角煮男がいる家
白坂睦巳
角煮男がいる家
近所に、とある家があります。
若い夫婦と小さい娘さんが住んでいる、なんの変哲もない戸建てなのですが、僕はずっとその家に興味を惹かれていました。
角煮男が出るからです。
僕の住むアパートから、だいたい歩いて五分くらいの距離にあります。最寄り駅に行くまでの途中にあるので、毎日のようにその家のそばを通るんです。
青い屋根の、小さな二階建ての家。表札はキャラクターもののデザインで、平凡な苗字が印字されています。庭はきれいに整えられていて、三輪車や小さいブランコ、ビニール製のボールが芝生の上に転がっている。
いかにも幸せそうです。
その家の近くを通るとき、僕はつい、窓に目をやってしまいます。
特にベランダの窓ですね。大きな窓。そこを見てしまう。
だいたいは何もないんですが、数週間に一度くらいの頻度で男が立っている。
ぬぼおっと、棒立ちです。何をするわけでもなく、ただ外を見ている。
彼は、角煮みたいなんです――身体が。
それも、煮崩れる寸前の角煮みたいな。つついたら、指がすーっと中に入ってしまいそう。
でも、一応はひとがたを保っていて。頭や腕、足に相当する部位が見て取れる。
赤身っぽい硬そうな肉と、脂身っぽい柔らかそうな肉がまだらになって、かろうじて人の形をとって、そこに在る。
顔にあたる部分には、目も鼻も口もありません。服も着ていない。
そんなのが、ベランダの窓の向こうに立っているんです。
大きなけがを負った人とか、何かの病気を抱えている人とか――
最初は、そういった人がご家族にいるのかなと思ったんです。
でも、よくよく観察していると、どうも違う。
たとえば角煮男が窓の前にいて、奥さんが庭で洗濯物を干している。
そんなとき、奥さんは角煮男を完全に無視しているんです。
意識的に無視をしているというより、そもそも気付いていない、みたいな様子で。
いくら無視を決め込んでいても、そこに誰かがいれば、意識している素振りは出てしまうものです。視線が向くとか、近くを通るときに避けようとするとか。それがまったくない。
それにね、娘さんも無視しているんですよ。庭で遊んでいるとき、窓辺に角煮男がいても、まるで意に介さない。
いくら大人が無視してたって、幼稚園児くらいのお子さんが、そこにいる人間を完全に“ないもの”として振る舞えますか? 難しいですよね。
なので、もしかして、あれは人間じゃないんじゃないかな、と思ったんです。
それ以来、僕はその家の前を通るたびに、窓を見るようになりました。
気になりますよね、やっぱり。あれはなんなんだ? って。
幽霊なのか。妖怪なのか。もっと別のものなのか。
もちろん、見ているだけで正体なんてわかりっこありませんが。
家の前を通るたびに窓を見て、角煮男がいないか確かめる。
いたら、通り過ぎるまでじっと角煮男を観察する。
いつの間にか、それが習慣になっていました。
怖い。
という感情はなくはありませんでしたが、毎日通るたびに慣れてしまいました。なので、「別の道を通ろう」なんてふうには思わなかったんですよね。
角煮男を眺めるのも、単に「ああ、いるいる」という確認作業というか。特別な気持ちはなかったんです。
ほら、あるでしょう。よく利用する駅にいつもいる、ちょっと変わった佇まいの人を、通りかかるたびについ見てしまう……みたいな。そんな感じで。
*
ある日、いつものようにその家の前を通りがかりました。
日曜日だったので、夫婦と娘さんがそろって庭で遊んでいました。
季節は夏です。庭の真ん中にカラフルな水玉模様のビニールプールが置かれていて、娘さんは水遊びをしている。そのそばに奥さんがしゃがんでいて、旦那さんはベランダの窓のすぐ前に立って、母娘を見守っています。
ベランダの窓の向こうに、角煮男が立っていました。
目がないのでどこを見ているのか、そもそも何かを視認できるのかはわかりませんが、なんとなく、母娘を眺めているような印象を受けました。
ビニールプールに張られた水が、陽光を浴びてキラキラ輝いている。
娘さんが水の中ではしゃぐたびに、ガラスの粒のような水飛沫が舞いあがる。
奥さんは首にかけたタオルで額を拭い、すぐそばに置かれたクールボックスから、凍ったペットボトルを取り出す。きっと、熱中症にならないよう、娘さんにこまめに飲ませてあげるつもりなのでしょう。
強烈な直射日光に曖昧なものは全て取り去られ、白いものはより白く、黒いものはより黒く見える。奥さんの着ているワンピースは、発光しているかの如く白く。母娘が芝生の上に落とす影は、夜の蛇のように黒々と濃くわだかまる。
日曜日の真昼間、住宅街は静かです。母娘の声だけが控えめに響いている……。
ふいに、旦那さんが室内に入ろうと、ベランダの窓を開けました。風でカーテンがぐうんっと屋外へ引っ張られ、旦那さんはそれを手で押さえながら、振り落とすようにサンダルを脱ぐ。
室内に入り、窓を閉めた旦那さんは、角煮男を一瞥しました。
それですぐさま視線を逸らし、角煮男など存在していないかのように、しらじらしく家の奥へと歩いていきました。
あ、旦那さんは見えてるんだ。
そのとき初めて知りました。
*
それ以来、その家の前を通りかかるとき、「今日は旦那さんいないかな」と様子を伺うようになりました。
あの家で、旦那さんだけが角煮男を認識している。そのことを知って以来、旦那さんがつい角煮男に目をやってしまう瞬間を見たい、と思うようになったのです。
単純に、面白みを感じていました。いかにも幸福そうな一家があって、でも家の中には明らかに人でないものがいる。妻子はそれに気付いていないが、旦那さんは一人だけ見えている……。すごい状況じゃないですか? 気になりますよね。
とはいえ、旦那さんは仕事が忙しいらしく不在がちで。なかなか在宅中、それも角煮男と一緒に外から見えるところにいてくれる、ちょうどいい状況に遭遇する機会はしばらくありませんでした。
いつの間にか、季節は晩秋になっていました。
小雨の降るある日、例の家の前を通ると、珍しく旦那さんが庭にいました。やや雑な手つきで衣類を回収しており、ベランダの窓は半開き。その向こうから、角煮男が外を覗いていました。
あ、いる。
僕は少しだけ浮足立ちました。自動販売機で当たりが出たときのような――大喜びするほどではないものの、日常の中の貴重な一瞬に行き会えた幸運を感じる。そんな気持ちです。
旦那さんが洗濯物を引っ張るたびに、地面に雨粒が当たるパラパラという音に混じって、スチール製の物干しがきしむ音が響きます。
洗濯物を抱えた旦那さんが、室内に戻ろうとベランダに向き直りました。
瞬間、旦那さんの体がびくりと震える。衣類の塊を抱える両腕の隙間から、黒い靴下が片方、ぽとりと落ちました。
どうやら、背後の窓に角煮男がいることに気がついていなかったようです。
旦那さんはしばらく立ち尽くしていましたが、やがて意を決したように、ベランダの窓を限界まで大きく開きました。窓へ伸ばした腕の隙間から、洗濯物がボトボトと落ちていきます。
角煮男の横を通って中に入り、腕の中の洗濯物を床に放り出す。もう一度ベランダに出て、落ちた洗濯物――下着、靴下、ハンドタオル、子ども用の小さなTシャツ。それらを抱えて、もう一度家に入ります。
旦那さんと入れ違いに、角煮男が一歩、前に踏み出しました。
庭に向かって。
角煮男の今にも崩れそうな足が、芝生を踏みしめます。
なんの音もしませんでした。
出てきた。
今まで、角煮男は家の中にだけ現れていました。
絶対に、いつでも、窓の向こうにいました。
庭という外界に出てこれるなんて。
僕はとても驚きました。
家の人に不審に思われる可能性も忘れ、僕は家の前に棒立ちになりました。
旦那さんが、窓とカーテンを閉めました。その拍子に僕と目が合いましたが、特になんの反応もありませんでした。
角煮男は家から閉め出されてしまう格好になりました。
どうするんだろう。
家に戻るのか、というか、戻れるのか?
戻れなかったとしたら、このまま庭にずっといるのか?
角煮男は僕のほうに顔を向けると、そのままずんずんと歩いてきました。
「うわっ」
と、思わず悲鳴をあげました。
今まで安全圏――と思っていた場所――から観察していただけに、衝撃が大きかった。ああ、こいつ、僕を認識できるんじゃん。そう思うと、角煮男への恐怖が胸の奥から湧き上がってきました。
僕は角煮男に背を向けて、走って逃げ出しました。
*
それ以来、角煮男は僕の家に現れるようになりました。
たぶん、ついてきてしまったのでしょう。
別に何をするでもありません。
あの家にいたときのように、家の中に現れて、そこに黙って佇んでいるだけ。
相変わらず、ほろほろと煮崩れてしまいそうな、頼りない身体で。
パーツのない、豚肉の塊のような顔で。
僕の傍に立ち、僕を見る。
それでも、毎日少しずつ、精神が削られていきます。
もう、あの家を、旦那さんを、好奇の目で観察していた頃の僕はいません。
他人事ではないのですから。
*
ある日、耐え兼ねて、あの家を訪ねたことがあります。
旦那さんなら、角煮男が何なのか知っているかもしれない。
せめて正体がわからなければ、とてもあいつとの同居に耐えられない。
そう思ったのです。
衝動的にチャイムを鳴らし、待つこと数十秒。
『はい』
と、男性の声で返事がありました。旦那さんです。
チャイム越しになんと言ったか、覚えていません。でも、奇跡的に旦那さんが表に出てきてくれました。
今までさんざん観察していましたが、直接話すのは初めてです。
旦那さんは、明らかに警戒している――いつでも玄関の扉を閉められるぞ、という体勢で、僕をじっと見つめています。
そのときには頭がぐるぐるでわけがわからなくなっていたので、不審に思われないように、扉を閉められてしまわないように話さなければという、当たり前の考えにすら至りませんでした。
僕は、とにかく現状を理解してもらおうと、
「あの、僕の家に、その、そちらの家にいた角煮男が、いるんです」
と、まごつきながら口にしました。
すると一拍の沈黙のあと、旦那さんは両手をパンと打ち鳴らし、
「ああ、似てますよね、やっぱり! 角煮に!」
と言いました。
「あの、はい、角煮男がいるんです。僕の家に。あれは、なんですか」
「うん、ああ、うん、あれね。あーはいはい」
「あれって、なんですか、いつからいるんですか」
「角煮男かぁ、うんうん、言い得て妙だなあ。うんうんうんうんうん」
「あの」
「すみません、お帰りください」
呆然とする僕に対し、早口でそう告げると、旦那さんは勢いよく扉を閉めました。
*
今も角煮男は僕の家にいます。
角煮男がいる家 白坂睦巳 @mutsumi_s
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます