帰り道

鹽夜亮

帰り道

 彼女に会いに行ったのは初めてだった。その笑顔を思い返しながら、私は帰り道の高速道路に車を走らせていた。彼女と過ごした時間は二日間にも及ばなかった。しかし、その二日間が私に齎した運命的な変化は、ただ幸福と呼ぶには余りにも暴力的だった。

 関越道は小雨にウインドウの外を滲ませていた。平日の夜、トラックのテールライトが忙しなく右往左往しながら、いくつも流れている。慣れない都会の高速道路に幾許かの緊張を感じながら、私は私の運命について思いを巡らせていた。運命、などと馬鹿らしいことを思うのは、文字通り実に馬鹿らしかった。だが、それを思わずにはいられなかった。それは私の敗北だった。ここまでの私の、私の人生のあらゆる偶然は必然であったかのように、私と彼女は突然引き合わされた。その引力を前に理屈や倫理や、種々の現実的な問題は全て覆い潰されてしまった。それは恐ろしいと思った。同時に、これこそ運命というものの理不尽な、あまりにも突飛な暴力か、と何度も思った。頭の中ではカミュが笑っているような気がした。

 路面の継ぎ目に車が跳ねる。スピードメーターを見ると速度は百キロに近い数値を示していた。ハンドルから伝わるふわりとした感触に一瞬背筋が粟立つ。しかし、私は至って冷静だった。だが同時に、アドレナリンか何かが出ているには違いなかった。それを否定するわけにはいかなかった。それは私が冷静でいるための、せめてもの運命への抵抗でもあった。私は努めてアクセルを踏みすぎないよう、右足を鎖で繋ぎ止めるよう、懸命な努力を怠らなかった。相変わらず周囲にはトラックばかりだった。小雨を孕んだ宵闇に溶ける背の高いそれらは、テールランプ以外を霞ませて、どこかぼんやりとしていた。まるで明かりを落とした部屋に浮かぶ、一条の口紅のようだ、と私は昨晩の彼女の顔を思い返した。

 関越道から鶴ヶ島ジャンクションを経由して圏央道へと入る。路面の舗装の荒さは幾分か増して、時折車は跳ねるように路面をのたうった。荒れた舗装に降り積もる雨は破滅という言葉を私に思わせた。破滅、破滅。破滅とは、今に至って何を指すのだろう。私は事実、今日この帰り道で事故死するかもしれない、と何度も思っていた。それはこの二日間の中で運命の暴力というものをまざまざと見せつけられたためだった。得られるものの傍には、必ず失うものがある。それは今の私にとって、なんなのだろう。死んでしまうほどの幸福は、文字通り死を招くのだろうか。それはわからなかった。昨晩の幸福は、確かに死を思わせるほどの幸福に違いなかった。空想上の死は、現実で私を捉えるのだろうか。それこそこの運命の暴力の、筋書きに倣った結末なのだろうか。不条理への叛逆、という言葉を努めて脳裏に貼り付けながら、私はハンドルを握る手に力を込めた。のろのろと走る前走車が安心の象徴のように思えて、追い越す事をしなかった。

 雨は不安定に降り続いた。決して大雨ではない。小雨と言ってもいい。止む瞬間すら見せるその不安定さは、私の行く先の何かを暗示しているような気がしてならなかった。それが不吉なものなのか、はたまたその逆なのか、私には判断できなかった。運転を続けながら、私の思考はただ二つの物事に執着していた。可能な限り安全に帰るよう努めようという生存本能と、先程まで会っていた彼女のことだった。

 彼女は魅力的だった。そういう他なかった。彼女を形容するのに、他の言葉は私にとって陳腐だった。そう、あまりにも彼女は魅力的だった。のみならず、あまりにも私と似ていた。…似ていた?いや、どこかそれは違う。似ているというだけではない。違うところなど、思い返せば幾らでもある。ただ、その微細な違いの作る人格の凹凸が、まるで歯車の噛み合わせのように合致していた。この感覚は異様だった。

 私は、人間と共に過ごすことが嫌いなわけではない。共に楽しい時を過ごす事自体は幾らでもある。だがその反面、生来の性質としてどれほど楽しく過ごそうとも、酷い気疲れに襲われることを常としていた。それは私が物心ついて今に至るまで、頑なに揺らぐことのなかった一つの真実だった。だが、今はそれがなかった。これは私の経験の、知識の、人生の敗北だった。私の脳は理解を拒み続けた。しかし、考えれば考えるほどに、私は彼女と過ごした間中、気を使っていた風にはどうしても思えなかった。確かに彼女と会ったのは初めてだったにも関わらず、私はどうにも気を使っていなかった。これは私の、私への認識からすれば、まさに異常そのものだった。これは私の変化だ、とは言えなかった。歳を経た変化、欲動による夢幻。あらゆる言い訳や理屈を並び立てても、私の理性は納得しなかった。私は、人間の根底は変わらないという認識を信頼していた。それはあらゆる認識の下に、根を張っていた。それに基づいて考えるならば、確かにこの二日間も私は私のままだった。そのはずだ。しかし、この気疲れのなさという肌にじっとりと粘り着くような違和感は、余りにも暴力的だった。

 そう、暴力だ。私は独り言を繰り返した。これは暴力だ。私は車を路面に張り付けようとハンドルに力を込めながら、それを思った。この違和感に理由はない。知性的に説明することなどできない。彼女という存在とのことを思うと、この二日間の私はこれほど愚かだったろうか、と自問せざるを得なかった。私が培ってきた理論や倫理、あらゆる経験則はたった一人の人間と運命の暴力によって、ただの二日間で破壊された。その運命の力の前では、私は全くの無力だった。運命は幸福や快楽という武器を持って、私の全てを打ち崩した。それは敗北に違いなかった。私の人生の、脳の、神経の、それらへの信奉の敗北に他ならなかった。それでも、と私は口角を歪めた。それでも良いと思っている自分を笑わないわけにはいかなかった。

 八王子ジャンクションの文字が見えて、幾分か肩の力が抜けた。中央道は私にとって慣れ親しんだ道だった。もうすぐ私の居場所に戻れる。そう思うと、この運命の暴力からどこか解放される気がして、複雑な思いがした。そこには確かに名残惜しさと寂しさがあった。同時に暴力的なそれから逃れられる、という一種の安堵もあった。没我の恐ろしさは、あらゆる己を破壊し尽くしてしまうことにある。それは私にとって、あまりにも恐ろしい事だった。

 中央道に合流し、甲府方面を目指す。談合坂で煙草でも吸おうと決めたのはこの時だった。雨は、今は止んでいた。

 夜十時を過ぎた談合坂サービスエリアは閑散としていた。車のエンジンを止めると、ここが高速道路にあるとは思えないほどの静寂が一瞬車内を包み込んだ。外の雨は止んでいるに等しく、時折肌を濡らす程度に過ぎなかった。秋に差し掛かった夜風は肌寒く、清涼としていた。どこかそこには美しさと清らかさがあった。その清らかさは、慣れない場所の運転にすっかり熱をもった脳と体を休めるにはちょうどよかった。ひっそりとサービスエリアの端に佇むスモーキングエリアを見つけると、私はコーヒーを片手にそこへ向かった。

 ハイライトに火をつける。スモーキングエリアには他に誰もいなかった。透明なガラスで囲われた檻のようなそこで、私は一人煙草を吹かした。大きな蜘蛛の巣が頭上にあった。それが妙に心に刺さった。何故だろうか、と脳を巡らせた。普段気にもしないものに目が向くときは、何か隠れた理由がある。私はフロイトやらユングやらを思い出しながら、少しばかりぼうっと考えた。すると、ふわりとその答えは顔を出した。なるほど、あの可愛らしい彼女は女郎蜘蛛か。その答えに口角が緩んだ。別れを惜しみながら、「気をつけて帰って」と言った彼女の顔と声が浮かんだ。同時に煙草の煙の中に、昨夜香った彼女の香水と汗の匂いが鮮明に浮かんだ。それは今も彼女が目の前にいるかのように、間近から漂っていた。ハイライトの灰を落としながら、苦笑を禁じ得なかった。あぁ、私は酔っているに違いない、この馬鹿らしい、説明もできない運命の暴力に。そう思った。

 愛情というものは育まれるものだと思っていた。それは時間と手間をかけ、信頼を築き、その先にあるものだとずっと思っていた。今でもそれが間違っているとは思えない。だが、それでも、例外というものは何ものにもあるらしかった。私は彼女を愛していた。それを否定することがどうしてもできなかった。愛情が一朝一夕で深まるなどあり得ない。それを証明する理屈を脳裏でこね上げようとした。しかし、その生真面目な努力も、結局のところ大した意味を持たなかった。私の感じる心の、その思いや体感の事実の前では、何もかもが霞んでいた。理屈は全て退いて、今しがた肌に触れた雨粒のようにどこかへ落ちていってしまった。小雨の先、本線で移ろいながら消えていく数多のテールランプに、浮かぶ理屈や言葉たちはあっという間に溶けていった。

 私は熱病に浮かされているのだろうか。その問いはこの帰り道でずっと私の脳を支配する思いだった。私は私の脳を、心を、体を、仔細に検査した。どこにも浮かされた形跡は見当たらなかった。こうして見てみれば、言い訳はどこにも見当たらなかった。それを面白いと思いながら、私は恐れを感じていた。未知とは、常に恐怖を孕んでいる。まさしく私は未知にしこたま殴りつけられ、打ちひしがれているに違いなかった。しかもその顔は笑っているのだから、もはや救いようもなかった。ハイライトを二本吸った。夜風の中で冷やされたそれは旨かった。ニコチンを得た体は満足したのか疲労を感じ始め、帰路を急げと心を急かした。

 中央道はくねりながら進み、大月の看板が視界の隅に現れるようになった。いよいよ私は帰ってきたぞ、と心が踊り始めた。非日常からの帰還というのが、正直な思いだった。彼女は私の作り出した幻影で、この二日間の出来事は夢だったのではないだろうか。そんな事を真面目に考えてしまうほど、私の今までの人生は遠いどこかに押しやられていた。なるほど、それならば私は幸福に違いない。また口角が緩むのを感じて、これほど笑ったのもいつぶりだろうかと遠い過去のことを思い返した。

 慣れ親しんだ道は早々に過ぎ去って、視界の外に消えていった。甲府南インターチェンジを降りると、俄かに雨が強くなった。高速道路を走っている時ではなくてよかったと思った。ここに辿り着いて私は、私の運命は私の命を奪う気はないらしい、と漠然と感じ始めていた。そう思うと、その暴力的な力がどこか頼もしく感じた。運命という理不尽が善悪の区別をつけないのならば、味方になる時もあるだろう。それが今なのかもしれないと、随分と楽観的な事を思った。

 すっかり慣れ親しんでいる下道に車を走らせながら、私はコンビニエンスストアを目指した。そこも慣れ親しんだ店舗だった。まさにそれは、日常の象徴だった。すっかり私の気は緩んで、そのおかげか幸福感は次第に増してきていた。彼女を愛している。しかしそれは罪には違いない。私のこの二日間の行為も、罪であることに違いない。それならばあとは…なるようになるだろう。私はするべきことをするだろう。それだけだ。罪には罰が、自然と下るに違いない。受け入れる他はない。そう思った。

 すっかり雨の強まったコンビニエンスストアの喫煙所で、私はまたハイライトを吹かしていた。ここまで来れば自宅までは二十分もあれば着く距離だった。慣れない高速道路を抜けた安堵は、私にじんわりとした疲労感と、落ち着いた思考を齎した。彼女の顔が脳裏にはっきりと浮かんでいた。


『山梨、着いたよ』

『よかった』


 スマートフォンのやり取りに口角が緩んだ。全く馬鹿らしいと思った。そしてなんで暴力的な、抗いがたい出来事だろう、と思った。彼女との関係の変化の中で、私のやるべきことはたくさん残っていた。だがそれすら、私には必然のように思えてならなかった。

 落ち着きを取り戻した思考は、今とばかりに自らの不義理と倫理観の無さと、不貞を攻め始めた。しかしその理性の努力も、大した意味を持たなかった。私も随分堕落したものだ、と思いながら、私はなお笑っていた。堕落すら運命だと言わんばかりに、また頭上には蜘蛛が大きな巣を作って、じっとしていた。芥川が歯車を幻視したのなら、私はこの蜘蛛の巣に運命でも幻視してみようか、などと考えていた。

 この蜘蛛の巣こそ私の運命の糸で、彼女が仮にその糸を結った女郎蜘蛛だとしたら。…そうだとして、それが何だというのだろう。そこにはなんの悲嘆もなかった。


 愛したものに喰われるのなら、そもそも本望ではないか。


 笑いながら、私は彼女に電話をかけた。…

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帰り道 鹽夜亮 @yuu1201

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