第4話「小さな成功たち」
――儀式から4ヶ月。夏が終わろうとしていた。
領地の朝は、少しずつ、しかし確実に変わり始めていた。広場の共同井戸では、女たちが鍋で水を沸騰させている。子供たちは、食事の前に必ず手を洗う。傷を負った者は、清潔な布で傷口を覆う。
誰もが、当たり前のようにそれを実践していた。
「若様の教えのおかげで、うちの子の下痢が治ったんです」
「腐った野菜を捨てる量が、半分になりました」
領民たちが、僕に感謝の言葉をかけてくれる。小さな変化だが、確かな変化だ。
◇
「エルス様、できました!」
その日の昼、セナが興奮した様子で僕の執務室に駆け込んできた。手には、淡い紫色をした小さな固形物が握られている。
「これが……石鹸?」
「はい! ラベンダーを混ぜてみました。香りも良いですし、泡立ちも完璧です!」
僕は石鹸を手に取り、水を含ませて揉んでみた。ふわりと優しい泡が立ち、ラベンダーの爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
「すごい……本当に石鹸だ」
「ありがとうございます。でも、これはエルス様のおかげです」セナは誇らしげに、しかし謙虚に微笑む。「Oracle様から教わった基本製法に、私が薬草の知識を加えました」
「いや、セナの貢献の方が大きい。Oracleが教えてくれたのは『木灰と脂を混ぜて煮る』という基本だけだ。配合比率の最適化、薬草の種類選定、乾燥時間の調整……それ全部、セナが試行錯誤してくれた成果だ」
彼女の頬が、僅かに赤く染まる。
「……試作を始めてから三ヶ月。最初は失敗ばかりで、泡立たなかったり、すぐに崩れたり。でも、一つずつ原因を調べて改善しました。木灰のアルカリ性が強すぎたら肌が荒れるから、川の水で希釈して中和して……」
彼女の説明は、薬師の娘ならではの科学的思考に満ちていた。
「それに、ラベンダーは鎮静効果、カモミールは抗炎症、ローズマリーは血行促進。用途別に三種類、試作しました」
僕たちは顔を見合わせ、笑った。これは、僕とセナ、二人で作り上げた成果だ。
◇
翌日、僕は石鹸を領民たちに配布した。特に、妊婦や乳児のいる家庭、怪我人を抱える家族に優先的に渡す。
「これで手を洗ってから、赤ちゃんに触れてください。傷口もこれで洗えば、腫れや膿を防げます」
最初は戸惑っていた領民たちも、石鹸の効果をすぐに実感した。
「産褥熱で苦しんでいた妻の熱が下がりました!」
「傷口の腫れが引いて、膿まなくなった!」
感謝の声が、次々と僕のもとに届く。病気で亡くなる人が、確実に減り始めていた。
◇
その夜、僕は執務室で、Oracleと対話していた。
「なぁOracle、現在の領地の状況を分析してくれ」
『了解しました。分析を開始します』
『——改善された項目:
・衛生管理の導入により、感染症による死亡率が推定30%減少
・食糧保存技術の改善により、冬季備蓄量が推定25%増加
・石鹸の普及により、産褥熱・破傷風などの疾患が顕著に減少』
「すごい……たった4ヶ月で、ここまで変わるなんて」
『ただし、輪作計画は依然として進行中です。試験区画の豆は順調に成長していますが、収穫までにはあと3〜4ヶ月を要します』
「ああ、わかってる。輪作は長期戦だ」
だが、問題はそれまでの間だ。僕は帳簿を開き、領地の財政状況を確認する。借金三千枚。年間収入五十枚。衛生改善で医療費は減ったが、借金返済には遠く及ばない。
「Oracle、次に着手すべき優先課題を、三つ挙げてくれ」
『了解しました。推奨される選択肢:
1. 石鹸の商品化・販売体制の確立(即効性:高、収益見込み:中)
2. 輪作技術の拡大展開(即効性:低、収益見込み:高)
3. 新規産業の創出(セメント等)(即効性:中、収益見込み:極大)』
三つの選択肢。僕は考え込んだ。
(新規産業は魅力的だが、マナクリスタルが足りない。残り一個では、詳細な製法を得られない。輪作の拡大は、まず試験区画の成功を証明してからだ。ならば――)
「石鹸だ。セナと協力して、商品化を進める。理由は二つ。一つは、マナクリスタル不要で即座に実行できること。もう一つは、収益が出れば、次の投資資金になること」
『論理的な判断です。石鹸による収益を、次のマナクリスタル獲得や新規産業への投資に充てる戦略ですね』
「ああ。一つずつ、確実に積み上げていく。それが、今の俺たちにできる最善の道だ」
窓の外を見ると、畑の一角で、豆の苗が月明かりに照らされている。まだ小さな苗だが、確実に育っている。
輪作が成功するまで、あと数ヶ月。その間に、石鹸で収益基盤を作る。そして、その利益で次の一手を打つ。
◇
翌週、僕はバルドルとセナを集めて、今後の計画を話し合った。
「石鹸は、販売できるレベルの品質になった。セナ、量産体制を整えてくれないか?」
「はい! 領地の女性たちに製法を教えて、みんなで作れるようにします」
「バルドル、食糧保存の改善で増えた備蓄を記録してくれ。冬を越すのに十分な量があるか、確認したい」
「承知いたしました、若様」
バルドルは、以前のような懐疑的な目ではなく、信頼の眼差しで僕を見ていた。
「若様は、本当に領地を変えつつあります。最初は正直、不安でしたが……今は、信じております」
「ありがとう、バルドル。まだまだこれからだ」
◇
その夜の夕食は、久しぶりに家族全員が揃った食卓となった。
「エルス、最近忙しそうだったけど……領地のために頑張っているのね」
母エレナが、温かいスープを僕の器によそってくれる。以前のような憂いを帯びた表情ではなく、穏やかな笑顔だった。
「ええ。石鹸が完成したんです。セナと一緒に作って、領民の皆さんに配りました」
「石鹸! いい香りがするやつ?」
弟のユーリが目を輝かせる。相変わらず無邪気で好奇心旺盛だ。
「ああ。ラベンダーの香りだ。明日、君にもあげるよ」
「やった! お兄ちゃん、すごいね!」
妹のリーナが、少し大人びた表情で僕を見つめる。
「……お兄様、領地の人たちが、最近すごく明るくなったって話してました。病気で亡くなる人も減ったって」
「リーナ、よく気づいたな。君も、領地のことをちゃんと見ているんだね」
「当たり前です。私も、いつかお兄様の役に立ちたいんですから」
その言葉に、胸が温かくなる。リーナは、もう子供ではない。領地の未来を、一緒に考えてくれる仲間になりつつある。
父グレンは、ずっと黙って僕たちのやり取りを聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「エルス……お前に領地を任せて、正解だった」
「父上……」
「私には、お前のような決断力も、知識もなかった。だが、お前は違う。領民のことを第一に考え、行動できる。それが、領主に最も必要なものだ」
父の目には、誇りと、少しの寂しさが混じっていた。自分の役目を息子に譲ったことへの複雑な思いが、そこにはあるのだろう。
「父上の【調停】のスキルがあったから、領民たちは輪作を受け入れてくれたんです。僕だけでは、できませんでした」
父は、優しく微笑んだ。「……ありがとう、エルス」
家族との食事。何気ない会話。だが、それが僕にとって、何よりの支えだった。
◇
食後、自室に戻った僕は、Oracleに問いかけた。
「Oracle、これまでの累計クエリ数を教えてくれ」
『現在の累計使用回数:42回』
「まだ半分にも届いていないのか」
『v1.1へのアップグレードには、累計100回のクエリと、マナクリスタル3個が必要です』
「わかってる。焦らず、着実に進めよう」
僕はマナクリスタルの入った小箱を開けた。中には、まだ使っていないクリスタルが一つだけ残っている。輪作と石鹸のために2個使い、これが最後の一つだ。
「……このクリスタルは、アップグレード用に温存する」
『理由を確認させてください』
「今、このクリスタルを使って新しい知識を得ても、実行する資金も人手も足りない。それより、100回到達後のv1.1アップグレードで、Oracleの基本性能そのものを上げる方が、長期的には効率がいい」
『了解しました。戦略的な判断です』
目の前の利益を追うのではなく、先を見据える。それが、限られた資源を最大限に活かす方法だ。
◇
儀式から4ヶ月。領地は確実に変わり始めていた。
衛生管理で病気が減り、食糧保存で備蓄が増え、石鹸で命が救われた。そして、試験区画の豆は、静かに、しかし力強く育ち続けている。
小さな成功たち。それは、やがて大きな未来へと繋がっていく――はずだ。
(第4話 了)
次回予告:第5話「100回目の質問」
領地改革が進む中、エルスはOracleとの対話を重ね続ける。累計100回の質問に達した時、システムアップグレードの機会が訪れる。だが、v1.1への進化には、マナクリスタルが3個必要だ。エルスは再び森へ向かい、命を懸けた狩りに挑む――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます