二 ケイカ新報
※ ※ ※
号外号外!
客引きにも似た大きな声と共に、屋根の上にいた男が新聞を撒いた。まるで桜の木に灰でも撒くかのような様子で、男は建物の下に群がった人々へと新聞を撒き散らしている。まだ刷りたてなのだろう。新聞特有の墨の匂いが漂って、そして消えた。
夜光の足先に触れた茶色い新聞を拾い上げれば、そこには『赤薔薇炎上、叶わぬ戀の結末は』という大きな見出しがある。こういうものがどうしてだか顕は好きらしいと、夜光は一年間で学習している。
足を止めた夜光の隣で、舌打ちをした誰かが歩いていく。大方夜光にぶつかりかけて寸でのところで避けたとか、そんなところだろう。日暮れ刻の箔ノ江通りで人の流れに堰を作るように立ち止まっていては、確かに邪魔だ。せかせかと焦るように歩く人々は、前に立っている人間の姿など見ず、自分の足元ばかりを見ていた。
未だ男が新聞を撒いている建物の下には、人だかりができていた。先を急ぐ人々はその人だかりを避けて足を進め、夜光もまたそっと人だかりから離れていく。
「嫌だこれ、瓜生家の事件じゃない? 赤薔薇様の」
「ああ、あの。御華族のお嬢様が焼死したとかいう……」
「男性との噂が多い方だもの、どなたかの悋気に触れてもおかしくはないわよね」
「それがどうもそういうのではないらしいのよ」
遠ざかっていく中にも、人々の声が混ざって夜光の耳にも届く。
彼らの噂する『赤薔薇様』という女性は、瓜生
拾い上げた新聞記事に目を通す。どこが真実なのか疑わしくなるような、そんな小説か何か、物語のような書き口だった。これは果たして新聞記事と言えるものなのか、そんなことを考えつつ、夜光は新聞を懐にしまい込む。
新聞に書かれた『ケイカ新報』という名前は、瓊花から取ったものだろう。そもそも『ケイカ新聞』とか『ケイカ日報』とか『
「赤薔薇様ってあれか。死体が消えたとかいう」
「らしいな。隠の仕業って話だろ?」
「うう、嫌だ嫌だ。何だって隠も死体なんか持って行くんだか」
「さあ? 隠は顕を喰うって聞くし、食い物にでもするんじゃないか?」
彼らは話しながらも、最後には「よく知らないけどな」と付け足した。彼らにとって隠などいないものであり、すぐそこにいるのに実感のないものだろう。けれど何かしら不可解なことがあれば顕はすぐに隠のせいにする。
道を歩き、門のところで折れて――夜光は古書店へと辿り着く。からりと引き戸を開け、巴衛に「ただいま戻りました」と声をかけた。
「おかえり、夜光。今日は何か面白いものでもあったかい?」
「いつもそれを仰いますね、巴衛さん。面白いもの……というわけではないのですが、新聞ならば号外を撒いているところに行き会いましたので、拾いました」
箔ノ江通りでばら撒かれていた『ケイカ新報』が巴衛の言う面白いものに当て嵌まるかは分からないが、夜光が古書店に持ち帰ってきたものといえばそれくらいしかない。
畳んで懐に入れていた新聞を取り出して広げてみても、『赤薔薇炎上、叶わぬ戀の結末は』という大見出しが変わっているはずもなかった。
巴衛の前にそれを差し出せば、彼女は煙管を持ったまま新聞にじっと視線を注いでいた。何度かまばたきをして視線が動いたと思えば、彼女は赤い唇を吊り上げる。
「へえ?」
これは、面白いものだったのだろうか。夜光にはとんと分からないが、巴衛が笑みを浮かべているということはそういうことだと思って良いのだろう。
「瓜生家の。赤薔薇様が焼死したってやつかい」
「はい」
「異母妹の白薔薇様が中庭で遺体を発見したってのに、使用人を呼びに行ってる間に忽然と遺体が消えちまったんだろう? それに、焼けた痕跡も。まったく、妙な事件もあったもんだね」
遺体が忽然と消えるはずがない。肉の器というものは、そんな簡単に消えたりしない。
瓜生家の庭で赤薔薇様、つまり瓜生紅子は焼死して、そしてその遺体を異母妹である白薔薇様――瓜生
この『ケイカ新報』にも、その内容は書かれていた。他の新聞でもまた、同じように。それから人々の口に上る内容も、同じだ。
「夜光、どう思う?」
「どう……とは」
水を向けられて、夜光はことりと首を傾げる。
「この事件さ。犯人は顕か、隠か」
御華族のお嬢様が焼け死んだ。そしてその遺体は消えてしまった。ぐるりと思考を廻らせてみても、やはり夜光には何も分かることがない。顕か隠かと問われても、どちらもできるでしょうねという、そんな曖昧な答えしか浮かばなかった。
遺体が自然に消えてしまうということはない。顕であれ隠であれ、運んで隠さなければ遺体は消せない――とそこまで考えて、ふと思い当たったのはあの火車だ。あれは、遺体を運ぶもの。けれど焼けた痕跡は、火車に隠せるようなものでもない。
「私には、皆目見当もつきません」
「返答が早いんだよ、アンタはいつも」
夜光としてはそれなりに考えたつもりであったのに、巴衛には苦笑されてしまった。それほど早くに返答をしただろうかと、夜光はもう一度首を傾げてしまう。
「ま、良いさ。顕だろうが隠だろうが、人に害をなしたことに変わりはないんだからね」
巴衛が煙管に口をつけて、また煙を吐き出している。そして彼女はまた新聞に目を通し、今度は意地悪そうに口の端を吊り上げる。巴衛のこういう顔を見ていると夜光はいつも思うことなのだが、一括りに笑顔と言っても、その種類は色々とあるらしい。
「しかしまあ、こいつはどこぞの三文小説か何かかい? 今時女学校の生徒向けの恋愛小説だって似たか寄ったかを嫌がって、もうちっとばかり展開を捻るだろうに」
「はあ、そういうものですか」
小説のよう、という巴衛の意見には、夜光も同意する。けれど今時の女学校の生徒が好んで読む恋愛小説の類というものを、夜光は知らない。言われたからといって読もうという気にはなれないので、おそらくこの先も知ることはないだろう。
物語のような書き口の記事は、瓜生紅子の道ならぬ恋について語っている。恋をしてはならない相手に恋をした瓜生紅子の、悲劇の物語。そういう風に形容するのが、一番正しいだろうか。
「道ならぬ恋に落ちた御華族のお嬢様。今生で結ばれぬのならばせめて次の世で、ってねえ。華族のお嬢様なんだろう、遊女でもあるまいにさ」
「遊女」
「葭ノ原の赤線郭町じゃままある話さ。痴情の縺れで遊女が殺されちまったとか、通ってくる客に本気になっちまった遊女が客を殺しちまったとか、身請けを拒んで
「はあ、まあ……そうですね。だからこそ、あの場所は隠が生まれやすいですし」
葭ノ原には、身を売る女たちがいる。それは商売であり、事情は様々あるらしい。華鳳は確か、借金だと言っていただろうか。親が借金の形に、華鳳を売ったのだと。
とはいえ世間では色々と取沙汰される彼女たちであるが、夜光にとってはすべて顕という括りでしかないのも事実だ。
ねえ、夜光。
鈴を振るような声が、耳の奥でよみがえる。「あの場所も一度見てみたいのよ」と言った彼女の真意はどこにあったのだろうか。それをあの時、問えば良かったのかもしれない。声には出さずに、「紅梅様」とその名を口の中で転がした。
紅色をした愛らしい梅の花は、とうに崩れて消えてしまった。どれだけ恋しく思っても、どれだけ会いたいと願っても、夜光の目の前に彼女が顕れることはない。そもそも夜光の手の中で、彼女の首は崩れていった。
あれから。
あてもなく、紅梅様を殺した相手を探している。顕の中に紛れながら、あてもない捜索など暗闇の中を手探りで進んでいくのと同じであって、一筋の光も見えはしない。それでも夜光は、神を喰らった者を探すのだ。こういうものを顕は『仇討ち』と呼ぶのだ。
そしてまた、夜光も。紅梅様の仇を討て――何度となく、自分に言い聞かせている。
「ああそうだ」
考え込んでしまった夜光をどう思ったのか、巴衛が声音を変えた。ふっと引き上げられるようにして意識は現世へと戻り、夜光は引き上げられる勢いのままに顔を上げて巴衛を見る。こんこんと煙管の先が盆を叩いていた。ほんの少しだけ、火皿の上に灰が落ちていく。
「玉蟲楼に、ちょいとまた遣いに行っておくれ。要らない手習いの本を引き取って欲しいって話でね。買い取るにしても物を見ないとだ、持ち帰ってきてくれるかい」
「かしこまりました」
「アンタが変なのに引っかかるとは思わないが、いつも通り葭ノ原では気を付けるんだよ」
「……はあ、分かりました」
夜光の返答に、巴衛は何も答えなかった。彼女は無言を貫いたまま、また煙管に口をつける。ふっと吐き出された煙はふわふわと漂って、天井に届く前に消えてしまった。まるでどこにも還れなかった、天人のように。
新聞の終わりはこう締めくくられていた――この世で結ばれぬならば、せめてあの世で。その赤薔薇様の切なる願いが叶うことを、願っている。と。
それがまるで死を飾り立てているようであり、夜光はその気持ち悪さに眉を顰めた。死というものは平等で、そこに美しいも醜いもありはしない。それなのにどうして、顕はこんな風に死というものを美化したがるのだろう。
最期にはみんなみんな揺られ、流れ。海を渡る、それだけなのに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます