姉さんについて(あるいは、愛の形にまつわる覚え書き)
おいしいお肉
第1話
風が吹いて鼻先にどこからか飛んできた水滴が落ちる。午後三時の街の空模様は湿り気を帯びてどこか僕を拒んでいるようだった。この街はいつも同じような面構えをしている。どいつもこいつもアスファルトのひび割れに気を取られて目の前を通る人間のことなんてお構いなしだ。全く嫌になるほど変わらないここが嫌で嫌で仕方がなくて逃げるように一人暮らしを始めて五年が経った。道も、民家の壁も、切れかけた電球も全てが薄汚れているように見えるのはきっと僕の気のせいなのだろう。
待ち合わせまではあと二十分くらいあるけれど、遅刻するのが怖くて早めに店に向かう。あの人は自分は平気で三十分くらい遅れるくせに、他人に待たされるのは我慢ならないのだ。一分でも遅刻すれば即座に怒りの連絡が飛んできて、酷ければ顔も合わせず帰ってしまう。もちろん遅刻する方が悪いのは理解しているし、間に合うに越したことはない。
けれども、自分のことを棚に上げるその姿勢が僕はどうも好きになれなかった。姉さんは昔からそうだ。
気に入らなければ烈火の如く怒り散らし、僕がどれだけ嫌がってもお構いなし。一番最初に生まれただけのくせに、お姉ちゃんは偉いんだと言わんばかりの態度で家に君臨し続けた。おかげで小学校でも中学校でも「あの姉の弟」というレッテルを貼られて過ごす羽目になった。僕の人生にはいつも姉の足跡がへばりついている。担任の先生にも部活の先輩にもついでに知らない上級生たちにも「ああ!あの」と指を指された経験が今の僕を作っている。つまるところ僕はあの人のことが大嫌いだ。それでも僕たちは姉弟だ。僕たちの原材料は概ね同じだし、産地も製造方法も嘘偽りなく同一だ。血のえにしという呪いにも似たそれを持って僕たちは家族という共同体の中にいる。
※ ※
店に入り、待ち合わせだと伝え姉さんを待つ。喫茶店の中の人はまばらだ。こんな寂れた街にあるのにわざわざ遠くから足を運びたくなるような場所だ。静かで、店員は無駄口ひとつ叩かず、店主はこちらに干渉してこない。昭和らしい古めかしく埃を被った内装は、現代ではレトロだと褒めそやされるような独特の雰囲気がある。案内されたソファに腰掛けると、窓から差し込む日差しが眩しくて目を細めた。ただ美味しいコーヒーと心を慰めるような甘いもの。それだけがある。社会も世界も家族も全てが僕を苛むけれどこれだけは僕を慰撫してくれる。
しばらくすると、また扉が開く音がして遠慮のない足音ともに僕の向かいに誰かが座った。僕はスマートフォンから視線を外してそちらを向いた。
「相変わらず陰気くさい顔してるねえ、弟よ」
一言目からこの罵倒。相変わらず姉さんは僕を弟とかお前とか呼ぶ。彼女が僕を名前で呼ぶことはほとんどない。
僕が姉さんをそう呼ぶように。
「来てくれてありがとう、姉さん」
「別にぃ……一応、顔出してやるのが筋かと思って」
姉さんはアイスコーヒーをひとつ、と店員に頼んだ。黒い髪を後ろで括った女性の店員ははい、とだけ答えて厨房に引っ込んでいく。まるで何を考えているかわからない機械じみた接客が心地いい。いかにも都会的なひとだと思った。実際のところ、あの従業員の女性について僕は何も知らないけれど。
僕の向かいに座った姉さんは、相変わらずよくわからない格好をしていた。派手な柄の開襟シャツに、視力も悪くないくせに洒落だと思ってかけている伊達眼鏡。短く切り揃えられた髪にはパーマがかかっていて、まるでポメラニアンを頭にくっつけているように見えた。僕とよく似た、僕が女ならこうなるだろうという顔立ち。僕たちはうんざりするくらいよく似ている。(化粧をしているせいなのか、姉さんの方が彩り鮮やかで肌艶も整っているけれど)
似ていないのは性格くらいのものだろう。僕たちは概ね同じくらいの知性を持ち、同じような感性を持ち、独立した器官を持って互いを嫌った。まるでそうするのが姉弟であるともいうように。
「答えは変わんないよ」
「そんな、困るよ」
僕がそう言うと、姉さんは顔を顰めた。
「どうして、母さんたちは出るんでしょ? なら、親族が一人もいないわけじゃないし、私が出る必要はないんじゃないの」
窓からさす光が姉さんの顔を照らしている。伊達眼鏡の青いレンズに反射した彼女の顔は、魔女のように歪んでいた。
「あちらの兄妹は全員出席するんだ、僕の立場も考えてよ」
「……お前の人生の見栄とか、そういうくだらないもののために私がわざわざ苦痛を引き受ける理由は何」
弟の結婚式への出席が苦痛。姉さんの言うことはよくわからない。自分より先に僕が幸せになるのがそんなに許せないのだろうか。
それとも全く別の何かがあるのか。きっと、姉さんはきっと答えはしないだろうけど。
「家族だろ?」
僕の答えに姉さんは大きくため息をついた。
「ただ血が繋がっているだけだろう」
姉さんはきっぱりとした口調で言った。僕が反論しようとした絶妙とも言えるタイミングで店員がお冷のおかわりがいるかと聞いてくる。出鼻をくじかれた僕の口からはただ少量の二酸化炭素が出ていくばかりだった。
「美園と姉さんのことは知ってる。でも、今回は……」
「くどい」
美園と姉さんは高校の同級生だった。
僕たちが知り合うきっかけは確かに姉さんだったし、パートナーになったのも姉さんのお陰と言える。
「趣味が悪いよ、あんた」
「親友が家族になるんだ、嬉しいだろ?」
「全く。悪いけどあんたも美園も大嫌いだよ」
姉さんはじっと僕の方を見たまま言った。僕は何も言えず、ただまるで親の仇のようにこちらを見る半身を見ていた。姉さんはそれきり貝のように固く口を閉じてしまった。こうなってしまえば、もうどうしようもない。
「期限までに返事をお願いするよ」
「……」
僕は姉さんに紙の招待状を渡す。けれど姉さんはこちらを見ようともしないし、招待状を受け取りもしなかった。姉さんはたっぷり三十分かけてアイスコーヒーを飲み終えると、じゃあなとだけ言って店を後にした。僕は姉さんのいなくなった空っぽの席をみる。そこには何もない。
※ ※
「夕陽くんも飽きないねえ」
僕が姉さんの説得に失敗したと伝えた時、美園は二人がけの白いソファに腰掛けたまま、こちらも見ず他人事のように言った。もう直ぐ結婚式だというのに不安がっている様子もない。二人で暮らすには少し狭い部屋とももう少しでお別れで、それは僕たちの青春やなにかが終わるような寂しさを想起させた。そんな感傷的な僕とは対照的に美園はあっさりとしていた。
「だって、姉さんが」
「そこは予想できたんじゃない?」
美園は薄い布地の部屋着のワンピースを着ていた。梅雨と夏の間の天気では肌寒さを感じそうな服装だった。
「でも……そんなのひどいじゃないか。家族なのに」
家族。僕たちはその輪の中にいる。美園をそこに迎えたいと思ったのはごく自然なことだった。僕は美園を愛していたし、美園は僕を必要としていた。僕たちは互いのためにここにいる。
「あの子にそんな道理は通じないでしょ」
美園はぼんやりとテレビを眺めながら言った。画面ではサブスクリプションで適当に選んだ映画が流れている。
僕には何が面白いのか全く分からない、古い外国のモノクロの映画だ。内容は流し見しているので大筋しかわからないが、不倫をロマンティックに描いた浮ついたものだった。全くこんなものを作る人の気が知れない。裏切られた方のことなんか何一つ考えていやしないんだから。
でも美園はその映画を食い入るように見つめていた。主演の男性の目元に漂う哀愁と退廃的な雰囲気はいかにも彼女の好みそうなところだった。
「そのせいで何度僕が迷惑したことか」
「まあ、そこがあの子の魅力でしょう」
美園はふふ、と笑った。彼女にかかれば姉さんの短所も全てが魅力となる。彼女にとって姉さんの悪態は気まぐれな猫のじゃれつきみたいなものなのだろう。
「美園は姉さんに甘いんだよ……」
「もちろん、夕陽くんのことも好きだよ ?」
美園は化粧っけのない唇を動かして言った。そうして彼女は僕の体に腕を巻きつけた。暖かくずしりと重い。僕は彼女に触れることを許されている。きっと美園の身体のどこにも痣なんてないのだろう。僕らと違って。
※ ※
「構わないよ」
交際を申し込んだ僕に対する美園の返事は概ねそんな感じだった。場所はよく晴れた大学のカフェテラスで、授業の空き時間で暇を持て余していた彼女と、姉さんの忘れ物を届けに来た僕の二人が端っこの机に腰掛けている。
僕はその時高校三年生で、美園は大学二年生だった。彼女は当時暗めの茶色に染めたショートヘアにマニッシュな格好をしていて、そうするとどこか少年のようにも見えた。彼女の根本の色が黒くなりかける前に染めに行くような細やかさが好きだった。
「……私のどこが好きなの?」
「名前が」
彼女の名前はどこか遠くの晴れやかな広い場所を想起させた。緑色の谷に燦々と降り注ぐ光や、午後の麗らかな微睡の中にある花園。そういうものを何より僕は愛した。そうして美園はその名前に相応しい穏やかさと凪を湛えていた。彼女が苛烈で意地の悪い姉さんとうまく付き合えるのもその性質ゆえだろう。
「それだけ?」
「もちろん、趣味が合うなと思っていたし一緒にいると楽しい。それに姉さんともうまくやっているし……」
「姉さんと?」
「姉さんは気難しいから。僕の恋人が気に入らないといじめるんだ」
「朝日がそんなことするかなぁ」
美園はアイスティーの入ったコップのストローをくるくると回しながら言った。僕の言うことがまるで納得いかないといった調子の声音だった。
「多分、それは夕陽くんの気のせいだよ。それか朝日を嫌いすぎるせいでそう捉えちゃうんだよ」
「そんなことない。前の子も、その前の子も、姉さんには付き合いきれないっていって居なくなったんだ」
あなたはいい人だけど、お姉さんとは付き合えない。とかお姉さんが怖くて、あなたといるのが辛い。とか。僕に非はないけれど、とまるで口裏でも合わせたようにその理由を聞かされた。姉さんに問い詰めても、あの人は何も答えなかった。それが、世界で一番重要な秘密だとでもいうように。
その頃の姉さんと僕の関係は概ね思春期の異性の血縁者たちがたどるように、ある種の嫌悪感とべたつくような許容と、うまく表現できる気のしない怒りのようなものに満ちていた。僕たちは同じ家に住みながら一言も口をきかないこともしばしばあった。
「その点私なら安心ってこと?」
「そう。それに何より、美園さんの願いを叶えられるのは僕だけだよ」
「そこを出されると弱いなぁ」
美園は困ったように微笑んだ。その唇が描く曲線の、なんとも言えない魅力が僕を捉えた。姉さんの忘れ物を渡して欲しい、という口実をつけて彼女を呼び出したのはやっぱり失敗だったのかもしれない。
言い換えるなら、美園は姉さんを物事の基準として世界を見ている。姉さんは孤独な鯨のようにひとつの個として完結していた。彼女は根本的に人生に他人を必要としなかった。関わることが嫌いなわけでもない、ただそこにあるだけの大きくて孤独な生き物。美園は姉さんのそういう静謐さに惹かれて、友人として関わることを許された数少ない人物の一人だった。
僕は姉さんから彼女を奪おうとしている。
「きみがそれでいいなら、私は構わないよ」
構わないよ。もう一度美園はそう言った。そうして僕たちは付き合いを始め、順調に段階を踏んだ。そうして結婚を決めた。僕たちは人生を共に歩むためにその制度を利用する。それに躊躇いはなかった。
※ ※
姉さんと美園の間に起きたことについて、僕はそう多くのことを知らない。というのも二人の間には確かに友情があったはずだが、三年前の春に美園と姉さんは徹底的に友情を破壊し尽くしそれきり断絶した。事実として。三年前の春。そう書くといかにも示唆的で、意味ありげに聞こえるけれど僕にはただの事実でしかなかった。そのとき僕は二十三歳で、美園は二十五歳だった。
「僕のせい? 」
「違うよ」
「じゃあどうして」
「事故みたいなものだよ。あるでしょう、そういうこと」
美園はそれを惜しむでもなく、ごく自然の摂理であるかのように言った。彼女にはもうそれが過ぎ去った出来事でしかないのだ。
「でも、すごく仲が良かったじゃないか」
何をするにも一緒で、お揃いのキーホルダーを鞄につけて、放課後はともに勉強をして、休日には遠くに出掛けて、時折二人だけで旅行に出かけたりもしていた。ごく一般的な感覚として、そういうものは親密な友人に該当するだろう。僕にそういう類の友人はほとんどいない。
姉さんが気難しく人を遠ざけるように、僕は同世代の同性の幼稚さや騒がしさに、言いようもない嫌悪感を抱いていた。だから、そういうものに嫌われようが遠ざけられようがどうでも良かった。
でも姉さんはきっと違うだろう。
「まあね。だから、朝日は許せないんでしょう」
「姉さんはいつからそんな薄情になったんだろう」
僕の呟きに美園は答える。
「逆だよ、夕陽くん」
「逆? 」
「あの子は逃れたいの、全部から」
美園はそう言って笑った。僕はその言葉の意味の裏側にあるものについて考える。例えば僕が姉の足跡に疎ましさを感じるように。姉さんは僕の存在に何かを感じていたのだろうか。子供の頃、姉さんに置いていかれたくなくて必死で跡をついていった僕に冷たく「ぐず」と言った彼女の瞳。恋人とのデートに遅れそうな僕を車で送ってくれた姉さん。母の日に一緒にプレゼントを選んだ時、カーネーションの花束だけは頑なに避けた姉さん。(実際母さんは花を生ごみと同等だと公言して憚らない)美園と出かけるために新しい服を買いに行った後ろ姿。僕と二人で歩いていて恋人と間違われとても嫌そうな顔をする横顔。僕はそれらを今でも鮮明に思い出せるのに、肝心の姉さんの気持ちだけは何一つわからなかった。全部は僕の記憶の中で美化された、僕の感情を通して歪められた像に過ぎない。
だから美園の中の姉さんと、僕の中の姉さんは同じようで全くの別人なのだろう。美園しか知らない姉さん、僕はそれに触れることができない。美園はそれを宝物のように箱に仕舞い込んで、蓋をしてしまう。多分彼女はそれを語らないだろうし、踏み荒らされることを望まない。
だから僕は、美園の敷いた境界線の向こう側に座り込んで彼女の横顔を眺めている。いつまでも少女のまま笑うふたりを。
僕は争い事が得意じゃない。というのも、自分をコントロールするのが難しいからだ。幼い頃は何度も姉さんと殴り合いの喧嘩をしたし、互いに生傷を負いながら母さんに叱られた。流石に僕の体が大きくなって、僕たちの間に埋め難い力の差が出来てからは、そんな風になりふり構わず喧嘩をすることもなくなったけれど。僕はそれを良い思い出とは言えない。
僕ら史上最低の喧嘩、といえば僕が小学六年生で、姉さんが中学二年生の時のことだった。きっかけは覚えてもいないくらい些細なことで、僕たちは口論になった。やがてそれは熱量を増し、暴力を伴うものに変わった。僕たちは怒りに突き動かされて、ただお互いを貶めるために蹴ったり殴ったりした。僕も姉さんも、動物のように唸って怒って泣いて、お互い鼻血を垂らしながら青あざまみれになるまでもみくちゃになった。僕たちがそんな調子だからもちろん子供部屋の中は荒れに荒れたし、部屋の壁にはその時の傷がまだ残っている。帰ってきた母さんと父さんが必死に僕たちを止めて、ようやく僕たちは殴り合うのをやめた。
両親にどちらが悪いのかと聞かれた僕たちはお互いを指さした。なのでその件は喧嘩両成敗ということで有耶無耶になった。それきり僕たちは肉体的な部分で衝突することは無くなった。僕はあの日の姉さんのワイシャツにこびりついた赤い血が未だに忘れられない。
たがが外れた人間は、何もかも忘れてあんな風に人を傷つけられる。そうして、その片鱗が子供の僕の中にも存在している。
僕はその事実がひどく恐ろしいと感じた。
※ ※
結局姉さんは両家顔合わせにもリハーサルにも顔を出さなかった。それどころか両親の連絡もほとんど無視しているようで、一時は母が心配のあまり塞ぎ込んでしまう始末だった。父さんは何も言わなかったけれど、それでも姉さんを心配しているのだけは痛いくらいに伝わってきた。でもどうしようもなかった。姉さんは現れなかったのだ。
僕は控え室で式が始まるのを待っていた。仲人を務めてくれる友人や、参列者に挨拶をして回ったり、式場スタッフと直前の流れをもう一度確認した。美園は落ち着き払った様子で粛々と挨拶をこなし、僕たちは始まりを待っていた。
ちょうどその時だった。
「よう」
なんの前触れもなく、姉さんは控え室に現れた。姉さんはそれだけ言った。おおよそ、結婚式に参列するにはふさわしくないカジュアルな服装で、手には水引すらついていないシンプルなクラフト紙の封筒を持っている。真っ黒なシャツに、グレーのスラックス。ローファーを履いた姿は紛れもなくいつもの姐さんだった。非日常で彩られた控え室の中に、日常そのものの姉さん。二つはまるで噛み合わなかった。
「来てくれたんだね」
「……受付の子が入れてくれた。はい、手切金」
受付の係は美園の友人——つまり姉さんの顔見知りである可能性が高い。僕は姉さんがその人を脅したりしていないことを祈った。そんな僕の心配を知ってか知らずか、姉さんはクラフト紙の封筒をこちらに寄越した。僕はそれを受け取り机の上に置き、立ち上がる。
「……美園を呼んでくるよ」
僕と姉さんの姿が控え室の鏡に映る。鏡越しの姉さんはなんだか別人のように見えた。
「いや、いい。もとより顔を合わせるつもりはない」
姉さんはキッパリと言った。引き留めなくてはと思うのに、何もうまい言葉が出てこない。どうでもいいことはいくらでも言えるのに、どうして肝心な時には役に立たないのだろう。
「どうして」
「惜しくなる」
姉さんは微笑み、それだけ言って控室からいなくなってしまう。花園の向こう、少女のかたちをした姉さんの幻覚が消える。
姉さん、と僕が呼ぶより先に彼女の後ろ姿が遠ざかる。追いかけようと立ち上がった時に、式場のスタッフが僕を呼びに来る。扉の向こうにもう姉さんの姿はない。それきり、姉さんは僕たちの人生に姿を表すことはなかった。まるで夢か蜃気楼のような出来事だったから、僕はそれを美園に話せずにいる。
美園は式の間中、幸せの絶頂にいる花嫁を演じきり僕の隣を歩いてくれた。美園は一番に愛するものがすでに失われつつあることを感じ取りながらも、それをおくびにも出さなかった。だから僕は彼女を愛している。
※ ※
美園が子供を産んだのは、結婚して二年が経った頃のことだった。僕たちは初めから計画してそれを行い、無事子供はここにやってきた。僕によく似た——つまりは姉さんによく似た、意志の強い燃えるような瞳の女の子だった。僕たちは赤ん坊に月夜と名づけた。
月夜は順調に育ち、溌剌とした輝きに満ちた少女になった。月夜は時に美園のようであり、ぼくのようであり、そうして姉さんのようでもあった。つまるところぼくたちの性質を色濃く受け継ぎながら、混ざり合い複雑な模様を描く全く別の個人になった。それでも僕たちは時々月夜の中に姉さんの面影を見出し、悲しみや郷愁に耽った。
「父さん」
「なんだい、月夜」
「名前の由来、教えて。学校の宿題なの」
月夜はつんと澄ました声で言った。こちらをじっと見つめる瞳はどこか年に似合わぬ鋭さがある。
「……んー、お前にはね。おばさんがいるんだよ」
「会ったことない、本当にいるのぉ? 」
「うん。僕は夕陽で、おばさんは朝日だったからお前は月夜になったんだ」
「真昼じゃなくて? 」
「まひるも候補にあったんだけどねえ。きみはお月様のきれいな夜に生まれたから、月夜になったんだ。お昼に生まれてたらまひるだったかもしれないね」
なにせ月夜はとても大きくて生命力に満ちていたから、ここにやってくるのには随分時間がかかった。美園はひどく苦しんだ。彼女の肉体のダメージは色濃く残り、元の調子に戻るまでは大変な道のりだった。
当然だ、人が一人。腹の中で作られて、育って、生まれてくるのだ。彼女の負担は凄まじいものだった。出産というのは、ある意味神様からの嫌がらせなんじゃないかとすら思った。僕が変わってあげることができたのなら良かったのに。
「ふうん、なんかつまんないの」
月夜は唇を尖らせて言った。十歳になった彼女は時折驚くくらいにわがままで、聡明で、愚かで、愛らしくて、憎たらしい。子供というのは恐ろしい。何も知らないようで全てお見通しなのだ。僕たちは家族というものの中にある、血という幻覚に惑わされている。
「ねえままぁ! なんでこんなつまんない人と結婚したの」
月夜が呆れたように言った。その声を聞いて、僕たちのいるリビングからほんの少し離れたキッチンでせかせかと動いていた美園が、ひょっこりと顔を出す。
今日は彼女が夕飯担当で、明日は僕の番だ。何を作ろうか今から憂鬱だ。
「ん〜?そうだなぁ、そのとき結婚できる人の中で一番好きだったから」
美園は一瞬だけちらっとこちらを見て、そう言った。彼女のもって回った言い方月夜は不思議そうに首を傾げる。
もしも、という過程が無意味なのは知っているけれど、それでも時々考える。僕らを見たら姉さんはなんと言うだろう。
「なんだそれ」
月夜は言う。
「僕は幸福ってことさ」
僕は言う。明日はカレーにしようかな、とも考える。
やっぱりあなたは気持ちが悪い、というのかもしれない。そんなことを考えると自然と口元が緩んでしまうのは、歳をとったせいかもしれない。僕は姉さんが大嫌いだけど、それでも寂しさを覚えるのだ。姉さん、僕たちは生きる。あなたのいない世界で。
姉さんについて(あるいは、愛の形にまつわる覚え書き) おいしいお肉 @oishii-29
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