アウトボクサー

川野遥

プロローグ

1.中学3年

アンダージュニア王座・決勝戦

「あっ!」


 法上京一はその瞬間、自分が決定的なミスをしたと理解した。



 僅か0コンマ何秒、


 いや小数点第二点以下に至りそうな短時間の前、


 彼はリング上で強烈な右フックをボディに受けた。


 この試合、初の被弾。


 だが、とてつもなく重い。


 その一撃に、彼は数センチほど膝を落とし……


 そこで踏みとどまった。


 しかし、次の瞬間、それが間違いだったと気づく。


 僅かな体勢のズレに、それを立て直す時間、


 これまた0コンマ何秒であるが、相手には十分すぎる時間だ。


(ダウンしておいた方が良かったか?)



 対戦相手……稲城希仁は中学生にして『雷神』という勇壮な名前で呼ばれている。


 次の瞬間、その呼び名の由来を、法上は身をもって理解した。


 最初の被弾が強烈な雷撃なら、二発目は雷光だ。


 凄まじい速さのパンチというものは、見えたと思ったら食らうような一撃がある。


 そうではない。


 痛みが来てから、相手が腕を出す仕草が見えたように感じた。


 見た光景が眼から神経を通じて脳に届くよりも速く、パンチを射貫かれた?


 そんなことがあるのだろうか?



 しばしの間、真っ白になった。意識が飛んだ。


 取り戻したのはレフェリーの声によってだ。


「……セブン!」


 そこが気を取り直す。


「エイト、ナイン」


 エイトで自己の状況を理解した。


 ナインを言い終わる頃に、自分が倒れてカウントを数えられていると理解した。


 そこからすぐに立ち上がり、戦闘続行は不可能だ。


 意識に身体がついていかない。


「テン!」


 この瞬間、法上京一はアンダージュニアタイトル・57キロ級での準優勝が決定した。



 頭は大丈夫なように思えたが、KOされたのだから試合後の挨拶は省略だ。


 倒れ方も派手だったせいか、担架に乗せられて医務室に向かうことになった。


 そんな半病人に対して、セコンドについていた尾崎望は容赦ない。



「アホか、おまえ。ボディ食らった時に我慢せんと膝ついておけば良かったんや。そうすれば判定で勝っとったわ」



 採点におけるダウン判定は、プロの方がアマチュアよりも厳しい。


 プロはダウンがあればそのラウンドは10-8となり、ダウンした側がかなりの劣勢となる。


 アマチュアにおいても、ダウンさせた側にはもちろん有利な採点がつくが、それはプロほどではない。ダウンがあっても10-9にとどまることはありうる。


 3Rのこの試合、法上は最初の2ラウンドを取っていた。


 明白に勝っていたわけではない。


 両者共に有効打といえるようなものはなかった。


 しかし、リングジェネラルシップ……主導権は法上が間違いなく取っていた。


 リーチの長さとジャブのスピードを生かし、稲城よりも多数のパンチを放っていたからだ。



 最初の2ラウンドが10-9で法上。


 最終3ラウンド目も残り30秒までは優勢だった。仮にダウンを喫して残り時間を逃げ切ればトータル勘案では多分10-9で稲城のラウンドだ。


 そうすれば試合を通じて29-28、法上の勝利となった可能性が高い。


 しかし、現実はそうならなかった。


 ダウンを踏みとどまった結果、追撃のパンチを受けてKO負けである。



 医師のチェックはすぐに終わった。見た目に脳震盪などの状況は見られないので、ひとまず問題ないということだ。


 とはいえ、KOされたから定期的に診る必要はあるし、しばらく安静にしている必要もあるだろう。


「ヤバいからダウンして勝ちを取るようなボクサーは人気が出んやろ」


 法上はようやく言い返すが、尾崎も負けていない。


「アホか、おまえ? おまえのスタイルでどないなことやったら、人気が出んねん? どうせ不人気。いつだってヒールや」


 言われたい放題である。


 法上はまた言い返す。


「いや、ダウンしたから10-8やろ。28-28なら向こうの勝ちや」


 プロなら同点の場合引き分けであるが、アマチュアの試合では引き分けがない。採点が同点の場合には、試合全体を通じてどっちが上だったかで決着がつく。


 その場合は稲城だろう。


 法上は相手にクリーンヒットを当てていない。一方で自分はダウンするパンチを受けている。


 つまり、ダウンして逃げたとしても結局負けていた。


 だから踏みとどまって、次の展開に臨むべきだった。



 このあたりはジャッジ個々の判断によるもので正解はないが、選手とセコンドは互いに自己判断の正当性を主張しあう。



 しばらく悪態をつきあっていると、ノックがされた。「どうぞ」とジムの者がドアを開けると、勝った稲城が入ってきた。


「大丈夫だということで挨拶に来ました」


 リング上の雷神という異名がどこに行ったのか、リングを下りると苛立つ者がいそうなほど丁寧過ぎる口調だ。


 もっとも、法上は別に有難くも何ともない。


「……負け犬を見に来たようにしか見えへんけどな」


 法上の言葉に、稲城は「とんでもない」と頭を振る。


「最後、貴方がやらかしてなければ負けていたのは私の方ですよ。あのボティの後はすぐに膝をつくべきでしたね。カウントを取らせて、あとは逃げ回っていれば判定で勝てたはずですよ」


「……おまえもこいつの立場かい」


 対戦相手からの冷静な指摘を受け、法上は渋い顔になる。


 一方、尾崎は「ほれ見たことか。俺の言う通りやろ」とドヤ顔を決めている。



「クリーンヒットが一発もないのに判定で勝ってもオモロないわ」


「二発ありましたよ? ダメージはないですけれど」


 慇懃無礼な物言いながら、「おまえのパンチは効かなかった」というあたり、頭に来る。


「あれだけリード突いて、二発しか当たらん時点で俺の負けや」


「それを言うと私も二発しか当たりませんでしたからねぇ。正直、あそこまで中に入れないとは思いませんでしたよ」


「……そこは研究したんや」


 雷神とも呼ばれる稲城とまともに打ち合ったら、命が幾つあっても足りない。


 徹底的に動きを予測し、長いリーチを生かしてひたすら自分の距離で戦い続ける。


 99パーセント実践できたが、最後の最後で失敗してしまった。



「まあ、また練習や」


「そうですねぇ」


「おまえと同級生で同階級やと、高校でもタイトル取るのは大変や」


「そうですねぇ。私も貴方と何回もやったら一度くらいは負けそうですし」


「……おまえ、そこは半分くらいって言えや」


 丁寧なように見えて、しっかり自分の方が強いと認識している。


 しかも、実際にその通りだと法上も思っていた。だから、本当に嫌になる。



(とはいえ、こいつと最終ラウンドまで出来たというのも事実や……。最初の時からすると、ここまで来れたとも言うべきか……)



 法上の脳裏に、最初に稲城を見た時のことが思い浮かんできた。


 一年前のことである。

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