異世界戦記

赤鯛

第1話




​​夜明けの薄暗い空、そして、けたたましい爆発音。潮の香りは、血と硝煙の臭いに完全に掻き消されていた。

​1944年、6月6日、ノルマンディー・オマハビーチ。


​「ロイド!そこはもう、無理だ!」


​怒鳴り声が、土埃と、降り注ぐ機関銃の金属音にまみれた空気を引き裂く。ロイド・グレイ二等兵は、分隊の最後の生存者として、波打ち際から数十メートル、砂地に伏せていた。

視界を覆い尽くしたのは、閃光と轟音。彼の隣にいた戦友が、防御陣地からの掃射によって、一瞬で肉塊と化す。ロイドは、もはや生き残る望みがないことを悟っていた。誰も、このビーチを突破できない。

​その時、後方の負傷兵を庇うため、彼は**「手榴弾を抱えて、敵の機関銃座に突撃する」という、唯一の自己犠牲的な選択**を取った。爆風が鼓膜を破り、全身の感覚を奪う。ロイドは、現世で最も新しい、そして最後の記憶を刻んだ。それは、庇おうとした戦友の顔。そして、その戦友に「生きて帰れ」と叫ぼうとして、言葉にならなかった自分の喉の熱さ。


​(ああ、結局、俺は…死ぬことでしか、何も終わらせられなかった)


​戦場の狂気の中で、ロイドは自己犠牲という名の終着駅にたどり着いた。

​「――っくそ……」


​微かな後悔と共に、意識は途絶える。享年二十五歳。彼の肉体は、故郷から遥か遠い異国の地で、土へと還った。


​第一章:転生と新しい生

​次にロイドが意識を取り戻したとき、彼の世界はすべてが変わっていた。

​光は柔らかく、音は優しく、肌を包む布は温かい。そして、何よりも、自分の身体が驚くほどに小さい。

​(……ここは、どこだ?あの戦争は……)

​ロイドは混乱した。しかし、身体はすぐに泣き出す。新しい世界の空気を吸い込むたび、記憶の断片は遠のき、代わりに、新しい環境への適応という本能が、古い記憶を奥底に沈めていく。

​彼は、この世界で**「ロイド」**という名を再び与えられた。何かの因果か、それとも運命の悪戯か。

​生後五ヶ月。ロイドは、この世界の母の腕の中で、自分の意思とは関係なく泣き笑いを繰り返す。現世で培った知識や戦闘経験は、赤子の無力な肉体では何の意味も持たない。彼に残された唯一の「戦利品」は、「二度と死にたくない」「誰の自己犠牲も許さない」という、魂に刻まれた強烈な「生」への執着だった。

​第二章:ラウマとの芽吹き(5歳〜15歳)

​五歳。ロイドは、家の裏にある小さな森の入り口で、一人の少女に出会った。

​彼女の名は、ラウマ。太陽のような赤色の髪と、好奇心に満ちた大きな瞳を持つ少女だった。


​「ねえ、そこで何してるの?お人形さんみたいに固まって」


​ラウマはロイドをからかうように言った。ロイドはこの世界の平和な日常に馴染んでいたが、心の中の壁はまだ高かった。しかし、ラウマはそんな壁など気にしない。彼女はロイドの手を引き、森の中を駆け回り、この世界の美しさ、楽しさを全身で教えてくれた。

​5歳から15歳までの十年間は、ロイドにとって、現世で失った「平和」を埋める、黄金のような日々だった。

​彼らは、兄妹のように、親友のように育った。

木の上で食べた焼きたてのパン。川で魚を追いかけた夏の午後。初めて手紙を交換し、秘密の合言葉を決めた夜。

​ロイドはラウマといる時だけ、現世のトラウマから完全に解放された。ラウマは、ロイドの**「生」への執着を、彼自身の過去ではなく、「二人の未来」**へと昇華させてくれた。


​「ロイドは将来、私のお菓子を全部守る騎士様になれるくらい、強くなるんでしょ?」


「ああ、もちろん。絶対に、誰も死なせないように、全部、全部守りきるさ」


​その誓いは、ただの子供の遊びの言葉だった。この時、二人は、自分たちの未来が、再び血と硝煙にまみれることになるとは、夢にも思っていなかった。


​第三章:別離と未来の誓い(15歳〜17歳)


​十五歳の春。ラウマの父の仕事の都合で、彼女は遠くの街へ引っ越すことになった。

​別れの日。ロイドは、心臓を鷲掴みにされたような痛みを覚えた。現世で戦友と永遠に別れた時のような、あの喪失感が甦る。


​「泣かないでよ、ロイド。私は、手紙を書くから」


​ラウマは、ロイドの手を握り、少しだけ震える声でそう言った。


​「毎月書く。戦争がない、平和なこの世界で、ずっとずっと文通しよう。そして、大人になったら、ロイドが迎えに来てくれるんでしょ?」


​「……ああ」


​ロイドは、その約束に縋りつくように頷いた。

​引っ越し後、二人は約束通り、手紙でのやり取りを続けた。他愛のない日常の話。新しい街での出来事。将来の夢。手紙は、ロイドにとって、この平和な日常を繋ぎ止める、唯一の命綱だった。

​十七歳になる頃。

​バルバレット帝国とバリアナ国の国境で、不穏な動きが観測され始めたという噂が、小さな街にも届き始めた。

ロイドは、故郷の平和が脅かされることに、かつてのトラウマが呼び起こされるのを感じていた。

​そして、その年の夏。

​ラウマからの手紙が、突如として途切れた。

​ロイドは毎日のように郵便受けを確認したが、返事は来ない。不安と焦燥に駆られるロイドの元に、ラウマからの最後の手紙が届いたのは、それから一ヶ月後のことだった。

​封筒は少し汚れていて、インクは滲んでいた。


​「ロイドへ。

​向こうの国と、本当に戦争が始まるかもしれない。

​私は、大丈夫。だから、ロイドも、絶対に大丈夫でいて。

​だから、

​生き残ろう。

​生き残って、また再会しよう。

​約束だよ。

​ラウマより」


​その手紙を受け取った翌日、ロイドの住むバリアナ国は、正式にバルバレット帝国との戦争勃発を宣言した。

​(生き残る。生き残って、ラウマと再会する)

​ロイドは、再び戦場へと引き戻された。

​実戦経験を持つ男が、この状況で軍に入らないのは、自分のプライドが許さない。それは、現世で死んだ自己犠牲とは異なる、「生きて守る」ための、ロイド自身の「人間」としての矜持だった。

​ロイドは、訓練学校への入学願書を手に、立ち上がった。

​――戦いたくない。だが、戦うしかない。この戦争を生き抜き、必ず生きて、愛する者と再会するために。

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