23 出入り禁止、八山

 一限の講義が終わった。大教室で行われる一般教養の授業は、とてつもなく眠かった。外へ出て、風が冷たくて気持ちがいいなと思った瞬間にすっかり眠気がなくなる。何の話を聞いたんだったか。まあいいや、出席重視だから。

 朝とは打って変わって人通りが多い。見慣れた風景だ。

 八山はいそいそと食堂を目指した。扉は軽く抵抗なく開き、温まった空気と油や出汁の匂い、食器の当たる軽くて賑やかな音があふれだした。


 時間は早いが十分に腹が減っているので、すぐに昼食をとってしまうこととする。

 早い時間の食堂は席に余裕があって、並ぶ列も短い。八山は窓際の席を確保し、豚生姜焼きの定食をご飯大盛りにして、どうということもなく食べ終えた。

 茶をすすりながら、いつも通り完食したし自分は元気だよなと検討したところで、高林が窓の向こうを歩いていくのを見つけた。

 あっちに行くならもう帰るのかと眺めていると、すっと首が巡って目が合う。八山が頭を下げると、高林はわざわざ立ち止まって八山を観察する身振りをした後、笑って手を振ると通り過ぎて行った。


 高林を見送った後少し悩んでから、八山は柚原に生姜焼き定食を食べた、と報告するメッセージを送った。

 もしかして結構おおごとだったのでは、という気がしはじめている。



 それから食堂や教室で適当に時間をつぶし、三限、四限の講義に出た。級友とレポートの進みや試験範囲の話をして解散すれば、八山の本日大学でやることは終わりになる。

 普段ならこれで家に帰り、夜になったら合気道の稽古に行く日だ。しかし、今日は人のいる場所に居続けなければならない。

 八山はこのまま合気道の稽古場へ行くことにした。まずはひと月休むということを説明しなければならないし、どうせ稽古には参加できないから自分の稽古時間に行ってもしかたがない。

 先に小学生の稽古があるから、師範はもういるはずだ。


 大学内にも合気道部は存在したが、八山が通っているのは一般の教室だった。体育会系の部活は何かと拘束がきついし、競技には興味がなかったからである。

 本部はどこか別のところにあって、駅前のカルチャーセンターを稽古場として週に二回の稽古をしている、そういう教室だ。

 入口から覗くと、師範がマットを敷き並べているところだった。生徒はまだ誰も来ていない。

 八山が挨拶をすると、師範は広げていたマットの皺をばさりと伸ばしてからのしのしと歩み寄ってきた。八山も靴を脱いで揃えると、靴下裸足で中に入る。

「どうした。こんな時間に」

「すいません、えーと、昨日頭を打って、切って、縫ったんです」


 反応は思ったより大きかった。何があったと目を剥いた師範に、急いで階段から落ちた女の子を受け止めたと説明する。八山は一通りの心配を受け、傷を確かめられ、何はともあれ二人無事ならよかったと励まされ、それから、沈痛な面持ちで問われた。

「受け身はうまく取れなかったか」

「あ、いえ、たぶん取れました。背中で流して、着けるところまではできました。

 確か、女の子の頭が最後、滑ってきて顎にこう、当たって」

 ほっと眉の開いた師範の目が、ちょうど目の高さに来る八山の顎をなぞる。

「そうか。うん、そうか」


 よくやった、君を投げ続けた甲斐があった。その偉丈夫が鍛錬を経て人と自分を助けた、素晴らしい。上機嫌の師範は繰り返し八山を誉め、八山の反応が今一薄いのを見て背中を叩こうと手を挙げ、振り下ろす寸前で止めた。

 背中からの衝撃に備えていた八山の腕が、がしりと分厚い掌に掴まれる。

「もっと誇りなさい。まさに、そのときのために、研鑽を積むのが武道だ」

 ぐ、ともう一度力が込められて、離された。


 さて、しかし頭を打ってしまったなら、安静第一、背中を叩こうとか背中に飛びつこうとかするやつがどんどん出てくるだろうから、すぐ帰りなさい。子供は容赦がなくていかん。抜糸が一週間後?運動禁止が一カ月?そうか、二週間したら来なさい。柔軟からやろう。さ、もう行った行った。


 追い出されてしまった。傷はもう存在も忘れそうな程だし、時間つぶしに小学生の相手くらいするつもりだったのに。

 頭を打ってから二十四時間、その瞬間ならそろそろのはずだ。ただし、そういう頓智を使うべきでない言いつけだとは察しが付く。

 晩御飯の時間と呼べそうな時刻は、早くとも一時間後。

 大学に戻るしかない。家に帰れないのって不便だ。



 大学に出戻り、図書館でレポートを進めようとした。結構居心地がいい。それなりに進めはしたものの、いくら考えても意味が分からない設問があり、中断。これか。今日話題になってたやつ。誰か分かった奴いたんだっけ。これで大体一時間。

 外はようやく夜と呼べそうだ。カフェテリアの片隅でコーンスープを啜る。腹は減ってきたけれど、約束は晩飯だ。

 晩飯。昨日のコンビニ飯、朝のファミレスモーニング。バイトの後でたまに奢ってくれるのはバイト代のうちだと思っていたけれど、昨日今日で世話になっているのは八山の方だと思う。


 いくら相手が社会人、しかも高収入と聞く医者と言えども、そろそろまずい気がしてきた。

 これだけ会う人ごとに繰り返し気を付けるように言われるということは、そこそこの重傷だった気もしてきたし。もしかしたら、柚原さん、命の恩人とかそういうのでは?何か違うみたいなこと言ってたっけ。専門外って、……あれ苦手なことで大変だったって意味なのでは。

 ぼんやりしながら、結局昨日今日の事を思い返していた。思い返したというか、勝手に出てくる。色々あった。

 ぽつんぽつんと浮かぶ言葉に、顔に、八山には分からないことがある。

 教えてほしい。

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