第九章 二つの魂、ひとつの影

 霧が晴れた。

 黒と翠が混ざり合う光の中、

 ヴァートの腕の中で、セーブルの身体がゆっくりと形を取っていく。


 指先、喉、そして右眼。

 彼を構成する“存在の断片”が、ひとつずつ世界に帰ってくる。


 やがて、彼の唇が震えた。


「……ヴァート……?」


『セーブル!』


 ヴァートは泣き笑いのような声をあげた。

 だが次の瞬間、彼の瞳が再び曇る。


「……おかしいな。

 視界が二重に……声も……お前の中から響いてる。」


 ヴァートは息を呑む。

 彼女の胸の奥——セーブルの魂録石が淡く脈動していた。

 “魂”が彼女と完全に融合しかけている。


 つまり、彼らは今——一つの身体に二つの魂を宿していた。


『セーブル……貴方、今どこに?』


「わからねぇ。

 オレはお前の中にいる……けど、

 お前の“心”にも触れてる気がする。」


 ヴァートは胸に手を当てた。

 彼の声が鼓動に重なる。

 あたたかく、痛いほど近い。


『……貴方の心臓の音、私の中で鳴ってる。』


「オレの音じゃねぇよ。

 それ、お前のだ。」


『違う……これは、二人の音です。』


 静かな夜の谷底で、

 世界の“拒絶”と“受容”が、初めて一つになった。


 しかし、安らぎは短かった。


 空が裂ける。

 上空から黒い光柱が降り注ぐ。

 死神都市〈ヘルミナ〉からの“魂回収陣”だ。


 ヴァートが顔を上げる。


『まさか……彼ら、セーブルの魂を……!』


「“逸脱個体”を回収しようとしてる。

 オレが死神としての座を捨てたから、

 奴らは“秩序”を保つために、オレを消すつもりだ。」


『そんなの、許さない!』


 ヴァートが手を広げる。

 翠の光が溢れ、鎌の形を作り出す。

 彼女の瞳に決意が宿る。


「……お前、まさか……」


『ええ。今度は、貴方を守るために戦います。

 今度こそ、“武器”としてじゃなく、“共に立つ者”として。』


 黒い光柱が地を穿つ。

 風が荒れ狂い、空が悲鳴をあげる。

 ヴァートは鎌を握りしめ、足を踏み出した。


 その瞬間、彼女の中のセーブルが囁く。


「ヴァート……右眼を、貸せ。」


『……右眼?』


「オレの“拒絶”は、お前の中にも残ってる。

 けど、お前が“生”を選んだ今なら……

 その拒絶を、“護る力”に変えられる。」


 ヴァートは息を整え、瞳を閉じた。

 翠と紅の光が交わる。

 右の眼球の奥で、金色の紋章が浮かび上がる。


 世界が静止した。


 時間が、音が、光が——すべて止まる。


 ヴァートの瞳が開く。

 その中で、翠と紅が融合した。


 “拒絶”と“受容”が、ひとつの色に。


『セーブル……一緒に。』


「……ああ。」


 彼女の鎌が光を放つ。

 振り抜いた一閃は、夜そのものを断ち切った。


 黒い光柱が音もなく崩れ、

 回収陣は霧のように消え去る。


 戦いの後。


 ヴァートは膝をつき、深く息をついた。

 霧の中で、セーブルの声が静かに響く。


「……お前、強くなったな。」


『貴方が隣にいたから。

 声だけでも、ずっと。』


「これからどうする?」


『探します。

 “死神の理”の外で、生きられる道を。

 貴方の声が消えない世界を。』


「いいな。……オレも一緒に行く。」


『貴方、もう身体がないのに?』


「声がある限り、隣にいられるさ。」


 ヴァートは微笑む。

 その笑顔は、もう孤独ではなかった。


 谷を抜ける風が二人を包む。

 鈴の音が再び鳴る。


 ——チリリ……チリリ……


 翠と黒の光が混ざり、

 夜明け前の空をゆっくりと染めていく。


 “死神と武器”ではなく、

 “二つの魂が共に生きる者”として。

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