第9話「行商人との出会い」

 ――成人の儀式から、一年と二ヶ月が過ぎた初夏のことだった。


 僕が導入した輪作は、試験区画で見事に成功を収めた。昨年秋に収穫した夏大豆は従来の1.8倍、その後に植えた冬麦も今月の収穫で1.5倍もの収穫量を記録した。この成功を受けて、今年は領地全体の三分の一の農地で輪作を導入する準備が進んでいる。領地の食糧事情は、崖っぷちの状態を脱し、わずかながらも余剰が生まれるまでに回復していた。


 v1.1にアップグレードしたOracleとの対話も、日々の習慣として完全に定着している。


「Oracle、次のステップに進みたい」


『了解しました、エルス。3年計画の第二段階、「新規産業の創出」ですね』


「ああ。その中核である『セメント』の詳細な情報を引き出したい。マナクリスタルが必要だ」


 アップグレードで手持ちのクリスタルは使い果たしてしまった。だが、今の領地には、輪作が生み出した余剰作物という、新たな資産がある。


(この麦を売れば、金貨に換えられる。金貨があれば、マナクリスタルを買うこともできるかもしれない。だが……)


 僕は首を振った。なけなしの金を、不確かな情報に使うわけにはいかない。借金の返済も、冬への備えも必要だ。


「……いや、これまで通り、僕が狩りで手に入れる」


 僕は剣を手に取り、森へ向かった。


   ◇


 三日後。23体のゴブリンを倒し、ようやく一つのマナクリスタルを手に入れた僕は、泥と疲労にまみれながら領地へと戻った。すると、村の広場に見慣れない立派な馬車が停まっているのが見えた。


「やあやあ、あなたがこの領地を変えつつあるという噂のエルス・グランディア様ですな?」


 御者台から降りてきたのは、恰幅のいい、人の良さそうな笑顔を浮かべた三十代半ばの男だった。上質なベルベットの服を着ており、指には銀の指輪が光っている。だが、その目は笑っておらず、鋭く僕と、僕の背後にある領地の様子を値踏みしていた。


「私はマルコ・ロッシ。噂は聞いておりました。グランディア領で画期的な農法が確立され、今年も豊作だと! それに、香り高い石鹸が王都でも評判になっておりますぞ!」


 僕は一瞬、警戒した。この男、本当に信用できるのか? 辺境の領地に、わざわざこんな上等な服を着た商人が来るなど、普通ではない。もしかして、何か裏があるのではないか?


 だが、背に腹は代えられない。余剰作物を売らなければ、冬を越せないのだ。


「……倉庫をご案内します」


 僕は彼を、余剰作物を集めた倉庫へと案内した。山と積まれた麦袋を見て、マルコの目がギラリと輝く。


「素晴らしい……! この品質と量!」


 次に、僕は石鹸の保管場所へ案内した。ラベンダーの香りが漂う棚には、セナたちが丁寧に作り上げた石鹸が並んでいる。


「これが噂の石鹸ですか……」


 マルコは棚から一つ手に取り、匂いを嗅ぎ、表面を指で撫でた。その鋭い目が、僅かに曇る。


「……若様。こちらの石鹸、少々表面が粗いようですが」


「え?」


 マルコが指摘した石鹸を見ると、確かに表面に細かいひび割れのようなものがある。慌てて他の石鹸も確認すると、十数個ほど、同じような症状が見られた。


「これは……まずい」


 冷や汗が流れる。品質にバラつきがあれば、商品としての信頼を失う。マルコは取引を断るかもしれない。


「少々お待ちください! すぐにセナを――」


「いえいえ、若様」マルコは手を上げて僕を制した。「完璧な商品など、最初からあるはずがありません。むしろ、この程度の不良品率なら、上出来ですぞ」


 彼は欠陥のある石鹸を脇に寄せ、残りの良品を丁寧に確認し始めた。


「こちらの石鹸は……素晴らしい。香り、質感、泡立ち。どれをとっても一級品です。不良品を除いた分で、取引させていただきましょう」


 その言葉に、僕は安堵のため息をついた。この男、値切るためではなく、本当に品質を見極めるために厳しくチェックしていたのだ。


「若様、この麦、馬車一車分、すべて買い取らせていただきたい! そして石鹸も、在庫すべて! 合わせて……金貨60枚でいかがでしょう!」


「金貨……60枚!?」


 それは、僕たちの領地の、一年分以上の税収に匹敵する額だった。


「少し、考えさせてください」


 僕はマルコに待ってもらい、すぐに執務室に戻ってOracleに相談した。


「Oracle、この取引条件を評価してくれ。麦一車分と石鹸全在庫で金貨60枚は、妥当か?」


『分析します……王都での麦の相場:良質麦で金貨40〜50枚/馬車一車分。高級石鹸:金貨15〜20枚/この在庫量。合計推定相場:金貨55〜70枚』


「つまり、相場の下限に近い提案だな」


『はい。ただし、初回取引としては悪くない条件です。重要なのは、この商人が信頼できるか、継続的な取引が見込めるかです』


 僕は考えた。マルコを信用するか? もっと高値を要求するか? それとも、別の商人を探すか?


(いや、待て。今必要なのは、最高値じゃない。安定した販路だ。金貨60枚は確かに相場より安いが、この辺境の領地に、わざわざ買い付けに来てくれる商人は貴重だ。それに――)


「Oracle、継続取引の価値を金額換算すると?」


『信頼できる専属商人がいれば、今後の取引コスト削減、情報収集、王都での評判形成などの副次効果で、年間金貨10〜20枚相当の価値があります』


「……わかった」


 僕はマルコの元に戻り、手を差し出した。


「金貨60枚で契約します。ただし、条件があります。今後も継続的に、我が領地の産品を扱っていただけますか?」


「もちろんですとも! 若様、私はこの領地に賭けます! あなた様の専属商人として、お仕えしたい!」


 その言葉を聞いて、僕は確信した。目先の金貨5枚より、長期的なパートナーを選ぶ。それが正解だ。


 こうして、僕はマルコ・ロッシという、頼もしい仲間を得た。


   ◇


 契約を終えたマルコは、荷物を馬車に積み込みながら、僕にこう告げた。


「若様、一つ、老婆心ながら忠告させてください」


「何でしょう?」


「この地域で最も力を持つ領主は、東のヴェルナー伯爵でございます。フェルディナント・フォン・ヴェルナーと申しまして……野心家で知られる御方です」


 マルコの表情が、珍しく険しくなる。


「あの御方は、近隣の領地で技術革新や新産業が生まれると、必ずその技術を手に入れようとなさいます。時には正当な取引で、時には……まあ、あまり褒められたやり方ではない手段で、ですな」


「つまり、僕たちの輪作やセメントの技術も、狙われる可能性があると?」


「その可能性は、ございます」マルコは深刻な表情で頷いた。「ですが、ご安心ください。私が王都で若様の評判を広め、正当な取引関係を確立いたします。技術を盗まれる前に、確固たる地位を築くのです」


 ヴェルナー伯爵――。その名前が、僕の脳裏に刻まれた。


(いずれ、対峙することになるかもしれないな)


 だが今は、恐れている場合ではない。領地を守り、発展させることだけに集中しよう。


   ◇


 自室に戻ると、僕は先ほど手に入れたマナクリスタルを手に取った。


「Oracle、3年計画の第二段階『新規産業の創出』で推奨される選択肢を、実現可能性と収益性の観点から三つ挙げてくれ」


『了解しました。


1. セメント製造(実現可能性:中、収益性:極大、必要資源:石灰岩・粘土)

2. ガラス製造(実現可能性:低、収益性:高、必要資源:高純度砂)

3. 製鉄技術改良(実現可能性:低、収益性:中、必要資源:鉄鉱石・高温炉)』


 僕は領地の地図を広げ、資源の分布を確認した。


(北の採石場には石灰岩がある。川沿いには粘土層も確認されている。セメントなら、領地内の資源だけで製造できる。ガラスは砂の純度が問題だし、製鉄は設備投資が大きすぎる。ならば――)


「セメントだ。理由は三つ。一つ、領地内で原料が全て揃う。二つ、王都では建築ラッシュで需要が高い。三つ、製法が確立すれば、長期的に安定収入が見込める」


『論理的な選択です。詳細情報を提供しますか? 1マナクリスタルが必要です』


「ああ、使ってくれ」


『了解しました。マナクリスタルを消費します』


 頭の中に、セメントの製造法が流れ込んでくる。石灰岩と粘土の配合比率、焼成温度、粉砕方法――すべてが、明確な数字と手順で示される。


 これだ。これなら、できる!


 僕はその足でマルコのもとに戻り、セメントの構想を伝えた。彼の商人の目が、再びギラリと輝く。


「水と混ぜると固まる建材ですと!? それは……革命ですぞ、若様! 私が責任を持って王都で売りさばきます!」


 マルコの興奮は本物だった。この商人なら、信じられる。


   ◇


 その夜、館の食堂。僕はマルコとの取引で得た金貨60枚を、家族の前に並べた。


 金貨の山を前に、誰もが言葉を失った。父は震える手で金貨を一枚手に取り、その重みを確かめるように、じっと見つめている。彼の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「エルス……お前が、これを……」


「はい。輪作で得た麦が金貨50枚、石鹸が金貨10枚。合わせて金貨60枚です」


 僕はバルドルに目配せし、彼が帳簿を開いて説明を加えた。


「輪作による余剰麦の販売収入が金貨50枚、この数ヶ月の石鹸の売上が金貨10枚。合計金貨60枚でございます」


「すまなかった……エルス。私は、お前のことを……ハズレスキルを授かったと、どこかで諦めていたのかもしれない」父は深く頭を下げた。「だが、お前はたった一人で、この一年、領地の未来を切り開いてくれた」


 父は顔を上げ、僕の目を真っ直ぐに見た。


「エルス。これからは、お前が中心となって領地を動かしていくべきだ。私も協力する。お前の実績は、もはや誰にも否定できない」


「父上……」


「正式な領主代行の任命は、お前の十七歳の誕生日――次の春に行おう。それまでに、さらに実績を積み、誰もが認める後継者となるのだ」


「はい!」


 母は、ただ静かに涙を流しながら、僕の手を握りしめた。「ありがとう、エルス。本当に、ありがとう……」


 家族の涙と、金貨の輝き。それを守るために、僕はさらに努力を続ける覚悟を決めた。


   ◇


 翌日、僕はバルドルとともに、領地の債権者への返済を行った。


 金貨60枚のうち、借金の返済に充てたのは50枚。残りの10枚は、冬への備えと、急な出費に備えた備蓄とした。


「若様、これで借金の総額は……」


 バルドルが帳簿を繰り、ゆっくりと告げる。


「金貨3,000枚から、金貨2,950枚へ。わずか50枚の減少ですが、これが第一歩です」


「まだ2,950枚……」


 遠い道のりだ。だが、バルドルは僕に報告書を見せてくれた。


「若様、今年の税収と輪作による増収、そして石鹸・麦の売上を合わせますと、年間収入は金貨150枚に達する見込みです」


「それで返済を続ければ……」


「はい。Oracleが示された計画通り、今年中に金貨200枚の返済が可能です。債権者への説明資料として、この成長曲線を提示すれば――」


「返済期限の延長を認めてもらえるかもしれない」


 僕は深く頷いた。まだ借金2,950枚。完済まで5年以上。道のりは長い。だが、確実に前進している。


 Oracleが示してくれた道は、険しいが、決して不可能ではない。


(第9話 了)



次回予告:第10話「軌道に乗る事業と領民の変化」


石鹸事業は順調に軌道に乗り、マルコが王都から大きな成果を持ち帰る。領地の財政は劇的に改善し、領民たちの生活にも変化が現れ始めた。


だが、成功は新たな課題も生む――。


「若様、石鹸の生産が追いつきません。もっと大きな工房が必要です」


需要に応えるには、より強固な建物が必要だ。そして、エルスの頭に、ある建築資材の名前が浮かぶ――「セメント」。


まだ遠い未来の技術だと思っていたが、その時は着実に近づいていた――

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