エッジクラフトミステリー
卯月 幾哉
デジタル鑑識員 氷川玲子「データは嘘をつかない」
氷川玲子のオフィスは、白とグレーで統一され、余計なものは一切置かれていない。彼女の思考の中と同じように、全てが整理整頓されている。
デジタル・フォレンジック調査員。それが彼女の肩書だ。人の感情より、0と1で構成されたデータの整合性を信じる。
「この動画が、ディープフェイクだと証明していただきたい」
目の前の弁護士は
玲子に持ち込まれた案件は、弁護士が受けた依頼に関するものだ。
弁護士に依頼をした者の名は
その橘が、反社会的勢力から金銭を受け取る場面とされる動画がネットにリークされ、彼の政治生命は風前の灯火となっていた。
「科捜研も合成の痕跡は発見できなかったそうですね」
「はい。橘は断固として『事実無根だ』と主張していますが、もはや我々には打つ手が……。最後の望みとして、警察組織とは独立した立場から、最高の技術をお持ちのあなたを頼るしかなくなったのです」
玲子は頷き、解析作業に取り掛かった。
ピクセル単位での映像ノイズの不整合性、音声スペクトラムの微細な歪み、圧縮アルゴリズムの痕跡。考えうる限りの鑑定手法を試すが、動画は鉄壁だった。なるほど、これでは科捜研もお手上げのはずだ。
犯人は、最新鋭の生成AIを使い、完璧な偽物を作り上げたらしい。玲子の眉間に、珍しく皺が寄った。データがこれほどまでに雄弁に「嘘」をつくことがあるとは。
数日が経過した。玲子はオフィスに泊まり込み、モニターと睨み合っていた。
技術的なアプローチでは埒が明かない。彼女は思考を切り替えることにした。データそのものではなく、データが写し取った「現実」を検証する。
彼女は動画をコマ送りし、映り込んでいる全ての「モノ」に意識を集中させた。テーブルの木目、酒瓶のラベル、男たちのスーツの生地。そして、橘とされる男の左腕で鈍い光を放つ、腕時計に目が留まった。
大ぶりのクロノグラフ。特徴的なデザインだ。
玲子はすぐさまブラウザを開き、高級腕時計ブランドの公式サイトを片っ端から検索し始めた。膨大なアーカイブの中から、酷似したモデルを見つけ出すのに、そう時間はかからなかった。
『A社製、アストラルシリーズ。限定モデル』
玲子の指が、スペックシートの上を滑る。
そして、ある一点で動きを止めた。
『発売日:2025年8月15日』
玲子はカレンダーを確認する。
今日は、8月10日。
次に、リークされた動画の撮影日とされる日付を確認する。
ファイルに付与されたタイムスタンプは、半年前の『2025年2月6日』。
玲子の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。それは難解なパズルが解けた時のような、知的な満足感を示す表情だった。
††
翌日、玲子は弁護士と橘本人に鑑定結果を報告した。
「結論から申し上げます。この動画は、ディープフェイクです」
橘の顔が、わずかに輝いた。
「技術的な痕跡は見つけられませんでした。これでは科捜研がお手上げだったのも無理はありません」
「では、どうして……」
玲子は1枚の画像をモニターに表示した。
問題の動画から切り出した、腕時計のアップだ。
「動画の中であなたが着けているこの腕時計。A社のアストラルシリーズの最新限定モデルです」
彼女は淡々と続ける。
「このモデルの公式発表及び発売日は、5日後の8月15日。まだ市場には1本も出回っていません」
弁護士と橘は、息を呑んでモニターを見つめた。
「動画の撮影日とされるのは、半年前の2月6日。存在しないはずの腕時計が、そこにはっきりと映り込んでいる。これは、動かしようのない時系列の矛盾です」
犯人は、橘の偽の映像を作るにあたり、彼の普段の服装や持ち物を忠実に再現しようとしたのだろう。
ネットで彼の画像を検索し、最近身に着けていた腕時計を特定し、それを動画内で合成した。しかし、その「最近の画像」が、発売前の最新モデルを特別に試用していた橘を撮影したものだとは気づかなかったのだ。
「データは完璧に偽装できても、未来までは偽装できなかったようです」
玲子は静かに締めくくった。
この鑑定結果は、記者会見で公表され、形勢は一気に逆転した。
後に、ライバル陣営の秘書が、橘を貶めるためにディープフェイク動画を作成したことを認めて逮捕された。
事件が解決した後も、玲子の日常は変わらない。
ただ、デスクの隅に置かれたカレンダーの日付を、彼女は静かに指でなぞった。0と1の世界の向こう側にある、決して偽装できない「時間」という名の真実を、確かめるように。
(了)
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