1-14 妹の来訪

「本音、かあ」


 家族四人全員が風呂から上がった、午後九時過ぎ。


 僕、諸月草介は浴室でワイシャツの襟をもみ洗いしつつ、ぼんやりと考え事をしていた。考え事というのは、やはりこういう作業をしながらの方が捗るというものである。


 とはいえ、母親が洗濯を回す前に洗い終わらなければならないので、悠長にしていられないのも確か。妹のように冷徹で容赦のない仕打ちはしてこないので変な圧力がかかるという訳ではないではなものの、だからこそ自制して急がねばなるまい。


 本音。


 もっと言えば、秋月桜さんに対する、僕の本音。


 アクタ先生はこれを探し、秋月さん本人にぶつけてみろとか、そういうことを言っていた。


 半ば投げやりのような感じもした。


 しかし人間観察のエキスパートである彼女が、それも二度に渡ってそう言うのなら、その内容に従うしかあるまい。


 考えてみる。


 勉強ができる。ずっと学年一位。長い黒髪。白い肌。整った顔立ち。二年連続で学級委員長。優しい。面倒見がよい。けど少し、独り言が多い。迂闊。


 …おっと。これは秋月さんに対する本音というよりは、秋月さんに対する印象だった。きっとこの印象はみなさん抱いているものだろうに。


 秋月さんに対する、僕の本音。


「わけが、わからない」


 僕を学級委員長したことも、僕なんかの勉強を見てくれたり、僕の猫背とか至らないところを指摘してくれたりとか。


「…いや」


 ちょっと待て。僕に対して面倒見がいいのは、アクタ先生こと芥坂さんも同じではないか? 


 いやでも、それは付き合いの長さが違うというか、秋月さんは何の文脈もなく本当に唐突に面倒見てくれるようになったから困惑しているわけで……。


 いやでも、地獄の小学校時代、そして暗黒の中学時代から脱し、高校である程度普通の人間としてやってこれたのは、アクタ先生のご指導ご鞭撻のお陰であるわけで……。


 そう考えると、僕は本当に二人にはお世話になりっぱなしであった。


 だというのに、秋月さんのご厚意を変に遠慮して無碍にしてしまうこともあったし、アクタ先生のご厚意は何というか、どこか当然と思っている節があった。


 二人に対する僕の振る舞いは、礼節を欠いた、傲慢なものであった。


 思わず深い溜息が出る。


 母親に「どうしたの?」と心配される。


「いや、なんでもない。早く終わらせるわ」


 僕は高速で襟をもみ洗い、浴室から出る。そして粉の洗剤を溶かしている母親を尻目に、洗濯機にワイシャツを放り込んで、自室に逃げ込んだ。


 部屋の電気もつけぬまま、ベッドにダイブする。


「まあそりゃ、急にワイシャツの襟を自分で洗うとか言い出したら、変に思われるよな」


 独りごちる。というか、それに関してはいつもやれという話である。


 枕に顔を埋める。しばらくして息が苦しくなって、顔を横に逃がす。


 そこには、少なくとも昨日からつけっぱなしの白色の照明が、卓上にぼんやりと浮かんでいた。


 机の上には、教科書やノート、お菓子の包装紙やジュースの缶なんかが乱雑に放置されている。そういえば、汚いって妹に言われたっけ。口ではなく、目線で。


「本音、かあ」


 また、独りごちる。


 本音。秋月さんに対する、僕の本音。


 彼女のご厚意は、とても嬉しい。でも、うまく受け取れなくて、傷つけてしまってごめんなさい。…こんなところだろうか。


 しかしこれを今、本人に伝えることが、僕にとってどんなに難しいことか。


 本人に「なんで謝るの」と言われてしまった以上、僕に一体何が言えるというのだろうか。


 しかし秋月さんに対して何も言えないという現状に耐えかねて、アクタ先生に経緯を話し、アドバイスを頂いた訳で……。


 そもそも、秋月さんとの気まずい状況というのは、少なくとも一人のクラスメイトに感づかれている。この状況が続けば、文化祭の準備や本番に影響が出かねない。


 僕の気持ちに関わらず、何かしらの落とし所を探さねばならないのだ。


 ……などと、問題発生以降、同じ所をぐるぐる考えてしまっているということを、自覚していないなんてことはない。


 自覚していながら、自覚してアクタ先生に相談しながら、結局は同じ問題に行き着いてしまう。


 いや、そもそも秋月さんは問題の解決を望んでいるのだろうか。


 これ以上僕に余計なことをして欲しくないから、言って欲しくないから、「なんで謝るの」などと言ったのではないだろうか。


 そんなふうに、釘を刺したのではないだろうか。


 ならば、無駄に逡巡するこの思考は、彼女にとっては無駄どころか迷惑ってことにならないだろうか。


 そう考えると、もう、何もかも嫌になってくる。


 そのとき、ドアをノックする音がした。


 しかし乾いた音のみで、声はない。「…何?」と問うてみても、それに答える声はない。


 ドアの向こうにいるのは、無言の圧を振り撒く我が妹だろうか。


 今応対する気力はないが、無視したら無視したで後が怖い。とりあえず、妹の来訪に応じることにする。


「何の用ですか。さなちゃん」


 諸月早苗もろづきさなえ。我が家の長女である。


 ドォン、とドアをぶん殴ったような轟音がした。そうだった、さなちゃん呼びは地雷だった。完全に心ここにあらずだったとはいえ、とんでもないことをしてしまった。


「えっと、何の用でしょう」


 応答はない。


 地雷を踏まれた怒りで、去ってしまったのだろうか。いや、まだドアの向こうにいる可能性も充分にある。


 それに妹も馬鹿ではない。火急の用であるならば、ノックなどせず問答無用でドアを蹴破ってくるはずだ。


 つまりは、こちらに環境と心の準備をする時間が与えられているということである。


「えっと、少し待ってて。部屋、片付けるから」


 そう言って僕は寝転んだままリモコンで電気をつける。


 むくりと起き上がる。


 そこには、机上と同様、缶やらペットボトルやら書籍やらに覆い尽くされた自室の惨状があった。


 


 

 

 


 

 


 

 


 


 

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