風に乗せた想い

雨音|言葉を紡ぐ人

第1話 風の匂い

海辺の町に帰ってきたのは、十年ぶりだった。潮の香りと、どこか懐かしい風の匂いが、記憶の扉を開いていく。東京での仕事を辞めて、実家の近くで新しい仕事を見つけた私は、二十八歳の春を故郷で迎えることになった。


駅を降りて、海へ続く坂道を歩く。高校時代、毎日通った道。変わらない景色なのに、自分だけが変わってしまった気がして、少し切なくなった。


「このままでいいのかな」


東京で働いていた広告代理店は、やりがいもあったし、給料も悪くなかった。でも、何かが違う気がしていた。忙しさに追われる日々の中で、大切なものを置き忘れてきた気がして。それが何なのか、わからないまま、私は故郷に帰ることを決めた。


海が見えてきた。相変わらず青くて、広くて、優しい。波の音を聞いていると、高校時代の記憶が蘇ってくる。友達と笑い合った日々。部活動に明け暮れた夏。そして、初めて恋をした、あの春。


蒼太のことを思い出す。同じクラスになった高校二年生の四月。彼は背が高くて、いつも穏やかな笑顔を浮かべていた。読書が好きで、昼休みは図書室にいることが多かった。私も本が好きだったから、自然と図書室で顔を合わせるようになった。


「それ、面白い?」


ある日、彼が声をかけてきた。私が読んでいたのは、恋愛小説だった。


「うん、すごく。登場人物の気持ちがリアルで」


「俺も読んでみようかな」


それから、私たちは本の話をするようになった。好きな作家のこと、印象に残った物語のこと。話すたびに、彼のことが好きになっていった。優しい声、真剣な眼差し、時々見せる少年のような笑顔。全てが愛おしかった。


でも、想いを伝える勇気は持てなかった。告白して、断られたら、今の関係が壊れてしまう気がした。友達のままでいい。そばにいられるなら、それだけで幸せだと思っていた。


そして、高校三年生の夏。彼は突然、転校することになった。お父さんの仕事の都合で、関西に引っ越すことになったという。


「急で、ごめん」


彼は申し訳なさそうに言った。


「ううん、仕方ないよ。新しい学校でも頑張ってね」


笑顔で答えたけれど、胸の奥が締め付けられるように痛かった。


最後の日、私は手紙を書いた。ずっと伝えられなかった想いを、全部書いた。でも、結局、渡せなかった。彼に手紙を渡そうとした時、言葉が出てこなくて、ただ「元気でね」と言うのが精一杯だった。


渡せなかった手紙は、今も私の引き出しの奥にしまってある。色あせた便箋に書かれた、十年前の想い。

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