第5話 存在の欠片とはじめての味方

朝の教室は、どこか薄い膜の向こう側にあるようだった。

 雨が窓を叩く音だけが、現実をかろうじて形づくっている。

 悠斗は、先生の机の前に立っていた。

 紗良の幼稚園時代のクラス担任——柔らかな雰囲気の女性だった。

 記憶の中では、いつも穏やかに笑っていた人。

 

だが、今はその瞳に戸惑いが宿っている。


 「……白瀬紗良、って子。覚えてませんか?」


 悠斗の声は震えていた。

 教師は、少し考えるように首を傾げてから、ゆっくり首を横に振った。


 「……そんなお名前の子は、このクラスにはいないよ」

 

その一言で、心臓がずしんと沈んだ。


 「そんなはず……ない。いたんです。栗色の髪で、よく絵を描いてて、

  いつも笑ってて……俺の、隣にいた……!」


 「でも、本当にそんな子いないよ?」


 

先生はそれ以上、何も言わなかった。

 悠斗は教室を出た。

 幼稚園が終わると、母親が迎えに来たが、行きたい所があると言い、

 ついてきてもらう事にした。

 悠斗は記憶を頼りに、紗良の家があった道を歩いていた。

 あの白い塀、赤いポスト、玄関の前に並んでいた植木鉢。

 全部、そこにあるはずだった。

 

だが、目の前にあったのは、まるで“新しい家”だった。

 建て替えられたわけではない。最初から、ここはこの家族のものだったかのように、 記憶の痕跡すら感じさせない。

 

悠斗は無意識にチャイムを押してしまったが、手が震えた。

 出てきたのは見知らぬ中年の女性だった。

 

 「すみません、ここって紗良……白瀬さんのお家じゃないですか?」



 「え?うちはずっとこの住所ですよ。白瀬さん……って誰?」


 母親が慌てて謝った。

 扉が閉まる音がやけに遠くに聞こえた。

 

それから、数日が過ぎた。

 時間だけが、無意味に流れた。

 食事の味もしない。眠っても、夢の中まで“空白”が追ってくる。

 街の景色は変わらない。

 人々も笑っている。

 

なのに——世界が欠けている。

 まるで心臓の半分を抉り取られたような感覚。

 やがて、静かな怒りが、胸の底で燻り始めた。


 「……ふざけんなよ。」


ある晩、大雨が街を叩きつけた。

 窓の外は、まるで滝のような豪雨。

 それでも悠斗は傘を持たず、玄関の扉を開けた。


 「もう、黙ってなんかいられるか。」


びしょ濡れのまま、夜の街を走る。

 靴が跳ねるたびに泥が飛び散り、視界は滲んでいた。

 目指す先は、あの日の——桜並木。

 季節外れの雨の中でも、あの道の形だけは覚えている。

 息が切れる。

 胸が痛い。

 

けれど止まれなかった。

 到着した時、風景は灰色に沈んでいた。

 あの桜並木の道も、今は花びらの代わりに雨粒が降り注いでいる。

 泥水が地面を這い、街灯の光が歪んで揺れた。

 悠斗は、両手を広げ、空を見上げた。


 「なあ……聞こえてんだろ!」


 声が雨にかき消される。

 だが構わなかった。喉が裂けても構わなかった。


 「俺が告白する場所に行かなかったから、もう紗良は必要ないとでも思ったのか?

  “存在”をなかったことにして、俺に紗良のいない世界を生きろって?

  ふざけるな……!」


胸の奥で、何かが爆ぜた。


 「どこのどなた様か知らねぇがな!お前か、お前らか知らないが思い通りには、

  絶対にさせるか!!俺は絶対に紗良を取り戻す!!そしてあの日を越える!

  お前らが望まない——ハッピーエンドにしてやる!!!」


叫びが、雨の中に溶けた瞬間。

 ——轟音が空を裂いた。

 閃光。

 視界を焼く白。

 次の瞬間、桜並木のすぐ脇の木に、雷が落ちた。

 爆発のような衝撃が辺りを震わせ、

 風が渦を巻いて悠斗を押し倒す。

 耳鳴りがする。

 地面に伏せたまま、雨が頬を叩く。

 それでも悠斗は、叫んだ。


 「やってみろよ!!!」


声が雷鳴に飲まれた。

 空は光り、風景が歪み、世界が一瞬、色を失った。

 その一瞬、悠斗は確かに見た。

 ——雨の粒の中で、誰かが微笑む幻を。

 紗良だったのか、それとも“世界”そのものだったのか。

 確かめる間もなく、

 視界は、真っ白に弾け飛んだ。

 静寂。

 雨音も、風もない。

 ただ、光のない“何か”の中で、悠斗は立っていた。


家の前にたどり着いたとき、雨はまだ止んでいなかった。

 全身ずぶ濡れで、靴の中まで水が染みている。

 玄関の灯りが、ぼんやりと滲んで見えた。

 鍵を開ける手が震える。

 扉を開けた瞬間、温かい空気とともに母親の声が飛んできた。


 「悠斗!? ちょっと、どうしたの、その格好!」


リビングから走ってきた母親が、タオルを手に顔を覗き込む。

 肩まで濡れた髪、泥の跳ねた服。

 その姿に、母親の顔が驚きから心配へと変わった。


 「大丈夫、どこか怪我したの!?」


 「……してない。」


悠斗は、重たい声でそう言って靴を脱ぎ、そのままリビングの椅子に腰を下ろした。

 母親は黙ってタオルで悠斗の髪を拭く。

 その温かさに、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。


 「……ねえ、お母さん。」


 「なに?」


 「ちょっと、信じられないかもしれないけど……話してもいい?」


 母親は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに頷いた。


 「もちろん。ちゃんと聞くから。」


——そこから、悠斗はすべてを話した。

 社会人として紗良に結婚を申し込み、成功した瞬間に幼稚園時代へ戻ったこと。

 何度も何度も繰り返しているループのこと。

 告白をしても、逃げても、拒んでも、必ず“同じ日に戻る”こと。


そして——紗良が、世界から完全に消えたこと。

 母親は、最初は息を呑んだように黙っていた。

 けれど、途中で一度も遮らなかった。

 ただ真剣に、息子の言葉を最後まで聞ききった。

 悠斗が話し終えたとき、部屋の時計はもう深夜を回っていた。

 雨の音だけが静かに響いていた。


 「……信じられない話だと思うでしょ。」


 悠斗は、うつむきながら言った。

 母親は小さく首を横に振った。


 「信じるよ。」


 「え……?」


 「知らない人の家を訪ねてからの数日、悠斗の様子がずっとおかしかった。

  笑わなくなって、何かに怯えてるみたいで。

  それに——母親の勘って、案外当たるのよ。」

 

そう言って、優しく微笑んだ。


 「たとえ他の誰が信じなくても、私は悠斗の話を信じる。

  だって、今のあんたの顔、“嘘をつく顔”じゃなかったから。」

 

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。

 気づけば、涙がこぼれていた。

 悠斗は、堰を切ったように泣き出した。


 「……母さん、俺……もうずっと一人で……」

 

言葉にならない声を漏らしながら、母親の腕の中に顔を埋めた。

 母親は何も言わず、ただ静かに頭を撫でてくれた。

 温もりが、心の奥まで染み渡る。

 孤独の中で凍っていた何かが、ゆっくりと溶けていくようだった。

 

——こんなにも、救われるものなのか。

 ひとしきり泣いたあと、悠斗は目を拭い、深く息を吐いた。


 「……ありがとう、母さん。」


 「いいのよ。何があっても悠斗は私の息子なんだから。」


その言葉を背に、悠斗は自室に戻った。

 机の上には、いつも通りの景色が広がっている。

 けれど、もう何も“いつも通り”ではなかった。

 紗良を取り戻すために、何をすればいいのか。

 ——一人きりじゃなくなった今だからこそ、考えられることがある。

 母親のように、“他の人を巻き込む”こと。

 世界が「白瀬紗良」という存在を消したのなら、

 

今度はこちらが「その不在」を“現実”として認識させる。

 幼稚園の先生、同級生、近所の人。


 「紗良って子、いたよね?」と少しずつ話を振る。


 直接思い出せなくても、誰かがほんのわずかでも違和感を抱けば、

 世界に“ひび”が入るかもしれない。

 たとえば、誰かが「そういえば、そんな子がいた気がする」と言うだけでも——

 それは世界の修正が破綻し始めるサインだ。


 「そうだ……“存在の欠片”を探せばいいんだ。」


 紗良が描いた絵、撮った写真、何気ない記録。

 どれも世界が完全に消しきれなかった“痕跡”かもしれない。

 もし、誰かの記憶や記録の中に、たった一つでもそれが残っていれば——

 その瞬間、“彼女の存在”は再び“観測”される。

 それが、世界を揺り戻す最初の一撃になる。

 その夜、母親がドアをノックした。


 「悠斗、まだ起きてる?」


 「うん。」


 ドア越しに優しい声が聞こえた。


 「何かあったら、いつでも頼ってね。

  どんなことでもいいの。……一人で抱えないで。」


 「……うん。ありがとう。」


母親の足音が遠ざかっていく。

 部屋の明かりを落としたあとも、

 悠斗の胸の中では、確かに“灯り”がひとつ灯っていた。

 もう、独りじゃない。

 ——たとえ世界が否定しても、信じてくれる人がいる。

 その事実が、心の奥に強い熱を残した。


 「絶対に、取り戻す。俺が、俺たちの現実を取り戻してみせる。」

 

 雨の止んだ夜空に、新しい風が流れた。

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