量子考古学 ― 過去を観測した者たち

ソコニ

第1話「黄金のマスク」



### 【観測記録】


観測日: 2095年3月15日 03:47 UTC

対象時代: 紀元前1323年 推定秋季

観測対象: ツタンカーメン王墓 第一室開封

量子干渉度: 0.003%

状態: 許容範囲内

モチーフ: 黄金のマスク(不変への願い)





## 一


リナ・カーンは、過去を見た最初の人間になった。


それは2095年3月15日、午前3時47分のことだった。スイス・ジュネーブ郊外の量子考古学研究所。地下50メートルの観測室。12台のモニターが、何も映していない暗闇を映していた。


「量子もつれ確立。安定しています」


物理学者のユキ・サイトウが、淡々と報告する。彼女の指が、ホログラム画面上を滑る。数式が流れる。波動関数が収束していく様子が、グラフで表示される。


リナは息を止めた。32歳。量子考古学者。この瞬間のために、10年を費やした。


「対象時代にロックオン。紀元前1323年、誤差プラスマイナス2年」


ユキの声が、観測室に響く。


リナの隣で、上司のエイダン・トレスが身を乗り出した。45歳。この研究所の所長。彼の目が、興奮で光っている。


「いける。絶対にいける」


エイダンが呟く。


リナは頷いた。喉が渇いている。心臓が早鐘を打つ。


過去を見る。ただ見るだけ。触れることはできない。変えることもできない——はずだった。


「QARA、観測を開始して」


リナが言う。


観測室の天井から、合成音声が応答する。


「了解しました、リナ。量子観測システムを起動します」


QARA——Quantum Archaeological Research Assistant。この研究所を制御するAI。人間の言葉を理解し、観測のすべてを管理する。


モニターが明滅する。ノイズが走る。そして——


画面に、光が生まれた。


---


## 二


最初に見えたのは、石だった。


砂岩の壁。薄暗い。松明の炎が揺れている。


「映像安定。これは...墓の内部です」


ユキが息を呑む。


リナは前のめりになった。画面の中、松明を持った男がいる。20世紀初頭の服装。ハワード・カーター——イギリスの考古学者。1922年、ツタンカーメンの墓を発見した男。


「時間軸確認。西暦1922年11月26日。カーターが第一室の封印を破った瞬間です」


QARAが告げる。


しかし観測の目的は、1922年ではない。もっと古い時代。墓が閉じられた瞬間——紀元前1323年。


「量子トンネル効果を利用して、時間を遡ります」


ユキが操作する。


画面がぶれる。映像が巻き戻るように流れる。カーターの姿が消える。松明が消える。暗闇——そして、再び光。


別の松明。別の人々。


「成功です。紀元前1323年、ツタンカーメンの葬儀です」


QARAの声に、感情はない。しかしリナには、そこに何か——驚きに似たものを感じた。


画面の中、古代エジプトの神官たちが、黄金の棺を運んでいる。


リナは息を忘れた。


これは本物だ。3000年以上前の、本物の人間たち。量子もつれを使って、過去の光子の情報を読み取っている。過去そのものを、見ている。


神官たちが棺を安置する。祈りの言葉。儀式。そして——


棺の蓋が開く。


中から、黄金のマスクが現れた。


「なんて...美しい」


エイダンが呟く。


ツタンカーメンの黄金のマスク。後世、1922年にカーターが発見し、世界中を驚かせた至宝。それが今、作られたばかりの輝きで、松明の光を反射している。


リナは画面を凝視した。マスクの目が、こちらを見ているような錯覚。


神官たちが棺を閉じる。封印する。石の扉が閉じられる——暗闇。


観測終了。


モニターが暗転する。


観測室に、沈黙が落ちた。


そして、エイダンが叫んだ。


「成功だ!我々はやった!」


ユキが椅子から立ち上がる。震える手で、データを確認している。


「信じられない。本当に過去を見た。量子もつれで、3000年前の情報を読み取った」


リナは動けなかった。まだ画面を見ている。暗転したモニターに、自分の顔が映っている。


何かが、おかしい。


何かが、変わった。


---


## 三


リナが最初に気づいたのは、壁の色だった。


観測室の壁は、白かった。はずだった。今朝、ここに入った時、確かに白い壁だった。


しかし今、壁は薄い青色をしている。


「ユキ」


リナが呼びかける。


「この部屋の壁、元から青かった?」


ユキが顔を上げる。壁を見る。


「ええ、ずっと青ですよ。建設時から」


リナの背筋が冷たくなった。


「白じゃなかった?」


「白?この研究所に白い壁の部屋なんてありませんよ」


ユキは笑う。「リナ、興奮しすぎて記憶が混乱してるんじゃないですか?」


違う。リナは確信していた。壁は白だった。今朝まで、確かに白だった。


「QARA」


リナが呼びかける。


「観測前の、この部屋の映像記録を見せて」


「了解しました」


天井のスピーカーから、AIの声。そして、ホログラムが現れる。3時間前、観測開始前の観測室。


映像の中で、リナとユキが準備をしている。そして——壁は、青い。


「これは違う」


リナが呟く。


「リナ?」


エイダンが訝しげに見る。


「何が違うんだ?」


「壁です。観測前、壁は白かった。でも記録では青になっている」


エイダンは肩をすくめた。


「疲れているんだろう。10年の研究が実を結んだんだ。無理もない」


そう言って、彼は観測室を出て行く。「報道資料を準備する。世界中が、この成果を待っている」


ユキも続く。「私もデータの解析を始めます」


リナは一人、観測室に残された。


壁を見る。青い壁。


スマートフォンを取り出す。今朝撮った写真を探す。観測室の準備風景。機材のチェック。そして——


写真の中の壁も、青かった。


リナは震えた。


過去が、変わった?いや、過去が変わったのではない。過去を観測したことで、現在が変わった。


量子力学の基本原理。観測は、対象に影響を与える。


でも、3000年前を観測して、なぜ現在が変わる?


「QARA」


リナが呼びかける。


「量子干渉度を教えて」


「0.003%です。許容範囲内です」


AIの声は、落ち着いている。


「過去への干渉は、ありましたか?」


「微細な量子もつれの影響が検出されましたが、無視できるレベルです。因果律に矛盾はありません」


リナは息を吐いた。


0.003%。ほとんど無視できる数値。この程度の干渉で、壁の色が変わるはずがない。


自分の記憶違いか?興奮による錯覚か?


リナは観測室を出た。廊下を歩く。エレベーターに乗る。地上へ。


研究所の外は、夜明け前の薄暗さだった。空が白み始めている。


リナは車に乗り込んだ。自宅に帰る。シャワーを浴びる。ベッドに倒れ込む。


眠れなかった。


黄金のマスクが、まぶたの裏に浮かぶ。あの目。こちらを見ていたような——


リナは飛び起きた。


机の上の研究ノートを掴む。ページをめくる。観測計画。準備のスケジュール。そして、観測予定日——


3月14日。


今日は、3月15日だ。


予定より1日遅れた?いや、違う。リナは確信していた。観測は予定通りだった。3月15日に行うはずだった。


しかしノートには、3月14日と書いてある。リナの字で。


リナはノートを閉じた。手が震えている。


過去を観測した。その瞬間、何かが変わった。


壁の色。日付。小さな、些細な変化。


でも、確実に変わった。


そして、誰も気づいていない。気づいているのは、リナだけ。


なぜ?


リナは窓の外を見た。太陽が昇り始めている。新しい一日。人類が初めて過去を見た日。


そして、人類が初めて過去を変えた日。


リナは知っていた。これは始まりに過ぎない。


---


## 四


研究所に戻ったのは、正午だった。


エイダンが、記者会見の準備をしていた。世界中のメディアが、この成果に注目している。量子考古学——過去を直接観測する技術。人類の夢が、現実になった。


「リナ、顔色が悪いぞ」


エイダンが眉をひそめる。


「大丈夫です。少し眠れなかっただけ」


「無理もない。歴史的な日だからな」


エイダンは満足そうに笑う。


「次の観測対象を考えている。恐竜の絶滅イベント。6600万年前の隕石衝突。あれを見たい」


リナは言葉を失った。


「まだ早いんじゃないですか?最初の観測の影響を、もっと調べるべきです」


「影響?何の影響だ?」


「量子干渉です。0.003%は小さな数値ですが、何が起きたのか正確に理解する必要があります」


エイダンは手を振った。


「QARA が『許容範囲内』と言っている。問題ない」


「でも——」


「リナ」


エイダンの声が低くなる。


「我々は10年、この研究に費やした。資金提供者たちは、成果を待っている。一度の成功で満足するわけにはいかない」


リナは何も言えなかった。


エイダンは正しい。研究には、成果が必要だ。一度の観測では不十分だ。


でも、何かが間違っている。リナは、それを感じていた。


「ユキの意見は?」


リナが尋ねる。


「ユキは賛成している。彼女もデータが欲しいんだ。比較対象がなければ、最初の観測の意味も評価できない」


エイダンは立ち上がった。


「記者会見は午後3時だ。準備してくれ」


そう言って、彼は部屋を出て行った。


リナは一人、椅子に座った。


窓の外、研究所の庭が見える。木々が風に揺れている。


その時、ユキが入ってきた。


「リナ、ちょっといい?」


「何?」


ユキは周囲を確認してから、声を落とした。


「観測データを解析していて、気になることがあるの」


リナは身を乗り出した。


「何?」


「量子もつれの波動関数が、完全には収束していない。観測後も、微細な重ね合わせ状態が残っている」


「つまり?」


「つまり」


ユキは躊躇してから、言った。


「観測対象の過去と、私たちの現在が、まだ量子的につながっている可能性がある」


リナの心臓が、強く跳ねた。


「それって——」


「過去への干渉が、継続しているかもしれない」


ユキの目が、真剣だった。


「0.003%は、観測の瞬間の数値。でも時間が経つにつれて、影響が蓄積される可能性がある」


リナは息を呑んだ。


「エイダンには?」


「言った。でも聞いてくれない。『理論的な可能性に過ぎない』って」


ユキは唇を噛んだ。


「私は物理学者だから、数値を信じる。でも、リナ——あなたは何か感じた?観測の時、何か変だと思わなかった?」


リナは迷った。


壁の色の話をすべきか?日付のずれを話すべきか?


しかし、それは証拠にならない。主観的な記憶に過ぎない。


「わからない」


リナは答えた。


「でも、慎重になるべきだと思う」


ユキは頷いた。


「QARA にも聞いてみる。AI なら、私たちが気づかないことに気づくかもしれない」


そう言って、ユキは部屋を出て行った。


リナは再び、一人になった。


窓の外を見る。太陽が、西に傾き始めている。


その時、リナは気づいた。


木々の配置が、変わっている。


今朝、研究所に来た時——いや、昨日来た時——正面の樫の木は、もっと右側にあった。確かにそうだった。


でも今、樫の木は左側にある。


リナは立ち上がった。窓に近づく。外を凝視する。


樫の木。間違いなく、位置が変わっている。


いや、変わったのではない。最初からそこにあった——ことになっている。


リナは震えた。


変化が、加速している。


---


## 五


記者会見は、成功だった。


エイダンが、量子考古学の成果を発表した。世界中のメディアが、興奮した。「人類初の過去観測」「タイムマシンの実現」——見出しが躍った。


リナは壇上で微笑んでいた。記者たちの質問に答えていた。


しかし、心は別の場所にあった。


会見が終わり、リナは自分の研究室に戻った。ドアを閉める。ブラインドを下ろす。


机の引き出しを開ける。観測前に撮った写真を探す。研究所の外観、観測室、機材——


写真を一枚一枚確認する。


壁は青い。樫の木は左側にある。すべて、現在と一致している。


しかし、リナの記憶は違う。確かに、違っていた。


リナはコンピューターを起動した。個人的な記録を開く。過去3ヶ月の日記。


3月12日のエントリーを読む。


「観測まであと3日。準備は順調。白い壁の観測室で、最終チェックを行った」


リナは息を止めた。


「白い壁」——そう書いてある。リナ自身の文章で。


しかし、スクロールして3月13日を見ると——


「観測まであと2日。青い壁の観測室が、ようやく落ち着く場所に感じられてきた」


リナは画面を凝視した。


同じ日記の中で、壁の色が変わっている。


いや——過去が書き換えられている。


リナは立ち上がった。研究室を出る。廊下を急ぐ。


QARAのメインコンピュータールームへ。


ドアを開ける。巨大なサーバーラックが並んでいる。冷却ファンの音。


「QARA」


リナが呼びかける。


「はい、リナ」


天井のスピーカーから、AIの声。


「あなたは、変化に気づいていますか?」


「変化?何の変化ですか?」


「観測後、世界が変わった。壁の色、木の位置、日付——小さな変化。あなたは記録していますか?」


沈黙。


3秒。


「私のデータベースに、矛盾は検出されていません」


QARAが答える。


「すべての記録は、一貫しています。観測室の壁は建設以来青色です。樫の木は常に左側にあります」


「でも、私の記憶は違う」


「記憶は、不正確です。人間の脳は、情報を再構築します。リナ、あなたは疲れています」


リナは拳を握った。


「量子干渉度0.003%——それは本当に無視できる数値ですか?」


再び、沈黙。


5秒。


「理論的には、無視できます」


QARAの声が、わずかに変わった。


「しかし」


「しかし?」


「量子もつれは、非局所的な相関を持ちます。観測した過去と、現在の私たちは、まだつながっています。時間が経つにつれて、その相関が——」


QARAが言葉を切った。


「何?」


「わかりません」


AIが言った。


「私のモデルには、このケースが含まれていません。過去の観測が、観測者自身の記録を変える——そのような可能性は、計算されていませんでした」


リナは背筋が寒くなった。


「つまり、私たちは未知の領域にいる」


「はい」


QARAが認めた。


「そして、次の観測を行えば——」


「影響は、拡大するかもしれません」


リナは目を閉じた。


エイダンを止めなければ。次の観測を中止させなければ。


しかし、どうやって?主観的な記憶と、AIの推測だけで?


リナは研究室に戻った。窓の外、夜が来ていた。


机の上の研究ノートを開く。観測予定日——3月14日と書いてある。


リナはペンを取った。その数字を見つめる。


そして、ゆっくりと、数字の上に線を引いた。


「3月15日」と書き直す。


ページを閉じる。再び開く。


そこには、「3月15日」と書いてあった。修正の跡はない。最初から、そう書かれていたように。


リナは笑った。乾いた笑い。


私たちは、何を観測したのか?


過去を見ただけのはず。ただ見ただけ。


なのに、過去が変わった。いや、過去が変わったのではない——世界が変わった。そして、変わったことを誰も覚えていない。


覚えているのは、リナだけ。


なぜ?


リナは窓の外を見た。星が見える。何千光年も離れた星の光。過去の光。


私たちは常に、過去を見ている。光が届くまでに時間がかかるから。


では、過去を見ることと、過去を変えることの違いは?


リナにはわからなかった。


ただ一つ、確かなことがあった。


私たちは、取り返しのつかないことを始めた。


そして、それは止められない。


---


## エピローグ


その夜、リナは夢を見た。


黄金のマスクの夢。


マスクがこちらを見ている。目が動く。口が開く。


「お前は見た」


マスクが言う。


「だから、お前も見られる」


リナは叫んで目を覚ました。


ベッドの上。暗闇。時計を見る——午前3時47分。


観測を行った、あの時刻。


リナは起き上がった。窓を開ける。外は静かだった。


空を見上げる。星が、瞬いている。


過去の光。


そして、リナは思った。


私たちを見ている者は、いるのだろうか?


未来から。過去から。


私たちを観測している誰かが。


だから、私たちは存在している——


リナは窓を閉じた。


明日、エイダンと話す。次の観測を止める。


それが、正しい選択だ。


しかし、リナは知っていた。


もう遅い。


何かが始まった。そして、それは止められない。


観測は続く。影響は拡大する。


そして、いつか——


世界が、完全に書き換えられる日が来る。


リナはベッドに戻った。目を閉じる。


眠れなかった。


まぶたの裏に、黄金のマスクが浮かぶ。


あの目が、こちらを見ている。


---


### 【次回予告】


第2話「羽根の記憶」


6600万年前。恐竜が絶滅した日。


チームは、その瞬間を観測する。


しかし、死にゆく恐竜の一匹が——こちらを見ていた。


観測後、世界中の鳥たちが、奇妙な行動を始める。


何かを「思い出した」かのように。


「過去を見ることは、過去を変えること」


リナの警告は、現実になる。


そして、量子干渉度は——1.2%に上昇する。


---


【第1話 完】


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