は優しく、領民たちも真剣に聞き入っている。


   ◇


 それから一ヶ月。


 領地に明らかな変化が現れ始めた。


「若様、今月の病人の数、去年の同じ時期と比べて三割減っています」


 バルドルが報告書を持ってくる。冬は例年、風邪や腹痛で倒れる領民が多い時期だ。だが、今年は明らかに違う。


「石鹸のおかげか……」


「はい。特に子供たちの病気が減りました。母親たちが、食事の前に必ず子供の手を洗わせているようです」


 僕は村を歩いてみた。井戸の脇には、石鹸を置くための小さな棚が作られている。井戸で水を汲む女性たちが、手を洗ってから帰っていく。


「若様、この石鹸、本当に素晴らしいです!」


 一人の母親が、幼い子供を連れて僕のもとにやってくる。


「うちの子、去年の冬は何度も熱を出して寝込んでいたんです。でも今年は、一度も病気になっていません!」


「それは良かった」


「この石鹸、もっと欲しいんですが……作り方を教えていただけませんか?」


「もちろんです。セナが教室を開いていますので、ぜひ参加してください」


 その後、セナは週に一度、館の作業室で石鹸作りの教室を開くようになった。興味を持った女性たちが集まり、真剣に製法を学んでいる。


   ◇


 ある日、セナが僕のもとにやってきた。


「若様、ご相談があります」


「何だい?」


「石鹸を、村の外でも売れないかと思いまして……」


 セナの提案に、僕は目を見開いた。


「売る……?」


「はい。隣村の市場に持っていって、試しに売ってみたんです。そうしたら、すぐに売り切れて……」


 彼女は小さな袋を取り出し、中から銀貨を数枚取り出した。


「これだけ稼げました。もっと作れば、領地の収入になるかもしれません」


 僕は銀貨を見つめた。わずか数個の石鹸が、こんなに価値を生むのか。


「Oracle、石鹸の商業化について教えてくれ。需要はあるか?」


『分析します……王都および周辺都市では、高級石鹸の需要が高まっています。特に、香り付きの良質な石鹸は、貴族や裕福な商人の間で人気です』


「つまり、売れる可能性が高い、と」


『はい。ただし、品質の安定と、大量生産の体制が必要です』


 僕はセナを見た。彼女の目には、強い決意が宿っていた。


「セナ、やろう。石鹸を領地の新しい産業にするんだ」


「はい! 頑張ります!」


 こうして、グランディア領の第二の改革――石鹸事業が始まった。


 領民の健康を守り、領地に収入をもたらす。この小さな石鹸が、僕たちの未来を大きく変えていく。


(第7話 了)



次回予告:第8話「色彩の魔法」


石鹸で清潔になった服。次に領民が求めるのは、「美しさ」だった。


「もっと鮮やかな色の服を着せてあげたいんですけど……」


エルスは、新たな事業の可能性に気づく。染色――天然染料を使った布の着色技術。


「セナ、新しいプロジェクトがあるんだ」


セナの薬草知識が、また新しい形で花開く。

黄色、赤色、青色……色彩が、領地に希望の光を灯す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る