第7話 記憶の伝染と覚醒
昼休みの教室。
窓の外では、春の光がぼんやりと霞み、桜の花びらが名残惜しそうに
風に流れていた。
悠斗は、机の上に広げたスケッチブックを静かに見つめていた。
そこには――宮坂あかりが描いた、白瀬紗良の絵があった。
あかりの筆致は少し漫画的で、線は柔らかく、髪の輪郭は淡い光を含んでいた。
それでも、悠斗には分かる。
――これは、紗良だ。
微笑んで、少しだけ首をかしげるあの仕草まで、思い出の中と同じだった。
「……やっぱり、紗良だ」
呟いた声は震えていた。
絵を見つめているうちに、喉の奥が熱くなって、涙が滲んでくる。
何度世界が塗り替えられても、記憶の奥底に確かに残っている“彼女”の姿。
あかりがこの絵を描けたこと自体が、もう奇跡のようだった。
「なあ、悠斗。ちょっとその絵、見せてくれよ」
拓真が、いつもの軽い調子で言って手を伸ばす。
悠斗は少し迷ったあと、そっとスケッチブックを差し出した。
拓真はしばらく黙って絵を眺め――そして眉をひそめる。
「……やっぱこの子、なんか見たことある気がするんだよな。
どこだったっけ……」
「まだ思い出せないか?」
「いや、マジでさ。夢とかじゃなくて、現実で。
……昔、話したことがあるような気がする」
その言葉に悠斗の心臓が跳ねた。
拓真の表情は冗談ではなかった。本気で“思い出そうとしている”顔だった。
だがその時、近くにいたクラスメイトの一人が興味本位で声を上げた。
「おい、なにそれ? 可愛いじゃん、その絵」
ひょいとスケッチブックを奪い取る。
悠斗が慌てて立ち上がるが、絵はすでに別のクラスメイトの手に渡り、
「うわ、マジだ、アニメキャラみたい」と笑いながら順々に回されていく。
しかし――。
最初は茶化していた彼らの表情が、次第に曇っていった。
誰かがぽつりと呟く。
「……あれ、この子……どっかで見たことあるような……?」
「うそ、俺も思った。どこだったっけ……?」
「え、待って。私も……あれ? え?」
静かなざわめきが広がる。
教室の空気がわずかに歪むような感覚。
言葉では説明できない“違和感”が、まるでウイルスのように伝染していく。
スケッチブックを取り返そうとした拓真が、絵を見つめたまま、
何かを掴みかけたように口を開く。
「この髪の色……春祭りの日、誰かの隣にいた女の子が……
こんな髪してたような……。あの時、俺、確か……悠斗、お前の隣に――」
言葉が途切れる。
思考の奥で何かが繋がりそうで、でも世界が必死に“上書き”している。
拓真は額に手を当て、頭を振った。
「……ダメだ、はっきりしねぇ。思い出しかけると、頭の中でノイズが走る」
その様子を見ていた宮坂あかりも、静かに息を呑んだ。
彼女の指先が小刻みに震えている。
「わたしも……おかしい。描いてるときから、ずっと変な感じだった。
この子を描いてるのに、誰かが“よく描けてるね”って笑ってくれた気がして……
一緒にお弁当食べた時の、光の色とか……匂いまで、浮かんできて……」
教室のざわめきが止まる。
クラス全体の時間が、一瞬止まったようだった。
悠斗はその中心で、心の奥に火が灯るのを感じていた。
――確かに、世界が揺らいでいる。
“消されたはずの存在”が、また少し、世界に滲み出している。
彼は拳を強く握った。
「紗良……今、もう一度、ここに戻ってこようとしてるんだな……」
外では、春の風が再び吹き抜ける。
カーテンがふわりと膨らみ、光が教室に流れ込んだ。
その一瞬、紗良の絵の微笑みが、ほんの少しだけ柔らかく見えた気がした。
その夜拓真は、深い眠りの中で夢を見ていた。
――放課後の教室。
窓から差し込むオレンジ色の光が、机の上のプリントを照らしている。
悠斗が机に突っ伏して、眠そうにあくびをしている。
その横で笑いながら、紗良が彼の頬を指でつついた。
「ほら、また寝ようとしてる。せっかく放課後なんだから、どっか行こうよ」
「……あと5分だけ……」
「ダーメ。行くの!」
その様子を見て、拓真は思わず笑っていた。
どこまでも日常的で、どこまでも懐かしい光景。
3人でくだらない話をして、コンビニでアイスを買って、公園で空を見上げた。
風が吹き抜ける音、笑い声、桜の匂い。
どれもが、鮮明すぎる。夢のはずなのに、まるで現実のように。
――その瞬間、胸の奥で「コトリ」と何かが嵌る音がした。
拓真は、目を見開いて起き上がった。
息が荒く、心臓が早鐘を打つ。
頭の中で、夢の光景が消えずに焼き付いている。
「……違う。夢じゃねぇ。これ、俺……本当に、あった」
記憶が、堰を切ったように溢れ出した。
白瀬紗良。明るくて、ちょっと天然で、でも真っ直ぐで。
悠斗と並んで笑っていたあの子。
忘れていたわけじゃない――“消されていた”んだ。
世界のどこかに手を伸ばされ、なかったことにされていた。
「悠斗……マジかよ。お前、本当に……」
拓真の手が震えた。
だが、その震えは恐怖ではなく、確信の熱だった。
その同じ夜、悠斗の母もまた、夢を見ていた。
居間のテーブルの上に広がるボードゲーム。
「私、これ弱いんですよ〜!」と笑いながらコマを動かす少女――紗良。
夕飯を一緒に食べ、眠そうな目で「今日は泊まってってもいいですか?」
と遠慮がちに言う。
自分が「いいわよ」と笑って答えていたこと。
それに対し悠斗が顔を赤くしながら慌ててた事。
家族で出かけた日々。
お祭りで撮った写真。
肩を並べて笑う、あの子の姿。
目を覚ました母親の頬には、涙が一筋流れていた。
寝ぼけた頭で、口をついて出た言葉は自然だった。
「……紗良ちゃん……。必ず悠斗が見つけてくれるから、待っててね……」
翌朝。
制服に袖を通した悠斗が玄関に立つ。
靴を履こうとしたとき、背後から母親の声がかかった。
「悠斗。紗良ちゃんが早く見つかるといいね」
――その言葉に、全身が固まった。
母の口から“紗良”という名前が出たのは、初めてだった。
しかも、まるでずっと知っているかのように自然に。
悠斗は一瞬、息を飲んだ。
胸の奥が震え、目の奥が熱くなる。
それでも、すぐに顔を伏せた。
「……行ってきます」
ぶっきらぼうに言い残し、ドアを開けて外へ出る。
振り返れば、きっと涙が出てしまう気がした。
(母さんも……思い出してくれたんだ)
春の風が頬を撫でた。
それがまるで“頑張ったね”と誰かが囁くように優しかった。
教室に入ると、拓真がすでに待っていた。
彼は机の上に身を乗り出し、興奮気味に手を振る。
「悠斗!聞けよ!全部思い出した!本当にいたんだな、白瀬紗良!」
悠斗は息を呑んだ。
拓真の瞳は真っ直ぐで、曇りがなかった。
ただの“違和感”ではなく、“確信”を宿した目だった。
「夢を見たんだよ。お前と紗良と俺で、くだらねぇ話してさ……。
あんなの、作り話じゃねぇ。全部、あったんだ。
……お前、ずっと一人で頑張ってたんだな」
悠斗の胸に、言葉にならない想いが込み上げてくる。
ずっと孤独だった。誰も信じてくれなかった。
でも今、確かに“世界”が揺らいでいる。
悠斗は静かに笑った。
(……どうだ。ここまで来たぞ)
心の中で誰かに向かって叫ぶ。
観測者でも、神でも、何か分からない“この世界の操り手”に。
(どこの誰かは知らないけど……お前の筋書きどおりには進ませない。
俺は、俺の選んだ結末に辿り着く。
紗良を取り戻して――あの日を、越えてみせる)
机の上の光が、ほんの一瞬、ゆらりと揺れた。
それはまるで、世界そのものが、悠斗の反抗に小さく反応したように見えた。
悠斗の胸の奥では静かなざわめきが止まらなかった。
机の向かいで、宮坂あかりが小さく息を吐いた。
指先には、以前描いてくれた“あの絵”が握られている。
「……変なの。最近、この子の声が頭の中で響くの。
“また一緒にお昼食べよ”とか、“絵、上手だね”とか……
あの絵を描いてから、ずっと、どこかで私を呼んでるみたい」
悠斗の心臓が跳ねた。
言葉にならない予感が走る。
「その子の名前、分かるか?」
あかりは少し俯いて、唇を震わせた。
そして、ゆっくりとつぶやいた。
「……紗良ちゃん。白瀬紗良、ちゃん……。
私、あの子と笑ってた。……確かに、笑ってたんだよ」
その瞬間、悠斗の視界がかすかに滲んだ。
ようやく――また一人、紗良を覚えている人が現れた。
その喜びを言葉にしようとしたとき、拓真が叫んだ。
「なぁ、みんな!聞いてくれ!」
その瞳は強い確信を宿していた。
「“白瀬紗良”って名前、誰か覚えてるか?
……いたんだよ、このクラスに!いや、この町に!
お前ら、思い出せよ!」
教室が静まり返る。
その“名前”を聞いた瞬間、いくつもの顔が微かに揺れた。
眉をひそめる者、首をかしげる者、言葉にならない何かを探すように目を動かす者
その沈黙が、確かに何かを“刺激した”。
拓真が拳を握りしめ、叫ぶ。
「いたんだよ!紗良って子が!お前らの中にも――!」
その瞬間だった。
誰かが呻いた。
そして次の瞬間、全員が一斉に頭を抱える。
「っ……ぐ、あ……!?」
「頭が……痛いっ……!」
金属を擦るような鋭い音が、空気を裂いた。
教室の天井から、誰にも聞こえないはずの“警告音”が直接脳に響き渡る。
蛍光灯が明滅し、空気が震え、机の脚が軋む。
悠斗も思わず膝をつき、耳を塞いだ。
しかし、その音は鼓膜ではなく、“記憶”を削るように響いていた。
――その時だった。
真っ白な光が視界を塗りつぶす。
そして、暗転。
悠斗は闇の中に立っていた。
重力も方向も分からない、ただ無音の空間。
遠くで、ぽつり――水滴の落ちる音。
その中に、微かなすすり泣きが混じっていた。
(……この声……)
胸の奥が熱くなった。
探すように歩みを進める。
闇が淡く揺れ、遠くで光が灯る。
そこにいたのは、一人の少女――紗良だった。
暗闇の床に膝を抱えて座り込み、顔をうずめて泣いている。
髪は乱れ、肩は小刻みに震えていた。
その姿があまりに儚く、胸が締めつけられる。
「……紗良……!」
名を呼ぶと、紗良の体がびくりと震えた。
顔を上げた彼女の瞳が、光を宿す。
涙の粒が頬を伝い、唇がかすかに震える。
「……ゆ……悠斗くん……?」
掠れた声だった。
けれど、その一言が、世界の闇を少しだけ明るくした。
「ここに……いるの……?本当に……?」
悠斗は駆け寄ろうとする。
しかし、一歩踏み出すごとに、紗良の姿が揺れ、変わっていく。
幼稚園の紗良、制服姿の紗良、そして大人になった紗良――
時の流れが一瞬ごとに交錯し、姿が定まらない。
「なんで……こんなところに……」
「分かんないの。気づいたら、ずっとここにいるの……。
真っ暗で、何も聞こえなくて、寒くて……。
怖くて……何度も呼んだの。
誰も、来てくれなかったのに……やっと……来てくれた……」
紗良の声が震えながらも、確かに悠斗に届く。
彼は手を伸ばした。
けれど、その手が触れる直前、空間が波紋のように揺れた。
二人の距離が、また遠ざかる。
「紗良っ!」
「いやだ……!行かないで……!!助けて……!ここから出たいの!!」
彼女の叫びが、世界の闇を切り裂いた。
涙が宙に舞い、光の粒になって弾ける。
「待ってろ! 俺が――必ず助ける!!」
悠斗の声が届いた瞬間、闇が激しく波打つ。
ノイズが走り、光が閃く。
紗良の姿が崩れかけながらも、最後まで必死に手を伸ばしていた。
「……お願い、悠斗くん……また……一緒に、桜を見たい――」
その声を最後に、世界が音を失う。
白い閃光。
そして――静寂。
目を覚ますと、そこは教室だった。
机に突っ伏したまま、皆がうめいている。
あかりの頬には涙の跡があり、拓真も額を押さえながら顔を上げた。
窓の外では、春の陽光が灰色に濁っていた。
空は微かに歪み、まるで世界そのものが息を潜めているように見える。
悠斗は拳を握りしめ、胸の奥で呟いた。
(紗良は――生きてる。この世界のどこかで、まだ“存在”してる。
そして、俺を……呼んでる)
その目には、もう迷いがなかった。
次に進むべき道は、ただ一つ。
“彼女を取り戻す”。
それが、たとえこの世界そのものを敵に回すことになっても。
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